広告について
伽墨
「みんなが同じものを見ている」という価値の再確認
テレビのCMは3分──これはもはや常識だろう。だが、実際には「3分の枠」があるだけで、その中には30秒だったり60秒だったりと、さまざまな企業が制限時間の中でいかに自社の商品やサービスをアピールするか、しのぎを削っているのである。
この「制限時間」こそがテレビ広告の品位を保っていた。言いたいことが山ほどあっても、秒針が無情に進む。だからこそ企業は言葉を削り、映像を研ぎ澄ませた。広告がひとつの芸術として語られることがあったのは、この緊張感ゆえだろう。
そしてテレビ広告にはもうひとつの特質がある。それは公共性だ。放送という仕組みの中では、誰もが同じ瞬間に、同じ広告を目にする。家族で同じリビングに座っていても、ひとり暮らしのワンルームにいても、流れるCMは同じである。その普遍性は、ときに社会の共通言語を形づくり、流行語や時代の空気を生み出してきた。広告は単なる宣伝を超え、「みんなが知っているもの」として人々の会話に入り込んできたのである。
対照的に、インターネット広告には制限がない。時間無制限、供給無尽蔵。YouTubeの冒頭に現れる長大な講演動画も、SNSのタイムラインを埋め尽くす短い宣伝も、その気になればいくらでも流し込める。有限の注意力を、無限の広告が際限なく削り取っていく。
しかも問題は時間だけではない。ネット広告にはテレビのような公共性がない。テレビは誰もが同じ瞬間に同じCMを見ていたからこそ、「あのCM見た?」という会話が成立した。しかしネット広告はターゲティングされ、私に表示されるものとあなたに表示されるものはまったく異なる。そこにはもはや共通の話題も、時代の合図も存在しない。あるのは個別最適化された「私だけの広告」であり、それは人と人をつなぐどころか、むしろ分断を強めている。
だが、ここでもう一周回って新聞広告を思い出す。新聞の広告はすばらしい。チカチカ光らず、音も鳴らず、ただ静かに紙の上に居座っている。ページをめくるまで永遠にそこにあり続ける──つまり、新聞広告こそ真に「無限の時間を使った広告」ではないか。
魚を包んでも広告、引っ越しの荷物を守っても広告、やがてリサイクルに出しても広告は紙の繊維に染み込み、形を変えて生き延びる。鬱陶しくないどころか、むしろ生活に溶け込んでいる。なるほど、だから新聞には軽減税率が適用されるのか──公共のメディアであり、しかも広告が人を疲弊させないからなのか。そう考えたとき、私は思わず膝を打った。
広告について 伽墨 @omoitsukiwokakuyo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます