第35話

「ビアトリス様」


 ビアトリスは驚いた。彼女が一人でいるところを久しぶりに見たような気がした。彼女はいつだってエリックとロゼリアのそばにいて、彼女のそばにはいつだってウォレスがいた。


「アメリア様⋯⋯」


 アメリアは、ととと、とこちらへ小走りになって駆け寄ってきた。


「ど、ど、」どうなさったのと言おうとして、その先が続かなかった。アメリアに両手をがしっと握られて、大きな瞳で覗き込まれた。


 睫毛が長い。


 あまりに顔を寄せられて、こちらが照れてしまうほどアメリアの顔がよく見えた。長い睫毛が瞳を囲んで、マッチ棒が乗るのではないかと思った。


「ビアトリス様、大丈夫?」


 両手を握り込まれたまま、ビアトリスはカクカクと頷いた。アメリアの言う「大丈夫」とは、多分、ウォレスとの破談のことだろう。


 アメリアとは不思議な令嬢だ。

 ビアトリスは、彼女の存在に悩まされてきたわけではない。悩ませたのはウォレスである。ウォレスの不誠実を辿るなら、真っ直ぐアメリアにぶち当たるのだが。


 なのにビアトリスは、お人好しと言われても仕方ないくらいにはアメリアに思うことはなかった。なぜ彼女がいつでもエリックのそばにいるのかは疑問である。


 今もこんな廊下のど真ん中で向かい合わせで覗き込まれて、困惑はあっても迷惑には思っていない。少しばかり対応に困っているが。


「えーと、大丈夫です」


 大丈夫?と聞かれたから、大丈夫と答えた。現にウォレスとの縁が解かれても、心のダメージはゼロである。


「ビアトリス様」

「はい」


 向かい合う二人を避けながら、生徒たちが通り過ぎてゆく。

 十年前の騒動と重ねるように見られているアメリアと、彼女に婚約者を奪われたと思われているビアトリスである。


 その二人が親しげにしていることに、周囲は好奇の視線を向けていた。


「今度、お茶にお誘いしてもよろしいかしら」


 よろしくありません。そう言えたならどれほど楽だろう。

 アメリアに思うことはなくても関わり合いにはなりたくない。どうしようと思案していると、アメリアの背後にルーファスが見えた。


 ルーファス!!


 声を上げられないまま思念と視線でルーファスを呼べば、流石は双子。ルーファスはこちらに気がつきにやりとした。


 ニヤニヤしてないで早く来て!


 多分、ビアトリスはルーファスを呼ぶのに顔芸を披露したのだろう。アメリアに首を傾げて見つめられた。


 その長い足は、どうしてそんなにゆっくりなんだ!


 ルーファスは、ニヤニヤしながらのんびりこちらに歩いてくる。ムキーっとなった感情がそのまま顔に出たらしく、アメリアはビアトリスの視線を辿って後ろへと振り返った。


「まあ、ルーファス様」


 ルーファスは、アメリアに声をかけられて、ビアトリスが顔芸でサインを送ったときより早足になった。


 ルーファスめ!

 姉よりアメリアを優先するだなんて。あとで仕返しをしたいと思っても、大抵のことがルーファスに及ばないビアトリスには、弟をとっちめる方法が思いつかなかった。


「アメリア嬢、ロゼリア嬢が探していたよ」


 その言葉に、アメリアは直ぐに反応を示さなかった。おっとりしたアメリアが、その瞬間、鋭い眼差しをルーファスに向けたのは気の所為だろうか。


「本当?」


 アメリアの声音は先ほどよりも低く聞こえた。


「本当だよ」


 アメリアは、ビアトリスの両手を握ったまま、ルーファスを見つめた。どんな顔をしているのか、ビアトリスからは見えなかった。


「残念だわ」

「え?」


 こちらに向き直ったアメリアはまなじりを下げて、言葉通りに心底残念だという顔をした。


「ビアトリス様とお話できるのは久しぶりだったのに。ルーファス様に邪魔されちゃったわ」

「邪魔?」


 よほど間抜けな表情をしていたのか、アメリアはビアトリスを見つめて微笑んだ。


「ふふ、ビアトリス様ったら」


 そう言って、彼女はビアトリスの前髪をほっそりした指先で撫でた。


「ちょっと乱れていらしたから」

「え?え?ア、アメリア様?」


 ビアトリスはすっかり驚いてしまって、そのまま固まったようにアメリアを見つめ返した。マチルダ以外に髪を梳かれるなんて経験したことがなかった。


「早く行ったほうがいいよ」

「わかってるわ」


 ルーファスに催促されて、アメリアは憮然とするような顔をした。そんな気安い表情が珍しくて、ビアトリスは驚いたまま二人の顔を交互に見た。



「口、閉めたら」


 アメリアが廊下の奥に小さくなって、その後ろ姿を見つめていたビアトリスに、ルーファスが呆れたように言った。


「なんだったの?今の。って、それよりルーファス、貴方」


 あれだけ目力強めに合図をしたのに、なに呑気にニヤついてたんだ!


 ここは抗議すべきだろうとルーファスに食ってかかろうとして、先を越されてしまった。


「なんで絡まれてたんだ?」


 ルーファスは、本気でビアトリスがアメリアに絡まれていると思ったのだろう。その割に面白がっていたが。


「偶然声をかけられただけよ」

「へえ」


 双子で並びながら廊下を歩けば、すれ違う生徒からチラチラと視線を感じる。そう言えば、ルーファスとこんなふうに学園で一緒に歩くことは珍しい。


「ルーファス、貴方、殿下のおそばにいなくてよいの?」

「ああ、アメリア嬢を連れ戻しに来たんだ」

「連れ戻す?」

「お前が絡まれてるんじゃないかと思って」

「嘘」

「はは。ロゼリア嬢が探していたから」


 どうやらルーファスは、アメリアに嘘を言ったわけではなかったようだ。


「ちょっと驚いたわ。アメリア様と二人でお話するのって、小さい頃のことだったから」


 ルーファスは、それにはなにも言わず、ただ、じっとビアトリスを見た。


「まあ、これからはよく前を見て歩くことだな」


 そう、よくわからないことを言った。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る