第20話 消滅

 取材当日の水曜日は明け方まで雨が降っていたことを覚えている。僕が自宅を出て、リハビリセンターのある航空公園駅に着いた頃には空は青に変わっていた。途中の道沿いのアスファルトには濡れているところもあったし、水溜りを残しているところもあった。


 取材前にリハーサルという名目で練習をおこなうため一時間以上も早くリハビリセンターの視聴覚教室に集合することになっていたが吉田さんだけが遅れていた。


 「吉田さん、遅いね」


 ドラマーが口を開いた。


 「うん」


 この言葉しか出てこなかった。


 「音合わせをしている時間が無くなっちゃうね」


 「うん」


 やはり、この言葉しか出てこなかった。


 「なにかあったのかな、事故とか」


 「それはないでしょう。慣れている道順だし、電車が遅延しているのかもしれない」


 僕はそう応じ返した。


でも彼女、吉田深雪はこの日、僕らの前に現れなかったんだ。遅刻ではなく、かと言って連絡もなく、また僕たちが彼女に電話連絡しても繋がることもなくテレビ取材は中止になった。彼女無しでは成立しないバンドだったからだ。


 翌日、木曜日の夕刻だった。

リハビリセンターの担当で、僕をバンドに引き入れてくれた先生から電話が入った。それは吉田深雪、彼女が意識不明の重体であるというものだった。


 「詳しい事は、あとで分かってから村尾君にも教える。今、言えるのは重症じゃあない、重体らしい。昨日、リハビリセンターに向かっている途中で、駅の階段から転落して頭を打ったそうだ。脳出血のようだ。ちゃんとした病名は外傷性クモ膜下出血になる。面会はできない。手術後も意識が戻らないんだ」


 吉田さんはこの日、会社に休暇届を出してリハビリセンターのある西武新宿線の航空公園駅に来ることになっていた。彼女の自宅からだったら乗り換えなしの慣れているルートである。事故に遭遇するリスクは少ないだろうと思って、僕はバンド仲間の言葉を否定したんだ。でも現実は違っていた。

彼女はこの日、まだ雨が降っている時刻に高田馬場にある勤務先に向かっていた。上りの電車に乗って僕たちが待ち合わせた場所とは全く逆方向に向かって行った。


 部署が近々に変わる事で、自宅に点字製作用紙と点字針、それに盲人用のカセットテープレコーダーを持ち帰り、ある小説の一部を点字打ちし終えて会社に持って行った。たったそれだけの要件を終わらせると踵を返して駅のホームに向かった。


 慣れた道だった。


 改札もホームに向かう下りの階段も目の見える者にしてみれば、すべてがいつもの風景となんら変わらないものだった。彼女はエスカレーターを使わない。その理由は後方から急いでエスカレーターを走り抜く人には盲人の持つ白杖が見えない時があるからだ。彼女自身の身体が白杖を見えなくしてしまう。階段を使えば白杖を左右に振って後ろから来る人にアピールすることができる。


 駅の階段に入り、彼女は左側の手すりを確認した。右側を晴眼者のために開けておくためだ。

手すりの始まる湾曲した箇所にも点字が打ってあり、今いる駅名が解る。うしろから追い越していく人に押されることはまずない。あったとしても手すりがある。万が一の時には自分の左手一本で階下への転落は防げるはずだった。


 歩き慣れている階段の段数は記憶されているので白杖は段差を測るために使うものではない。杖先に障害物が当たらないかという事と『私は目が見えません』という事を廻りにいる人に伝える、この二つの目的のために左右に振られる。


 左手に触れた階段の手すりを確かめると、一歩ずつ丁寧に彼女は階段を降り始めた。決して気など抜いていない。雨は止んでいたが階段を造るコンクリートは濡れて湿っていたはずだから普段よりも慎重に歩を一歩ずつ出していった。

 

 左脚を降ろし、白状を右に振る。右脚を降ろし白杖を左に振った。障害物は何も存在していない。彼女の左脚が次の階下を踏むと同時に小さな丸い飲料水のペットボトルを踏んだ。ペットボトルはキャップがされたまま、中の飲料水を満たした状態で落とされていた。白杖はペットボトルの上空を擦りもせずに通り越してしまい存在を教えてはくれなかった。


 左足首が内側に折り曲げられ、同時に体重を支えることができなくなった左膝は前方に崩れた。左半身が突然、下方側にバランスを崩してしまったので彼女の左手は手すりを見失ってしまい右脚は宙に浮いた。


 「あっ!」


 声が咄嗟に出た。身体が宙で回転した事を示すように右の後頭部を階段の角にぶつけながら十数段を落ちていく。階段の数、すべての縁に後頭部を叩きつけながら階下の踊り場まで滑り落ち、頭を先にして止まった。


 吉田さんはうめき声をしばらく出していたが視力のない眼球を見開いたまま意識を失っていった。彼女が倒れている場所は大量の血液で赤く染められ、滑り落ちていった階段のすべてに血痕が残されていた。白杖は階段の途中で先の部分からちぎれ折れて、中のゴム糸は垂れていた。


 通りすがりの人たちの輪の中に彼女は囲まれ、何人かの人によって応急処置はされたらしい。救急隊も駆けつけ、近くにある救命救急に搬送された。輪の中にいた人が救急隊員に呼吸がある事、脈拍数を伝えていたそうだが、小さなペットボトルが階段に押し付けられるようにして放置されている事を盲目の女性に教えてくれる人はいなかった。


 そう、結果だけがすべてなんだ。


 救急搬送先の病院で家族さえも待たずに緊急手術は始まり、開頭して脳を圧迫していた血液は吸い取られたが術中に心肺は止まってしまった。一旦は蘇生できたのだが十五日後、家族が見守る中で脳死の判定を受けた。


 一本の小さいペットボトル


 ただそれが置いてあっただけで彼女は悲鳴を上げながら、何度も濡れたコンクリートに頭を割られ、苦しみの声をあげて死んでいった。


 目が見えなくても見える人以上に明るく、僕を気遣い、そして全ての苦難を気丈に生きてきた女性がこんな些細なことで命を落とした。

なぜペットボトルを段差のあるところに放置したんだ。この世の中のすべての人が晴眼者なのか、違うだろう。いろいろなハンディキャップを嫌でも持たされた人たちがいる。そんな人たちにとってはたった一つのペットボトルでさえ死に直結するんだ。いいや、買い物のビニル袋でも濡れ落ちている新聞紙でさえも光から見放された人たちを死に追いやることができてしまう。


 「お葬式には行かない。お通夜も告別式にも僕は行かない。彼女が死んでしまった事は認める。でもね父さん、ペットボトルが彼女を死なせた事だけは認められない」


 父が気を使って僕を吉田深雪さんの葬儀に誘い、参列させようとしてくれた。きっと、彼女を知るリハビリセンターの多くの同友たちが参列しているだろう。会社関係の人も多く集まっているはずだ。


 「葬儀に行って、変わり果てた彼女に会ったら僕の魂は異常な憎しみの塊と化してしまうよ。会いたいよ、もう一度だけでも、でもね、彼女は近い未来の僕自身なのかもしれない」


 「そうか、わかった。父さんが良雄の代わりに独りでお会いしてくるよ。良雄がお世話になったお礼とお別れだけはしたい。短い間だったけれども、彼女の存在が良雄の未来に力を与えてくれたような気がする。そんな人だったと父さんは思う」


 父が抱く吉田深雪という女性に対する認識は僕と同じだ。この先の僕の人生に目には見えない光を与え続けてくれる人であったと思う。


 眩しいほどの光が消えてしまったんだ。

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