第20話 それでも家族


 臨時株主総会の翌朝、黒川邸の空はよく晴れていた。雨で洗われた瓦が光り、庭の皐月がやわらかい風に揺れる。新聞はまだ賑やかだ。見出しは「前例なき家の宣言 辛勝の舞台裏」「ガバナンス改革は前進」「私情と公務の境界」——評価は分かれ、言葉はそれぞれの立場から矢の形をしている。


 湊は縁側に座り、湯呑を両手で包んだ。喉の奥に、昨日の緊張の名残が少しだけ残っている。しかし、胸の中心には小さな灯がある。消えずに、ただ静かに燃える灯。家の温度だ。


 台所からは味噌の匂い。悠真が出汁をとり、蓮が小鉢を並べる。二人の動きはぎこちなくも手慣れてきて、湊が「味、見せて」と言う前に、小さな匙が差し出される。


「今日は少し薄めにした」


「……いい。外は塩辛いから」


 三人で食卓を囲む時間は、まだ短い歴史しか持たない。それでも、箸が同じリズムで動き、湯気が同じ高さで揺れるだけで、世界の中心がここに戻ってきた気がした。



 午前、邸の玄関に小さな金具が届く。真鍮のプレート。蓮がドライバーを回し、扉の横にプレートを取り付ける。彫られた文字は、苗字でも企業名でもない——ただ、簡単な二文字。


『家/いえ』


 湊は思わず笑った。「シンプルすぎる」


「これでいい」蓮はネジを最後まで締める。「外のどの名前より、ここでは強い」


 悠真が玄関マットを整え、靴を揃える。小さな儀式のように、三人は一歩ずつ下がって、プレートを見上げた。真鍮は朝の光を受け、すこし誇らしげに輝いた。



 午後、荷ほどき。押し入れの奥から古い段ボールが出てくる。マジックで「アルバム」と書かれている。湊は箱を開け、写真を一枚ずつ手に取った。幼い自分。ドレス。笑顔。奥に怯えを宿した瞳。


「燃やす?」蓮がたずねる。


「——いいえ」湊は首を振る。「影は消さない。十一条」


 共有ノートの条文が、自然に会話に混じる。悠真はアルバムの隙間から、小さな押し花を見つけた。色は褪せているが、形は残っている。


「庭に戻そうか」


 三人は庭に出て、土を少し掘り、押し花をそっと埋めた。上から薄く土をかぶせる。手のひらで軽く押さえると、土は体温を吸ってやわらいだ。


「ここからまた、咲けばいい」湊がつぶやく。



 夕暮れ。居間のテーブルに、共有ノートが開かれる。新しいページ。白い余白に、今日の呼吸が映る。


「書くか」蓮がペンを渡す。


 湊はゆっくりと記した。


『二十三、勝っても驕らず、負けても壊れない』


 続けて、もう一行。


『二十四、帰る場所を先に決めてから戦う』


 ペン先が止まる。インクが乾くまでの短い沈黙のあいだ、外の空がすこしだけ赤くなる。湊はノートを閉じ、二人を見た。「ありがとう」


「こちらこそ」悠真が微笑む。


「まだ終わってない」蓮は現実を忘れない。「改革の実装はこれからだ。敵意は減るが、好奇心は増える」


「分かってる」湊は頷いた。「だから、家を先に固める」



 夜、風が少し冷たくなった。湊は浴室で髪を乾かし、襟元のボタンを一つだけ留めずに居間へ戻る。窓辺のレースが、風に合わせてゆっくり呼吸をしている。


「触れても、いいですか」


 合言葉は、もう儀礼ではなかった。湊はソファの背にもたれ、目で応える。悠真は膝をつき、襟元から覗く呼吸の出入口に、手のひらをそっと重ねた。押さえつけない、塞がない。ただ、熱の出入りを一緒に数える。


 指先が第二ボタンの縫い目を渡り、鎖骨のくぼみに止まる。布の上から、軽く押すと、湊の喉が小さく鳴った。そこへ蓮がブランケットを持ってくる。からかわない。言葉にもしない。三人は同じ布に肩を寄せ、灯りを少しだけ落とした。


 唇は触れない。代わりに、額が触れ、呼吸が重なる。ボタンは外れない。代わりに、シャツの裾が指でほんの少し持ち上がり、素肌に空気が触れて、また布の下に戻っていく。熱は派手に燃え上がらない。けれど、消える気配を見せない。


「——ここまで」湊が囁く。


「ここまで」二人が同時に応える。


 家の規律は、制約ではなく、合意の形をしていた。



 深夜。湊はひとり、書斎の窓を開ける。秋の匂いがする。机の上のスマートフォンが震えた。非通知。短いメッセージが届く。


『宣言、見事でした。だが“あの計画”は終わっていない。父上の金庫、右の棚の下段。鍵は、あなたが昔、泣きながら隠したところに——』


 指が止まる。喉が、乾く。湊は無意識に右手で胸元を押さえ、廊下へ出た。足音が静かに走る。父の書斎。灯を点けると、古い棚が影を濃くした。


 右の棚の下段。鍵穴は見えない。だが、木目の継ぎ目に、子どもの掌が入るだけの隙間がある。湊は膝をつき、そっと指を差し入れた。そこに——冷たい金属が触れた。


 息を呑む音が、背後で重なる。振り向かなくても分かる。蓮と悠真だ。いつからここに、と問う代わりに、湊は無言で鍵を掲げた。


「開けるか?」蓮の声は低い。


 湊は小さく首を振る。「——今夜は、開けない」


 鍵は卓上に置かれる。三人は並んで座り、灯りを落とした書斎でしばらく黙った。沈黙は、恐れではなく、選択の形をしている。


「帰ろう」悠真が言う。


「帰ろう」蓮が繰り返す。


 湊は鍵をそっと布に包み、胸ポケットに収めた。扉を閉める前、闇の中の棚が、何かを確かに隠している気配だけを残す。だが今夜は触れない。家の規律が、扉の前で彼らを優しく止めた。



 寝室に戻る廊下で、湊は小さく笑った。父の影も、世間のざわめきも、鍵の冷たさも——すべてが今夜は家の外側にある。内側には、掌の熱と、同じ速度で歩く二人の足音がある。


 扉が閉まる。灯が落ちる。静かな暗闇の輪郭の中で、家は呼吸を続ける。


 それでも家族。——そして、鍵はまだ開いていない。


(了/第二部 予告:『鍵が開くとき』)

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夫を娶ってくれ、俺は“偽りの花嫁”だから 苫屋みつ @tomayamitsu

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