ベランダの鳥は自由を手にいれたのか


 夏の夜風は、決して涼しいものではない。


「今夜も暑いな……」


 すばるは一人、缶ビール片手にベランダの縁にもたれかかっていた。

 見慣れた都会の夜景、目新しいものはなにもない。


「やっぱり。今日もいた」


 隣のベランダから声が聞こえた。隣人の佳奈だ。

 彼女もまた缶ビール片手にベランダへ出てきた。

 それがベランダここでの共通事項。



 二週間前。

 

「お互い、似たような夜を過ごしてますね」


 缶ビールを傾けた昴が、冗談半分でそう声をかけた。

 それ以来、二人はベランダ越しに短い会話を交わすようになっていた──。




「今日も暑いね」

 

 佳奈は呟く。その姿は、ぼんやりと高層ビルの光に浮かんでいる。


「夏ですからね」

「それもそうだね」


 彼女は苦笑しながら、缶ビールを掲げた。


「ねえ。今日はどんな日だった?」

「いつも通りです。仕事して、疲れて帰ってきて、こうしてビールを飲む」


 短い会話の裏に、互いの孤独が滲んでいるようだった。


 佳奈はベランダの手すりに肘をつき、夜景を眺め出す。

 その視線は思い詰めたようにどこか遠くを見ていて、思わず言葉を飲み込んだ。


「ベランダって鳥籠みたいだよね」

 

 佳奈がふいに言った。


「鳥籠、ですか?」

「そう。外なのに塀があって全然自由じゃないでしょ。こんなに空は近いのに」


 返す言葉が見つからず、ただ佳奈の横顔を見ていた。

 微かに笑っているようで、でもすぐに壊れそうな儚さを漂わせている。


「あの……しんどいことがあるなら、話してくれませんか?」


 その言葉に佳奈は一瞬だけ動きを止めた。そして、小さく首を横に振る。


「大丈夫。話したって、何も変わらない」


 その答えは昴の胸に小さな痛みを残す。


「もう寝るね」

 

 そう言って部屋に戻っていく。光を受けて風になびいた髪が綺麗だった。



 次の日、佳奈の姿を見ることはなかった。

 その翌日も、そしてその次の日も。


 一週間後。

 会社から帰宅すると、管理人と警察が慌ただしく佳奈の部屋に出入りしているのを目撃した。


「どうかしたんですか?」


 その問いに管理人は険しい顔をする。


「ご家族から何日も連絡がつかないって通報があって。それで入ったら……」


 それ以上は聞けなかった。

 ただ、佳奈がもう戻ってくることはないと悟るには十分だった。


 昴はいつものようにベランダに出る。

 隣のベランダは空っぽで、明かりが灯ることもない。


 ──鳥籠を出た彼女は、自由に空を飛んでいるのだろうか。


 そうであってほしいと、缶ビールを傾ける。

 夏の夜風は、やはり涼しくはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る