第18話 波の輝き 前編

 「あぁ、来た来た、やっと来た。今日、来たって事はピアノの腕前を披露したくなったってことだよね、ちがう?」


 高校三年生の春の日だった。リハビリセンターの敷地に植えられている数十本のソメイヨシノも満開になって、花の蜜をヒヨドリやオナガドリがせっせと突いてはうるさいほどに鳴いていた。

僕にとって、目で見る最後の桜の花びらになるだろうと思うと、切ないとか悔しいとか、そういう思いよりも春という季節を視力以外の音とか匂いとか、ぬくもりの変化で感じ取れるようになりたい、そう考えるようになっていた。

 僕自身が未来に、なにか得体の知れないものを強く期待するようになったのはやはり、吉田深雪という女性の存在が大きかったように思う。


 吉田さんに会うのは二ヶ月ぶりくらいになる。彼女は高校生の三年間を盲学校に在籍して点字を覚え、障害者雇用枠によって都内の企業に就職していたので、僕の診察日に彼女と偶然合えることはない。リハビリの延長線上で集まっているバンド仲間たちとの練習場所にリハビリセンターを使っていたので、僕が吉田深雪に会うためにはバンドのメンバーになる以外に方法はなかった。


 「ピアノじゃあなくて、姉が持っているエレクトーンで練習してきた。レット・イット・ビーだけど」


 僕がそう言うと「レット・イット・ビーはこのバンドの持ち歌よ。音を合わせてみようか、ピアノの鍵盤は初めてでしょう。ちょっとだけ幅も高さも違うけれど、ゆっくりモードでいってみようよ」


 彼女はいつも明るくて強い。そして他者を引き立てて行動に乗せる。その手法は強引なまでの自己中心的発言だが、みんなを引き寄せて未来に連れていってくれるような錯覚を与える。彼女に会うと、いや彼女の言葉を聞くだけで僕は自分の未来にやらなければいけないものを必ず見つけ出せるのだった。


 「上手いじゃん、かなり自宅で練習してきたみたいだね」


 吉田深雪さんの言葉は的確だから、褒められたという事は素直に喜んでいいのだろう。


 「ギターとドラムとそれに私がレベルをスローにしてあげたけれどね」


 言わなくてもいい事も平然と口に出す。


 「じゃあ、ドント・レット・ミー・ダウンもやってみよう、最初はベースとギターのソロだけだからね。遠慮しないで飛ばすわよ」


 この曲は僕にはまだ未完成だ。僕のピアノのパートはバックコーラスのような、しかしリズムを一定にしていく重要な演奏をしなくてはならない。ピアノが遅れるとギターもベースもバラバラな演奏になってしまう。


 「男の子っていっつも結果をすぐに出したがる。私たちって真面目にバンドやっているけれど、プロを目指している訳じゃあないから焦る事なんてないの」


 目の見えない者、四人がそれぞれに楽器を持って、あのビートルズのコピーバンドをおこなっているだけでも、充分に自己満足できるし、なにより楽しむ事が最優先だそうだ。それに彼女、吉田深雪さんには全く別の道が開かれようとしていた。


 バンドの練習もそろそろ終わらせなければいけない時刻になって、それぞれの帰路へ向かう準備を始めた時だった。彼女に呼び止められたんだ。


 「私、来月から職場が変わるの。ちょっとだけ自宅から遠くなっちゃうけれど、少なくても月に一度は必ずバンドのみんなに会いに来るからね。村尾君も練習してきてね。それと、あと一年を切っている高校生活を最後までやり遂げて卒業するのよ」


 吉田さんは僕の決心を見抜いていたのだろうか。もし、卒業前に視力をすべてなくしてしまったら高校を辞めることは誰にも言ってはいなかったので、僕の内心を見透かされているような気がした。

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