パンと僕の、ささやかな日々

@jadn

第1話 始まり

 午前七時。目覚ましの電子音が部屋に響いた。

 僕、**宮本悠人(みやもとゆうと)**は、布団の中でしばらく天井を見つめる。アパートの天井には小さなシミがひとつ、右上にある。大学に入って一人暮らしを始めてから、一年以上ずっと僕を見下ろしているやつだ。


 今日も特別なことはない。ただの一日が始まる。

 そう思うと、体を起こすのにも少し力がいる。けれど空腹は待ってくれない。僕は冷蔵庫を開けて、昨日の夜スーパーで買った食パンを取り出した。


 四枚切り。バターを塗って焼くだけの、簡単な朝食。

 でも、その瞬間――いつもなら無表情に口へ運ぶはずのパンから、かすかな声がした。


「……おはよう」


 僕は手を止めた。

 トースターから取り出したばかりのパンの表面が、じんわりと湯気を立てている。その焦げ目のあたりから、確かに声が聞こえた。


「おはよう、って言ってるんだけど……聞こえてない?」


 僕は、寝ぼけているのかと疑った。徹夜明けでもないのに幻聴を聞くなんて。

 だがパンは、はっきりと喋った。


「うわっ、ようやく気づいてくれた! いやー、焼かれるのは結構つらかったけど、君が食べてくれるなら本望だな」


 僕は固まった。

 パンが……喋っている?


 慌ててテーブルに置くと、パンは表面を揺らすようにぷるぷると震えた。まるで笑っているかのように。


「びっくりした? うん、そうだよね。普通はパンが話しかけてくるなんて思わないよね」


 心臓が早鐘のように鳴る。

 だけど恐怖よりも先に、妙な好奇心が勝った。


「……君、なんなんだ?」

「僕? 僕は僕。昨日のスーパーで買われた、ただの食パンさ。でも――君に出会えたから、ちょっと特別なんだ」


 特別。

 パンのくせに、そんな言葉を使うなんて。僕は呆れながらも、どこか安心していた。


パンと僕の会話


「名前とか、あるのか?」

「うーん、ないけど……つけてくれてもいいよ」

「……じゃあ、バターロールって呼ぶか」

「いやいや! 僕は食パンだから! せめて“トースト”とかにしてよ」


 パン――いや、“トースト”は、冗談みたいに軽口を叩く。

 僕は自分が夢を見ているんじゃないかと、何度も腕をつねったけど、痛みは現実を告げていた。


「ねえ、悠人。君、ちょっと疲れてるんじゃない?」

「え、なんでわかる」

「わかるよ。だって、君がかじろうとした瞬間、すごく沈んだ味がしたんだ」


「味?」

「うん。僕たちパンはね、食べる人の気持ちを吸い込むんだ。嬉しいと甘くなるし、寂しいと苦くなる」


 そんな馬鹿な、と思う。

 でも確かに、ここ最近の僕は孤独を感じていた。サークルにも溶け込めず、授業にも身が入らない。友達はいるけど、本音で話せる相手はいない。


 パンにそんなことを言い当てられて、心の奥に隠していた寂しさがにじみ出した。


「……僕、そんなに疲れてるように見える?」

「見える、というか、味でわかるんだよ。だから僕は、君を元気にするためにここにいるんだ」


 トーストは、ふわりと香ばしい匂いを漂わせた。

 気づけば僕は、笑っていた。


不思議な朝の余韻


 その日、大学に向かう足取りはいつもより軽かった。

 でも教室に入れば、やっぱり周囲との距離感に悩む自分がいる。

 隣の席のクラスメイトは楽しそうにスマホを見せ合っているのに、僕は会話に混ざれない。


 昼休み、購買で買った菓子パンを一口かじる。

 すると、まただ。


「おいっす!」


 メロンパンが喋った。

 しかも今度は、かなり陽気な声で。


「おまえ、昨日のトーストの仲間か?」

「仲間っていうか……まあ、パン仲間? でも僕はメロンパン。あいつとは系統が違うかな!」


 ――どうやら、僕の日常はもう後戻りできないところに来てしまったらしい。


パンたちが映す僕の心


 それからの日々、僕の身の回りのパンは次々と喋り出した。

 食堂のカレーパンは熱血漢で、フランスパンはやたら気取っている。

 そして不思議なことに、彼らの性格は僕の心境や状況にリンクしているようだった。


 落ち込んでいる日は、チョココロネがやけにネガティブなことを言う。

 少し元気な日は、あんパンが陽気に歌い出す。


 パンを通して、自分の気持ちが浮き彫りになる。

 それは恐ろしくもあり、救いでもあった。


別れの予感


 しかし、ある夜。

 トーストが静かに僕に言った。


「悠人、いつか僕らは消えるよ」


「……え?」

「だって、僕らは君の心が作り出した幻みたいなものだから」


 胸がぎゅっと締め付けられた。

 せっかく出会えた不思議な友達なのに、いずれ別れるのか。


「でもね、別れは悲しいだけじゃない。君が成長すればするほど、僕らは役目を終えるんだ。だから安心して」


 トーストの声は、バターの香りみたいに優しかった。


第一話の終わり


 僕は窓の外を見た。

 夜空に浮かぶ月が、パンのように丸く輝いていた。


 ――パンが喋る日常。

 それは確かに奇妙だけれど、孤独な僕にとってはかけがえのないものだった。


 いつか彼らが消えてしまう日まで、僕は一緒に歩んでいこうと思った。


 そう心に誓いながら、冷めかけたトーストをもう一口かじった。



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