第40話 レコード

 「今日も膝だけでバランスを取って渡り切るおつもりですか」


 北朝霞駅と西川口駅に挟まれた長くて、大揺れに揺れる鉄橋にオレンジ色の車両は差し掛かろうとしていた。


 「いや、今日だけは疲れ切った。このまま座らせてもらうよ。もしも眠ってしまったら武蔵浦和駅に到着する前に起こしてくれ。たぬきで一杯おごらせてくれ」


 それだけを言うと盲目の初老人は本当に眠ってしまった。最初はスヤスヤという言葉で表現できたが、わずか一駅のあいだに大きなイビキをかきはじめ、きっと疲れているのだろう、懐かしき故郷への小旅行と言っても目が見えないうえに足を踏み入れた場所は相当に体力を奪い取っていた。


 武蔵浦和駅で下車すると八日前と何ら変わらぬ街の中をふたりで連れ立って歩き、居酒屋『たぬき』のカウンターでビールを中ジョッキに注いでもらい、ふたりだけで乾杯をした。


 「ほんとうなんだ、ツノの曲がったカブト虫が一匹だけいたんだ。あの時の、ほら郡山から父さんが持ち帰ってきたカブト虫の幼虫だよ。ミエちゃんの葬儀の日に父さんが持って帰ってきた、姉ちゃんは覚えてないの?」


 たった三駅分だけ熟睡した初老人の言葉はなめらかに口からあふれ出て、まるで小学生の男の子が歳の離れた姉と話をしているようだった。


 「そんなこともあったね。ちょうど、吉田さんが事故で亡くなったあとだったわね」


 居酒屋『たぬき』の風景の中に初老人と私はいた。三つに区切られたおとうし用の皿にはパンで挟まれて、ひと口大にのせられた小料理が置かれ、カウンターには私と初老人だけが並んで座っていた。


 「あの時のリハビリセンターの文化祭でおこなったコンサートのレコードって今、どこにあるのだろうねぇ」

 

 カウンターの向こう側で立ったまま、私と初老人の客あしらいをしていた女主人は唐突にレコードの存在を語り始めた。


 「あったね、そんなことも。あのレコードは当時のリハビリセンターの方がいくつもの施設に贈呈という形式を使って売って歩いたんだ」


 初老人の言った『贈呈』なのか『販売』なのか解らない不思議な、相反する言葉を聞いて私は姉弟の会話に加わった。


 「コンサートの音源をレコードにしたのですか、自主制作っていうものですね」

 

 「いいや、自主制作のレコードじゃあない。僕たちと同じように盲目の若者たちが集うサークルがあるんだ。俗にいう自助会ってやつさ。そこに集まる者の中には、自分に与えられた試練に負けちまう者が多くいる。どうして俺だけが、なんで私だけが見えなくなるんだってね。失明する運命を受け入れられないのさ」


 初老人は一杯目のビールを飲み終えると「冷酒をふたつ、おひとよしさんも冷酒でいいだろう」


そう姉である女主人に注文した。冷酒のグラスには黒い取っ手が付けられていて、これも先週と同じ光景だった。


 「自助会を併設している病院に僕たちのレコードを持ち込んで、そのかわりに寄付金をもらう。簡単に言ってしまえば押し売りだな。でもね、レコード化してくれたのは誰もが知っているレコード会社だよ。千枚分プレスした。そのすべてを売り切ったんだ。だから僕の手元にも姉ちゃんのところにも残されていないんだ」


 いまはCDの時代だ。不必要になったレコードならば中古のショップで見つけられるのではないだろうか、私はそう提案してみた。


 「いいや、正規品ではないし、僕たちはプロでもない。だから不要になったレコードは燃えないゴミになったか不燃ゴミとして回収されてしまったと思うよ」


 かつて自身に与えられたハンディキャップを跳ね返し生きてきた吉田深雪という女性の声も、若かりし日の初老人、村尾良雄の記録もレコード化されたのに残されてはいないということなのか。


 「ねぇ、良雄、お姉ちゃんはレコード会社から一枚だけもらっていたよ。秋津駅の先にあるクリスチャン系の病院が運営する自助会の人達に聴いてもらおうと思って、持っていったままになっている。返してもらった記憶がない」


 「その病院の自助会って、清瀬の踏切を所沢方面に向かっていって、左側の住宅地の中にある病院だよね。僕もあそこなら自助会に参加して話をしに行ったことがあるよ」


 弟さんの過去の行動を知った姉はすぐに言葉を返してきた。


 「電話をして聞いてみようか。もしかしたらレコードが見つかるかもしれない」


 目の見えぬ実の弟が一世一代のコンサートをおこないレコードプレスされ、そのレコードを貸したまま忘れていた姉の言い訳を聞いてみたくなったが、貸したことを思い出しただけでも良かったことにしよう。


 「もしレコードが見つかったらおひとよしさん、聴いてみるかい。彼女が作った曲は素晴らしいよ。アマチュアの域を充分に超えている」


 私と盲目の初老人は来週の日曜日、午後三時に三たび、ここ居酒屋『たぬき』で会う約束をし暖簾をくぐり出た。公団の賃貸団地に辿り着くまで初老人は私の右の二の腕を柔らかく握ったまま居酒屋での話を続けた。


 「あのレコードがもしも見つかったならば僕も聴きたいものだ。吉田深雪という女性の遺言のような詩を僕はずっとここ、胸の内に仕舞って生きてきた。そうしなければ挫けていたよ。姉は黒く呪われた血のせいで一生、独身を貫いた。レコードが見つかったら姉か僕からおひとよしさんに連絡するよ。貸したままになっているレコードは清瀬の病院まで僕が取りに行ってくる」


 初老人は白杖を持った右手を自分の左胸にあてて言葉を続けた。


 「西武線の秋津駅を降りたら道はまっすぐなんだ。志木街道の信号を左に曲がって、住宅街を貫く小径の左に病院はある。慣れている道順だ。おひとよしさんは針を落として聴くレコードプレーヤーをお持ちかい?」


 「アナログのステレオセットのことですね、持っています。チューナーとカセットレコーダーは壊れて動きませんが、レコードだけでしたらスピーカーから音を出すことは出来ます」


 私は初老人の問いに即答しただけだが、なぜか『フン!』と鼻を鳴らし返してきた。きっとそれが癖なのだろう。

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