第25話 タマムシ

 日曜日の早朝、父と僕は裏山の奥にある五円池の近くまで車で向かった。たかが数百メートルに満たない距離なのだが、飼育箱を手で担いで持っていくには重たすぎたし、いつバラバラに壊れるかも心配だったので、車のトランクに入れて運んだ。


 「飼育箱、かろうじて形を保ったなぁ。壊れるかと思っていたよ」


 父が急ごしらえで作った飼育箱の木材はほとんど朽ちていて、底の板からは細かな腐葉土がパラパラと落ちてきている。きっと幼虫の時に箱の木材まで、かじって食っていたのだろう。


 「厄介なのは昆虫採集に来た子供らに見つからないように放たないとな」


 父も僕と同じ心配をしていた。ツノの曲がったカブト虫は珍種中の珍種だ。せっかく自然に帰したのに子供たちに見つかってしまったら逆戻りになってしまう。それと放すクヌギの大木には樹液がいっぱい垂れていなければならない。


 「こいつ達、黒蜜の甘さは知っているけれど、本物の樹液を舐めたらきっとビックリするくらい美味いって思うだろうなぁ」


 雑木の山の主であるらしい農家の建屋の裏側には樹齢で言うならきっと百年はそこに立っていると思われる大木がある。根元近くの幹の太さは僕の両手を回しても掴む事ができない程の大木である。樹液も白い泡をプクプクさせながら沁み出していてカブト虫はもちろん、ノコギリクワガタ、カナブンブン、それにオオスズメバチが羽を唸らせて僕ら親子を威嚇してくるだろう。もともと農家の敷地内にある樹木だから人の立ち入りはできない。当然、僕ら親子も厳密にいえば不法侵入だ。


 僕らの行く手を遮っていたのは柵の代わりに一直線に植えられていたキュウリのツル柵だけだった。キュウリは実を丸めてみどり色のすべてに細い針のような棘を付け、身を守っていた。

 この畑とも言えぬキュウリの柵を跨いで通り抜け、民家の横の細いぬかるんだ通路を父と一緒に縦に並んで進んでいくと、ほかの木々とは明らかに威厳が違う巨木が一本だけ天を貫いている。あまりにも太く、背が高いためにこの木の下だけ朝日が遮られていて夏の虫にとっては絶好の避暑地となっていた。


 「見事だなぁ、防風林として植えられたのだとしたら江戸時代からここに立っているのかもしれない」


 父は感嘆の声を発して木のてっぺんを見つめた。


 僕はクヌギの根元の土が掘り返されていないかを確認して木の裏側に目を向けた。根元が掘り返されていると、虫取りの子供が既にこの場所を知っている事を意味する。

柔らかく自然に堆積した腐葉土は掘り返されてはおらず、茶色く落ちた葉っぱの裏陰は小さな芋虫やゲジゲジ虫たちの格好の棲家になっていた。


 「父さん、裏側からも樹液がいっぱい出ているよ。根元のちょっと上のほう」


 朽ちて堆積した茶色の土の上に視線を落とすと薄い日差しを反射して美しく輝く昆虫を見つけた。羽を緑色に輝かせて、光の屈折によって黒っぽく光る線が現れたかと思えば、赤く変色したり黄色味を帯びたり、この世のものとは思えないほど美しい鉱石のようなタマムシだった。


 タマムシはすでに死んでいたが死骸に欠損は無く、脚もちゃんと六本付いたままだった。僕ら父子がこの場所に来るちょっと前にスズメバチに襲われてしまったのだろう。スズメバチが飛来してきたらカブト虫もクワガタムシも餌場を譲らなければならない。それが自然の掟だ。きっとこのタマムシは掟を無視したか単に知らなかったために殺されてしまったのだ。


 「タマムシかぁ、死骸になっても綺麗だね。父さんもはじめて見るよ。こんなに開拓が進んだ街にでもいるんだね」


 僕はタマムシの死骸をハンカチに包んでズボンのポケットにしまい込んだ。父は飼育箱の中からカブト虫を一匹、手に取ると樹液の垂れたクヌギの幹に留らせて蜜を吸い始めるのを見つめていた。


 「おいしいだろう、自然の樹液は黒蜜なんかより、よっぽど美味い」


 カブト虫は泡で満たされ、白く膨らんだ樹液の蜜を黙々と吸い込んでいく。黄色い舌を思いっきり伸ばして身体を微動だにさせることなく一心不乱に吸い続けていた。


 「餌が足りなくて、腹ペコだったのかなぁ」


 僕の独り言だった。

父と僕はカブト虫を一匹づつ手のひらに乗せてから胴体を二本の指でつまみ上げ、クヌギの樹にくっ付けて自然の中へ放していった。滴り出てくる樹液の場所だけに、個体数が多くなり過ぎてしまい、ツノが触れ合ってしまったカブト虫はピクッと後退りするものもいたが、自由を手に入れたモノたちは競い合うようにして樹液を舐め、威嚇し合い、樹を昇り始めていった。

 

 「良雄、最後の一匹だ。一番大きいけれどツノが曲がってしまっている。自然の中を生きぬいて命を繋いだら来年の夏、ここへ戻ってこいよ」


 父はカブト虫に話しかけながら、僕の手の掌に最後の一匹を乗せて託した。僕は樹液の幹には留めず、この最後の大きなカブト虫を空高く放り上げた。


 ツノの曲がったカブト虫は上空で瞬時に黒く光る背羽を開き、薄い内羽を大きく広げて躯体を左右に揺らせながら茂みをくぐり抜けて、差し込んでくる太陽の光に向かっていった。陽光はカブト虫を包み込むように光の輪をつくり、その光が僕の目には眩しすぎてすぐに見失ってしまった。


 「帰ろう」


 父に促され僕ら親子は空になった飼育箱を二人で抱えて自宅へと戻った。自宅に着くとすぐに着替えをして布団にもぐり、二度寝を始めようとすると突然、階下から母の叫び声が聞こえてきたんだ。


 「なんでポケットの中に変な虫が入っているの!」


 そうだ、すっかり忘れてしまっていた。僕が着替えをしたズボンのポケットにタマムシの死骸を入れっぱなしにしていたんだ。母にとってはカブト虫もタマムシもゴキブリも全部同じに見えるようだ。


 翌年の三月、僕はごく普通の高校生活を終えて、東武東上線という私鉄だけで通勤できる企業に障がい者雇用枠で就職した。もしも神様がいるとするなら心より感謝したい。卒業式の当日まで僕に光を残してくれた事で、これから始まる苦難のいくつかは回避できる時間を与えてもらえたのだから・・・

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