第19話 家族の解散
臨時株主総会の前夜、黒川邸は雨も風もないのに、どこか音が遠かった。食卓にはほとんど手つかずのスープ。湊はスプーンを置き、額に手を当てた。数字の列と、人の視線と、家のあたたかさが胸の内で絡まりあい、ほどけない結び目になっている。
「今夜は、早く休もう」
蓮が言う。声は低いのに、部屋の隅々まで届く。
湊は頷いた。立ち上がりかけて、ふと足が止まる。「……少しだけ、庭に出てもいい?」
「付き合います」悠真が立ち上がる。合言葉が自然に唇を滑る。「触れても、いいですか」
「支えて」
二人は縁側に並んだ。夜気は冷たくない。けれど皮膚の表面が、緊張の微かな電流でざわついている。湊の呼吸は浅く、鎖骨の上で小さな波が立つ。悠真の指が、シャツの襟に触れるか触れないかの距離で止まった。
「ここまでにしよう、って決めたでしょう?」
湊が囁く。言葉は制止なのに、声の底にはやわらかな誘いが混じっていた。
「はい。でも、今夜だけは」
悠真は指を一段、布の上から滑らせた。ボタンは外さない。ただ、布越しに体温のありかを確かめるように。指先が胸骨の終わりに触れたとき、湊の喉が小さく鳴る。息が重なり、眉間の緊張がほどけていく。
「……もう少し」
唇が触れそうで止まった。影と影が重なり、ゆっくり離れる。その間に、家の空気がやわらかく膨らんだ。
背後で衣擦れ。振り向くと、蓮がブランケットを持って立っていた。からかわない、笑わない。ただ一歩近づいて、二人の肩に同じ布をそっと掛ける。
「風邪を引く」
それだけ言うと、蓮は縁側に腰を下ろした。三人の膝が触れそうで触れない距離に並ぶ。沈黙のうちに、鼓動だけが確かに混じり合った。
◆
翌朝。総会会場は古いホールで、天井のアーチが低く響く。受付前には、委任状の束。黒川の姓を持たない株主たちの視線が、湊の一挙一動を測り続ける。
開会。議長の木槌が一度鳴るだけで、空気は緊張の形に固まる。議題一「代表取締役の解職」。議題二「後継候補者の指名」。議題三「ガバナンス体制の見直し」。
反対演説に立ったのは、若い機関投資家だった。「短期的なボラティリティを過度に恐れて、人的資本を切り捨てるのが“安定”でしょうか。『家』という言葉にアレルギーがあるなら、言い換えましょう。これは経営者のコア・バリューの話です」
会場の片隅で、蓮が票読みのメモを折りたたむ。ぎりぎりだ。取締役の一人がため息をつき、別の一人が机を指で叩く。音の粒が、薄い雨のように全体に広がった。
質疑の時間。ひとりの株主が立ち上がる。遠縁の監査役。低い声が、冷たく響いた。「“家族”に会社を私物化させるわけにはいかない」
湊は壇上でマイクを握る。声は低く、まっすぐだった。「私物化はしません。外には説明を、内には選択を。昨日までの私たちは、外のために嘘を選びました。今日の私たちは、嘘をやめて説明します。だからこそ、あなた方の目の前に立っている」
その言葉の最中、後列でざわめきが起きた。スクリーンに投影されたはずの議案資料が一瞬乱れる。背後で動く影。蓮はすでに立ち上がっていた。「Aライン遮断」
スタッフの手が走り、映像は持ち直す。乱れの一秒が、会場の緊張をさらに研ぎ澄ます。
採決が始まる。緑と赤のカードが一斉に上がる。委任状の数が読み上げられ、集計係の指が早く動く。湊は壇上で、掌を重ねた。汗ばむ指に、もう一本の指がそっと添えられる。
悠真の手だった。合言葉はいらなかった。二人の指は、見えないテーブルの下で静かに絡み、すぐに離れた。
◆
休憩。集計の途中結果が役員席に回る。蓮が素早く目を走らせ、湊へ視線で告げた——「五分五分」。
控室に戻る短い廊下、湊は壁にもたれて呼吸を整えた。襟元を一つ、緩める。そこに悠真の指が伸びる。ボタンは外さない。布の上から、脈に軽く圧を置く。
「ここ、速い」
「当たり前よ」
脈が指の腹を二度、三度叩いた。体の深いところにある熱が、わずかに鎮まる。視界が戻る。ふいに蓮の影が重なり、視線が合った。
「……終わったら、うちに帰る」
蓮はそれだけ言い、先に歩き出した。
◆
再開。議案一の集計結果がスクリーンに映し出される——だが、最後の委任状確認で差し戻し。ざわめきが増幅し、議長の木槌が二度鳴る。場内の空気が軋む。
その時、最後列からひとりの老株主が立った。小さな声が、マイクなしで届く。「黒川の名が重かった時代を知っている。重さは、嘘の数で作るものではない。覚悟の数で作るものだ」
老株主はゆっくりと賛成カードを上げた。彼に続くように、いくつかのカードが入れ替わる。色が、少しずつ会場の空気を塗り替える。
集計終了。議案一「代表取締役の解職」——賛成 48.9%、反対 51.1%。僅差で否決。ホールの空気が一瞬止まり、次に大きく息を吐く音が重なった。
すぐに議案二。後継候補者の指名——賛成 49.4%、反対 50.6%。これも否決。ざわめき、そして拍手。誰かが口笛を吹き、別の誰かが咳払いで掻き消す。緩んだ空気に、議長の木槌がもう一度落ちる。
最後に議題三。ガバナンス体制の見直し——賛成多数で可決。嘘ではなく、手続きを強くする。それは三人の望んだ落としどころでもあった。
◆
閉会後、裏口の回廊。光の帯が床を横切る。湊は壁にもたれ、ゆっくりと目を閉じた。胸の奥で、掴んでいたものがほどけていく。
「触れても、いいですか」
今度は湊が言った。悠真は答えず、ただ一歩近づく。額と額が触れ、呼吸が重なる。唇は、触れない。代わりに、湊のシャツの裾が指で少しだけ持ち上げられ、素肌に冷たい空気が触れる。そこに、掌が一瞬だけ重なる。体温が移り、すぐ離れる。
「……帰ろう」
蓮の声が背から落ちる。湊は笑った。薄く、けれど確かな笑みだった。
◆
夜、邸。三人はソファに並んだ。灯りは低い。湊は、今日だけはノートを開かなかった。言葉にする前に、手のひらの記憶を体に刻みたかったからだ。
やがて、湊はそっと膝を崩し、ブランケットの下に身を預ける。悠真の肩に頭が落ちる。蓮は何も言わず、灯りのつまみを少しだけ下げた。
布の下で、指が触れそうで触れない距離をさまよう。ボタンは外れない。呼吸だけが近くなる。そこにあるのは、欲望の炎ではなく、生き延びた体の熱だった。
灯が落ちる。音も、色も、やわらかく遠のく。残ったのは、互いの体温が形作る、静かな家の輪郭——“解散”という言葉では、決して壊せないもの。
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