第38話 約束の街
「西口側に降りるんだ。そうすると大きなロータリーがある、ロータリーの真ん中に大木があるはずだ。交番が見えれば間違えていない」
盲目の初老人に言われるがまま私たちは東武東上線の鶴瀬駅で下車し、目的地である五円池へ徒歩で向かった。
「赤くて四角い郵便ポストはあるかい?」
初老人の記憶どおり駅前ロータリーと歩道を区切るように設置されているガードレールの切れ目に赤いポストは設置されていた。
「父は毎日、ここに立って僕の帰りを待っていてくれたんだ」
初めて会った時よりも初老人の口数は多く、遠い記憶を辿りながら五十年以上も前の映像を頭の中で再生しているのだろう。
「交番はあるかい?この前、話した交番なんだ。もちろん巡査は違う人に替わっているだろうけれどもね」
交番を通り過ぎると大通りがYの字型に別れている。初老人の記憶の中には存在しない道路が作られていたが迷うことなく「左側の道を行く」と言い、私を引きずるようにして歩を進めていった。
「ここには昔、ボーリング場があったんだ。無料で観ることのできる映画館もあって赤ひげはここで観た」
軽快になっていく会話のテンポは初老人の若かりし日に見た光景が順を追って映像と化して蘇っているからだろう。しかし「赤ひげはここで見た」とはどういう意味だろうか。
「黒澤明監督、三船敏郎主演作品、名作中の名作、映画のタイトルだよ。観た方がいい」
戦後間もない映画のタイトルを言われたって解るはずがない。
「左側に郵便局があるだろう。大きい郵便局だ。通りを過ぎたら次の交差点を左に曲がってくれ」
言われたとおりの場所に郵便局はあり、その先にはやたらと背の高い高級そうなマンションが夏の陽を照らし返して光って見える。
「マンションは僕の記憶にはない。ここには大きなグラウンドを持った幼稚園があったんだ。少子化が進んだ時代だから土地を売っちまったんだろう。僕はここの卒業生じゃあない」
初老人は自分の世界に入り込んでいる。
私はただの付き人と化した、あるいは説明を熱心に聞いている観光客だろうか。
「小学生の頃、授業が終わると、このグラウンドに集まり野球をしたものだ。僕は下手なんてものじゃあなかった。バットにボールがまったく当たらん。それでも仲間外れにされたことはなかった。クラスメイトの中で一番、背の高い者がリーダー的な存在になっていた。この同級生がいつも僕を守ってくれていたんだ。僕は三月生まれだから背は低い、運動もからっきしダメ。同じチームに入ったら厄介者だったと思うよ。でもね、みんなが友達だったんだ。仲間さ、友情と言い換えてもいいだろうね」
左に曲がると路は狭くなりクルマがすれ違う事は出来ない。道を挟んだ両側には古びれた戸建がところ狭しと並んでいた。
「下り坂をまっすぐいくんだ。そうすると行き止まりになるはずだ。行き止まりの先が雑木の山だ」
初老人の言うとおり下り坂を降りきると行き止まりになっていて、ブランコとすべり台だけの小さな公園があるだけだった。
「雑木林に入っていける場所がありませんよ。それに雑木林っていうより竹林です。きっと手入れされずに放置されていたのでしょう。倒れた竹が幾重にも重なっていて、足を踏み入れる隙間なんてどこにもないです」
私の言葉は初老人をがっかりさせたかもしれないが、見たままを伝えた。放置された竹林ほど厄介なものはない。住宅の屋根さえも貫通してしまうほどである。
初老人は現実を受け入れても諦めずに、次の手段を私に告げてきた。
「小さい公園の前を右に進める道はあるかな。その先も突き当たりのT字路になっているはずだ。そこを左に曲がって、あとは道なりに進んでいくと雑木林の反対側に行けるんだ」
言われるがまま腕を引っ張られながら、竹林を左側に見続けるように大廻りしていった。途中に長い上り坂があり、ふたりで息を切らせて登りきると「坂を登り切ったのだから左側が低地になっているはずだ。その奥が五円池だ。どうだ、あるか、見えるか!」
初老人の声は大きくなり少し興奮しているように聞こえた。しかし私の目に映ったものは起伏を崩して整地し、建設された会員制のスイミング・スクールの白い建物だけだった。
嘘を言うべきか、真実を伝えるべきか、少しの間だけ迷いが生じたが私は見たありのままの風景を初老人に伝えた。
「そうかぁ、あれから五十年以上が経っている、半世紀だ。仕方あるまい、帰ろう、付き合わせてしまったね」
初老人と私が立ち止まっている歩道からはプールで泳いでいる人たちの様子がうかがえる。おそらく、そのほとんどがこの街の住人であろうが初老人を知る者はいるまい。時間の流れは人の存在さえも消し去ってしまうものであるから自身の内に大切に仕舞っておかなければならない。それが思い出というものに変わるのだろう。
初老人は確かに「帰ろう」と私に向かって言った、にもかかわらず歩を返そうとはしなかった。右手に握りしめた白杖を路面からゆっくり浮かせ、スイミング・スクールの入り口である自動ドアの方角に杖先をまっすぐに向けた。
「あそこだ、あそこに五円池がある。澄んだ水を湛えて、数十年も前から水辺に生きる命を守り続けてきたんだ。僕はこの目ではっきりあの日見たんだ」
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