第21話【小文字の特権】
学内のメディア論ゼミでシンポジウムを開く日、俺は会場のサブ教室に貼られた紙を見て固まった。
〈Vip room〉と印字されている。大文字のVだけが威張って、iとpがしょんぼり小さい。
「うわ、やっちゃってるね。自動変換?」
「恐らくそうです。“VIP room”の“IP”が落ちてしまったようですね。直しますか」
「でもさ、小文字になっただけで、急に権威が弱まるの可笑しくない? “とってもえらい人のお部屋”が、“ちょっと偉いかもしれないお部屋”になる感じ」
「確かに、記号は大小で空気が変わります。――今回のゲストは“権威”より“対話”が目的です。小文字の方が、扉は開きやすいかもしれません」
今日のゲストの専門であるインディーゲーム研究は、個人や小規模チームが作る“独立系ゲーム”を対象に、文化・制作・ビジネス・技術の面から横断的に調べる学問だ。小規模だからこそ、人と人の関係が重要になる。
「じゃ、そのまま行く? “Vip”を“Very inquisitive person”に読み替えて、“よく質問する人歓迎ルーム”」
「良いと思います。ゼミの趣旨とも整合しますし、案内文を添えましょう。“静かに話すための小部屋。どなたでもどうぞ”」
名雪さんがマスキングテープで紙の縁を飾って、下に手書きで“いらっしゃいませ(静かめに)”と添えた。威張っていたVの肩の力が抜けて、部屋が急に呼吸を始める。
「そういえば、“VIP”ってゲームだと“到達点”のイメージない? スマブラの“VIPマッチ”とかさ、敷居の高さの象徴」
「ありますね。基準を越えると入れる“見えない部屋”――ただ、今日の“Vip”は、基準を競わないでいきましょう」
開場。最初に入ってきたのは、録音機材を持った一年生だった。紙を指して、目を丸くする。
「あの……ここ、偉い人の部屋じゃないんですか」
「“よく質問する人”の部屋です。どなたでも大丈夫ですよ。ノックだけお願いします」
「は、はい!」
彼は恐縮しつつ入室し、メモ帳を膝に置いた。壁の小さなホワイトボードに、俺はルールを三つ書く。
①声は小さめ、②質問は一つずつ、③答えが出なければ“次回”に逃がす。
「三番、救われるなあ」
名雪さんが笑う。
「次回に逃がせると、今の会話が優しくなる」
「締め切りがあるから走れるのと同様に、逃げ先があるから話せます。――あ、ゲストの先生が到着されました」
インディーゲーム研究の先生は、キャリーバッグからドット絵の缶バッジを取り出して、胸につけた。
「ここが“Vip room”ですか。小文字なのがいいですね。緊張がほどけます」
どうやら先生は気に入っていただけたようだ。良かった。
ミニトークが始まると、例の一年生が控えめに手を挙げた。
「“クリア後の部屋”って、作るときどんな気持ちですか」
「いい質問だね」
先生は少し考えてから言う。
「メインの物語の“あとの息継ぎ”を用意してあげたい、かな。強い敵や数字の壁じゃなくて、世界に残った余熱を分け合う場所」
名雪さんが小さく頷く。
「ここ、まさにそれだ。数字の壁じゃない、余熱の部屋」
「VIPの本来の意味が“Very Important Person”だとしても、大学の今日くらいは“Very In Progress”で良い気がします。進行中の人の部屋」
「ええ、特に君たち学生はまだ何にでもなれる。そういう途中の話を是非聞かせて下さい」
俺達は、静かに、だけど、一つづつ色々な話ししていく。どこかに向かっている話、向かいたい話。
「——ね、茨木くん。私、こういう“途中”の部屋、好きだよ。完成してないものの匂いがする」
「俺もです。未完成は、対話の余地ですから」
廊下に出ると、夕焼けが小文字みたいにおだやかだった。
大文字で始まる日より、小文字で続く日の方が、長く記憶に残るのかもしれない。
俺たちは“Vip”の紙を丸めずに持ち帰った。次の“進行中”のために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます