第9話 誘い

 『どうして士季は出来できが悪いのかしら。綺羅はこんなに完璧なのに』


 『80点じゃダメなのよ、100点じゃないと意味がないの!』


 『双子だっていうのに、どうしてアンタはこんなに出来損できそこないなのかしら』


 『不良品ね』


 甲高かんだかい母親の声が脳内で響いてくる。

 凛冽りんれつな氷を思わせるような人だった。

 愛嬌あいきょうと母性とは程遠ほどとおい、品位ひんい理性りせいで自分を磨いていった高邁こうまいな人物。

 美女であったが、傲岸ごうがんで周囲を寄せ付けないような威厳いげんさは、母親というよりも、女帝じょていという風格ふうかく相応ふさわしい。

 完璧性を追求ついきゅうするという性格であり、一部でもそこに欠落や汚損おそんが生じた場合は言語道断ごんごどうだん。それをでも是正ぜせいするという異常なまでの几帳面きちょうめん振りで、我が子おれたちと接してきた。

 母の抱く信念は『成功』や『整然せいぜん』『秩序ちつじょ』といった完璧性の渇望かつぼう。それが疑う余地よちのない大前提であった。

 予期せぬ不都合や偶然の積み重ねによって“目論見もくろみが外れる”などという事態が発生したら、母親にとって断じて許しがたい冒涜ぼうとくに等しい。

 テストの点数しかり、子供なら誰でも犯すであろう失態しったいさえも容認ようにんしがたい屈辱くつじょくとして混沌こんとんを極めた人と言ってもいいだろう。

 母親の理想を見事に完遂させてきた兄ならかく、俺は、神経を逆撫さかなですることばかり。

 ただ逆鱗げきりんに触れるだけという惨憺さんたんたる結末。

 俺にとっても、母にとっても辛苦しんくを生み出す結果をまねいていたのだ。

 そもそも人間自体が不完全な生き物なのに、そこに完璧性を求めるから苦しむのだ。

 何でも完璧ではないと許されなかった幼少の頃の記憶ー。

 もう何年も前の話なのに、それがビジョンとなって沸々ふつふつと頭に浮かんでくるのだ。

 あらゆる面で兄と比較されるという理不尽りふじんさ。

 双子の兄弟であるにも関わらず、対応の温度差は天と地ほどあった。

 だからと言って、なんでも比較対象として扱われた綺羅に対する怨嗟えんさや憎しみといった心情は皆無かいむだ。

 どんな渦中かちゅうにあったにせよ、当時から綺羅は俺に対して無上の愛を向けてくれていたからだ。

 兄ながら、弟に向けられた冷遇れいぐう罵声ばせいに心を痛めていたのだろう。

 形式的におもんばかるというのは子供には難しい。

 だからあれは本心だったと思う。

 いついかなる時も慈悲深じひぶかさを持って接してくれた、献身的けんしんてきな寄り添いは俺の心を抱擁ほうようする形として今も残り続けている。

 その過去があったから、綺羅に対してはなんだかんだ感謝と尊敬の念を抱いている。


 (俺だって完璧な兄、綺羅のようになりたかった)


 その一心で好きでもない勉強も、習い事も精一杯やってきたつもりだ。

 まだ幼い自分にとっては母親の存在が全てで、それが正解だと思っていた。

 認めてほしさと期待にこたえたい自分がいたのも事実。

 俺は不器用なりにも様々なことを懸命にやった。

 あらゆることを一心にやりさえすれば、きっと母は振り向いてくれると思ったのだ。

 俺が欲していたのは功績こうせきではなく、愛だったのかもしれない。

 それでも母親に認められることはなく、結局は不良品と言われる始末。


 あれはさすがにこたえた。


 あれほどの辛酸しんさんをなめさせられた経験は忘却ぼうきゃくしようもない。


 どうして出来損ないなのかって?

 誰が好き好んで唐変木とうへんぼくになりたいかよ…。


 あらゆることを否定され続けた俺は、物事に対して希望を抱くことを諦めるようになった。

 現実に期待や情熱を抱くこともなく、どうせ朽ち果てるものだと鬱屈うっくつとした意見を持つようになったという、ある種の諦観ていかん

 だが、いやおうでもそれはあやまちだと世間は突き付けてくる。

 親は人生の規範となる人物である。

 人生に明るさを見出すことがであるという意味不明な主張。

 まるで頼んでもいないのに、自分の意見を酷評こくひょうされたような気分だ。

 母親だって、あれだけほまれ高く振る舞っていたが、ふたを開けてみれば傍若無人ぼうじゃくぶじんなただの人。それが分かって以降、母の言動は決してみずからの真意しんいを見せようとしない、不埒ふらち韜晦とうかいとしか映らなかった。


 俺だって好きで生まれた訳じゃない。


 「ちっ」


 考えないようにすればするほど、世界で一番嫌いな母親の記憶が次々と流れ込んでくる。


 こんな俺が愛を持って生まれてきた訳ないだろう?

 だが、またしても脳内で綺羅が反論する。


 『そんなはずはないと否定するならば、なぜ人間は葛藤し苦悩するのでしょうか? それはその反対の平安と安心を知っているからです』


 …そうか。綺羅の言ったことはやはり正しいのかもしれない。


 こんな俺でも、なにも完全に愛が欠落した人間ではなかったのだ。

 母親はあんな人だったけれど、父親は違った。

 俺の頑張りを認め、理解してくれていた。俺の気持ちも葛藤も全て。


 そして寄り添ってくれていたのだ。そこには確かに「愛」が存在していたはず。


 プライドの高い母親とは真逆で、穏やかで温かい人だった・・・


 「父さん…」


 父親といる時は心も穏やかだった。安心できる環境だった。口数が少ない静謐せいひつな人で、優しく俺を包み込んでくれるような。


 綺羅の言う、俺にとっての平安と安心がそこにはあったのだ。


 だが、父親は単身赴任たんしんふにんをしている身で週末にしか会えなかった。

 必然的に母親と過ごす時間は多くなる。

 優しく温かい父親との時間は、心の癒しが得られる格別のもの。

 しかし、せっかく充足じゅうそくに満ちたその気持ちを一気に抹消されるほどの嫌な時間がやってくる。

 その嘆きも、苦痛も、辞めてと懇願こんがんする訴えさえも、一切許容せず、けたのだ。

 そんなある日、日常が崩壊する出来事が起きた。

 忘れもしない。あれが俺の運命の転換期てんかんきといっても相違そういない。

 以来、俺は人生の下降線かこうせん辿たどることになる。

 いつも通り、母親から罵詈讒謗ばりざんぼうびせられた時であった。なにが原因で叱責しっせきされていたのかは覚えていない。

 意にわぬ結果を招いてしまった時に、決まって母親は癇症かんしょうをもてあましてしまう人だ。今更、思い出そうとも思わない。

 今まで我慢してきた俺の心も崩壊の兆候ちょうこうを見せ始めていた。

 涙の貯蔵庫ちょぞうこなるものがあるとするならば、泣きすぎて完全に枯渇こかつしていたことだろう。

 そんな俺に容赦なく、母はとある言葉でとどめを刺した。


 「本当にアンタは駄目ね。生まれてこなければ良かったのに」


 それを聞いた瞬間、俺はすべてが嫌になった。

 自暴自棄じぼうじき…、いや、それさえも認識できないほど、頭が真っ白だった。


 (うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ!!)


 そんなにお望みならば消えてやるよ。


 「士季! 待て!」


 言葉の暴力に心がズタズタになった俺はもう限界だった。目的もなく、無我夢中に走った。


 ちょうどその時、帰ってきていた父親の声も聞こえず勢いよく家を出て走り続ける。


 行く宛てもなく、ただひたすらに。


 気付いた時にはもう、線路の目の前にいる自分。


 (やめろ…、こんなときに)


 今は過去を思い返している場合ではない。

 犯人を、手がかりを探さなければならないというのに…!!!


 容赦なく聞こえてくる轟音。

 電車の音、踏切の警報音。

 今にも通過せんとする振動が体を通して伝わってくる。


 躊躇ちゅうちょなく、そこへ飛び出すあの頃の自分の映像が鮮明に脳内で映し出されている。


 (やめ…)


 そのまま逝ければどんなに良かっただろう。


 必死に大きな声で、張り裂けるような声で名前を呼ばれたと同時に身体に衝撃が走る。

 反射的に目を閉じてしまっていた、その時何が起きたかは分からない。


 ただひとつ。自身の腕を引いたあの手は誰よりも温かいあの人の手であるということは分かった。


 どこかに投げ飛ばされた身体は節々が痛い。鈍痛どんつうと共にゆっくりを目を開けた先の光景はー


 「父、さ…」


 自身をかばった見たくもない父親の無残な姿。

 これは夢だと言ってほしい光景。


 俺は自らの手で平安と安心を握り潰してしまったのだ。

 しかも、自身だけでなく巻き込んでしまった運転手とその家族の人生のそれも奪ってしまった。

 自身のあやまちが、加害者へと仕立て上げてしまったのである。


 (くそ、なんでこんなに嫌な記憶が・・・)


 走馬灯そうまとうの様に流れてきた記憶はここで止まる。

 気付けば士季の呼吸は早く、冷や汗でびっしょりだった。

 そして改めて気付かされる。


 (平安と安心から程遠い欠乏や恐怖、か…。犯人もそういった経験を…?)


 父親が優しい人だったからこそ自我を保てていた。

 だが、父親は俺のせいで他界した。

 俺なんかいない方がよかったという自責の念。

 それは今も、俺のなかであり続けている。

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