第17話 破局の代価


 記者会見の翌日、黒川グループの株価は寄り付きから下げた。数字は静かな暴力だ。ニュースのテロップが赤く点滅し、コメンテーターが眉をひそめる。電話は鳴り止まず、取引先からの確認と牽制が、冷たい言葉の衣を着て流れ込む。


 湊は本社の執務室で連絡を捌いていた。スラックスに白いシャツ、喉を絞めつけるタイはない。机上には共有ノートの複製が開かれている。そこに書かれた条文——『十三、世界に合わせて壊れない』『十四、“家の言葉”を最優先にする』——が、紙の上の灯台のように見えた。


「湊、取締役会から臨時招集だ」


 蓮が入ってくる。声は静かだが、目は鋭い。湊は頷き、椅子を押し引きして立ち上がった。「行く」



 長卓の向こう、年長の役員が口火を切る。「昨日の“宣言”は勇敢だが軽率だ。株主や従業員の不安を煽った。君個人の事情を会社に持ち込むべきではない」


 湊は視線を動かさず答える。「会社の説明責任は果たしました。私は会社の代表です。同時に、私には家がある。それを隠すことは、もうしません」


「理想論だ」別の役員が吐き捨てる。「市場は理想では動かない。ここで“落とし前”をつけろ」


 沈黙。湊は胸の奥で、何かが軋む音を聞いた。家を選び、宣言した代償が、今ここで数値と規則の形をとって襲いかかる。蓮が一歩前に出た。「具体的に」


 年長の役員は、冷たくなるほど丁寧な口調で告げる。「婚約の解消。少なくとも、彼を公的な場に同席させないこと。それから、黒川家の後継の座については“適切な人物”へ移行する準備に入る」


 湊の指先が、机の下で小さく震えた。悠真を排除し、自分を“適切な”別の器に差し替える——それが彼らの望む秩序だ。「……それが、あなた方の“安定”」


「そうだ。君が会社を守るなら、受け入れろ」


 湊はゆっくりと息を吸い、吐いた。喉の奥に鉄の味がする。蓮が視線で問う。湊は小さく頷き、マイクを引き寄せた。「提案は受け入れません」


 会議室の空気が一段冷える。「理由は?」


「家を捨てて守る会社は、私の会社ではないから」


 短い一文は、挑発に聞こえただろう。だが湊の声は、意外なほど落ち着いていた。蓮が続ける。「ここまでの寄付・投資の透明化、ガバナンス強化は継続する。それが会社の“防具”だ。私生活への介入は、会社の“凶器”になる」


 押し問答は一時間続いた。結論は出ない。ただ、対立線がくっきりと引かれた。



 夕刻。邸の玄関に、速達が届く。黒い封筒。差出人は、黒川家の遠縁で現在の監査役の一人。湊は中身を確認し、足元から力が抜けるのを感じた。『臨時株主総会の開催通知』——議題には「代表取締役の解職、並びに後継候補者の指名」が記されている。


 悠真が封筒を握る手元を見つめる。「……それは」


「代価だよ」湊は笑わなかった。「宣言の代価。嘘をやめた代わりに、守るべきものが増えた」


 蓮が封筒の厚紙を裏返す。貼り直しの跡。郵送ルートの印字。「急いでる割に丁寧だな」


「周到ってこと」湊は封筒を机に置き、ノートを開いた。空白のページが、夜の湖のように静かだ。ペン先がそこで止まる。何を書けば、この夜を照らせるのか。



 その夜、三人はダイニングで向き合った。料理はほとんど減っていない。湊が先に口を開く。「僕は、会社を降りるかもしれない」


 悠真の息が詰まる。「そんな——」


「選べないかもしれない、という話」湊は言葉を置くように続けた。「でも、会社を降りても、家は降りない」


 悠真は唇を噛み、ゆっくり頷いた。「僕は、どちらの湊さんでも隣にいます」


 蓮が静かに言う。「俺は、どちらでも盾でいる」


 三人の間に、柔らかい沈黙が落ちる。代価は確かに重い。けれど、手放さないものも確かにある。



 深夜。湊は一人、書斎で数字と向き合っていた。キャッシュフロー、寄付のスケジュール、雇用への影響。現実は感情では動かない。彼は電話を取り、古くからの取引先の担当に頭を下げる。「条件は厳しくていい。こちらの誠意で繋ぎたい」


 電話を切ったとき、背後から気配。「触れても、いいですか」


 振り返ると悠真が立っていた。湊は頷く。肩に置かれた手の温度が、凝り固まった筋肉を静かにほどいていく。


「僕、何もできなくて」


「できてる」湊はゆっくり首を振った。「ここにいる。聞いてくれる。それだけで、数字に向かう気力が戻る」


 机上のノートに、湊は新しい一行を書いた。


『二十一、代価は“家”で分け合う』


 ペン先が震え、線が少しだけ揺れた。その揺れさえも、今は確かな証拠だった。



 明け方。眠りに落ちた湊の枕元に、蓮が一通のメモを置いた。短い文字。


『総会の票読み、俺がやる。組織票は割れる。勝てない戦じゃない』


 蓮は寝顔を一瞥し、部屋を出る。廊下の窓から差す薄い光が、長い一日を予告していた。


 破局の代価は軽くない。けれど、払う相手を間違えなければ、道は続く。三人はそれぞれの場所で、同じ夜明けに向かって歩き出した。

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