第9話 大学病院の眼科にて 後編
父が会計の順番を待っている間、僕は眼科のある二階のレストランに独りでいた。窓際の席から見える風景に秋の雨は激しさを失い始め、西の空には落ちようとしていく太陽の輝きが分厚い雲の合間から注ぎ始めていた。天辺だけを白くさせている富士山がいつもと同じ場所に凛として窓の向こうに見えている。
ーいつの日か光のない世界に入るー
どうしようもない真実だった。僕の網膜にはすでに多数の黒い斑点があり、紅斑といわれる視力にとって最も重要なところまで侵されていた。
「生まれつきの盲人もいる。良雄君の場合、残されている時間を使って視力を失ったあとの準備が出来る」
医師の言葉は気休めにもなっていないし、生まれつきの盲人だったら見えない事が正常であって人生の途中で、しかも十五歳という年齢で徐々に見えなくなっていく恐怖に怯える方がよっぽど酷じゃあないか。
僕の身体の中に流れる恐ろしい遺伝という宿命に『見えなくなるんだ。何もかもが見えなくなるんだ。闇の世界、真っ暗な空間に押し潰されていく肉体がやがて空中をさ迷う魂だけの世界に葬られていく』
そんな感情を思い描いていた。
目を閉じてみた。
注文してテーブルの上に置いてあるホットコーヒーのカップを探ってみたが『怖い』という感覚しかない。
ー僕はもうなにも出来ないんだ。コーヒーカップさえ持つ事ができない、目が見えぬ障がい者になるんだー
そんな思いしか浮かんでこなかった。
父が戻ってくるのを一時間以上、レストランの片隅で待っていたと思う。時間の経過を気にしていなかったし、僕の脳の全てを埋めていたのは『闇の世界』であって、そこに時間は存在しなかった。
会計を終わらせた父は無表情で僕が座るテーブルの前に立ち「帰ろう」とだけ呟いた。検査を受けた眼科を左に見ながら、僕は父の後ろを歩き階段を降り、広い病院の玄関を出た。
外来患者の帰宅待ちをしているタクシーが次々にやってきては乗客を後部座席に入れてどこかの街へと消えていく。きっとタクシーの数だけ病名があり、奈落の底に落とされた病人を運命とか宿命とか理解の及ばない時空へ連れて行くのだろう。
先に後部座席に乗り込んだ父の隣に僕も身を屈め入れてタクシーは走り出した。
雨はやんでいたが父はうどん屋には行かず帰路を運転手に告げると車窓を流れる景色の一点を凝視して僕の方を見ようとはしなかった。
僕も父とは反対側の車窓から朝来た道を逆再生するように見つめていた。雨水はすっかり引いていて街全体がシャワーを浴びたかのように洗い流されていたが、道の端々には堆積した畑の泥が汚物のように道を固めていた。
窓ガラス越しに父の顔が映った。
外を見つめている父の左頬を幾度も涙が流れ落ちていくのが見てとれた。僕はこの時、自分の頭を抱えて座席にふさぎ込むように顔を隠して泣いた。父に悟られまいと思ったが僕の涙は拭っても拭っても噴き出してきてしまい嗚咽と化してしまった。
「良雄、ごめん」
父の左手が僕の頭を優しく撫で、頬の涙を拭うように抱きしめられた。
「良雄、ごめん」
父は同じ言葉をもう一度言った。
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