第36話

 ビアトリスはその日、図書室の隅、壁際のコーナー席にいて、一人ノートを開いていた。


「噓、解けたわ」


 図書室の書架から探し出した設問集の解答欄を見て、小さく呟いた。


 ビアトリスは本気になった。今までコンプレックスだった苦手な数学を克服しようと、ようやく重い腰を上げた。

 今もかなり難易度の低い設問にチャレンジしていた。


 解答から辿ると良いと教えてくれたのはマチルダで、半信半疑のビアトリスだったのだが、結果は彼女の言う通りだった。


「どうしましょう。このままでは天才になってしまうわ」


 そんなことはある訳ないのに、ビアトリスは数学者にでもなってしまった未来を思い描いて「あるわけないか」と考えを改めた。


 図書室とは誠に有難い場所である。

 数学の本がこんなにあるとは知らなかった。

 ハロルドが十一歳で解いたという参考書には十八歳でも迷子になったが、マチルダに手助けされて乗り越えた。


 それからは欲が出てしまって、数学の猛者のように数字の世界にハマっている。


「ビアトリス嬢?」


 感慨深く正解の解答を目に焼き付けるように見ていると、横から呼ばれて振り向いた。そこにはハロルドが立っていた。


「まだ帰っていなかったの?」

「え、ええ、ハロルド様。ちょっと読みたい本があって」


 数学の設問に取り組んでいるのを見られるのが恥ずかしくて、ビアトリスは思わずノートを閉じた。


「それ、設問集?」


 ハロルドは机の上を見て、ビアトリスが何をしていたのかわかったようだった。


「一人で頑張っていたの?」

「ええ、まあ」


 努力する姿を人に見られるのは恥ずかしい。

 もう今日は帰ろう。迎えの馬車も着いているだろう。


 ビアトリスは鞄にノートを仕舞い込み、設問集を書架に返却するために立ち上がろうと腰を浮かした。


「水くさいね」

「え?」

「僕に言ってくれてもよくない?」


 よくない?と言って、ハロルドはコテンと首を傾げて見せた。その仕草が可愛く思えて、ビアトリスは思わず目を逸らした。


「そうだ」


 なんだ?

 ハロルドの呟きに釣られてちらっとチラ見すれば、彼はこちらに一歩近寄り、ビアトリスを覗き込むように視線を合わせた。


「僕と勉強会をしない?」

「ええ?勉強会?」

「頑張り屋さんなビアトリス嬢のお役に立てると思うけどな」


 貴方が一緒では集中できそうにありません。

 毎日机を並べているが、それとこれは別である。


「結構です」


 咄嗟に飛び出た言葉は、ぶっきらぼうものだった。


「じ、侍女が教えてくれますから」

「へえ」


 低くなった声音に、思わずハロルドを見てしまい、そこでパチッと目が合った。


「仕方がないな。では正攻法で攻めようかな」

「正攻法?」

「ビアトリス嬢。君を観劇にお誘いしても良いかな?」

「観劇?」


 先日の観劇は楽しかった。だが、あの後ウォレスと鉢合わせになって、あれよあれよという間に破談になったばかりである。


「私、これでも一応、傷心中ということになっているんです。大人しくしてろと父にも言われておりますし」


 断腸の思いでお断りをすれば、胸がしくしくして切なさがこみ上げる。

「君はなにも非はないのに?」

「ええ、まあ、所謂傷もの扱いですわ」


 自虐的なことを言ってはみたが、本人はノーダメージであるからなんとでも言える。


「ハロルド様?」


 ハロルドは、そこでビアトリスの前に座った。横並びで座るのは慣れていたが、こんなふうに向かい合うことなんて今までなかった。


「君は傷ついてしまったの?」


 ハロルドが真っ直ぐこちらを見つめている。それは不思議な光景だった。深翠の瞳が二つ、ビアトリスをじっと見つめている。


 アメリアの睫毛は長かった。マッチ棒が乗ると思った。だが、ビアトリスは知っている。

 いつもハロルドの横顔を見つめていたから、彼が目を伏せると長い睫毛が目元を覆う。きっとハロルドの睫毛にもマッチ棒は乗るだろう。


 教科書を見つめて目を伏せる横顔なら見慣れているが、こんな至近距離から、こんな正面から、彼に見つめられてしまうなんて。


 眼福。


 心の中で歓喜しながら、直視できずに俯いてしまった。


「このまま帰国したくないんだ」


 え?帰っちゃうの?

 卒業までまだ数ヶ月ある。だがあと数ヶ月で、彼は隣国に帰ってしまう。どうしよう、胸が痛い。


「一人では帰りたくない」

「ひとり?」

「何のためにわざわざここまで来たと思う?」


 何のためと聞かれて、勉強の為?としか答えが見つからなかった。


「イサベル様から聞いていたんだ」

「お、叔母様!?」


 つい大きな声になって慌てて口を噤んだが、ハロルドが叔母の名を口にしたことで、ビアトリスは思い出した。


 ハロルドは、叔母の夫の縁戚である。叔母の夫もかつてこの国に留学していた。ハロルドが今ここにいるのだって、彼の影響があるからだろう。だが、それと叔母はすぐには繋がらなかった。


「可愛い姪がいるんだと、何度も何度も聞いていたんだ」

「可愛い?可愛い!?」


 しまった、また大きな声を出してしまった。今度は司書と目が合った。


「ひと目見てすぐにわかった。イサベル様とそっくりだったから」

「貴方、そんなことはひと言も言わなかったじゃない」

「知っていると思ったんだよ。同じ家名なんだから」


 ハロルド・グラハム・アーソル。

 隣国アーソル侯爵家の次男、それがハロルドだ。家名のグラハムは、叔母夫婦の家名でもある。彼らは同じ一族なのだから。


「イサベル様が楽しみにしているんだ」

「叔母様が?なにを?」

「僕が君を連れ帰るのを」


 ハロルドはなにを言っているのだろう。自分は夢をみているのだろうか。

 いいや、夢なんかじゃない。これはきっとあの箱が、象牙の箱がビアトリスの秘密の言葉を聞き入れたのだ。


 ビアトリスは、嘗て叔母が呪詛を吹き込み、今は毎夜毎夜ビアトリスが内緒の言葉を吹き込んでいる、乳白色の象牙の小箱を思い浮かべた。




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