白い子猫

らぷろ(羅風路)

白い子猫

九月の雨は、しつこい。

線状降水帯が通り過ぎた夜、アパートの外階段を上がる足取りは、いつもより遅かった。残業が長引き、午後9時を回っていたせいもある。鉄の階段は雨に濡れてじっとりとしている。足を踏み外さないように気をつけながら、一段目に足をかけたとき、視界の端にかすかな動きを感じた。


暗がりに目を凝らすと、階段の下の隅に小さな影が縮こまっている。

近づいてみると、それは白い子猫だった。体は雨で濡れ、毛並みは泥と埃で薄汚れている。か細い体が震えているのが、目に見えてわかるほどだった。


一度はそのまま階段を上がろうとした。関わるのは面倒だし、そもそも猫など飼ったこともない。だが足は二段目で止まり、ため息とともに引き返した。濡れたアスファルトにしゃがみ込み、両手でそっと抱き上げる。驚くほど軽く、片手でも持てそうなほどだった。猫はうっすら目を開いたが、私の掌の温もりに触れた途端、また瞼を閉じて動かなくなった。


部屋に連れ帰ったのは衝動だった。猫をどう世話すればいいかなど考えたこともない。

とりあえずタオルで全身を拭き、ドライヤーの温風を弱めにあてる。濡れた毛が少しずつ乾いていき、埃と泥の匂いが部屋に漂った。小鉢に水を入れ、さらに茹でたささみを細かく裂いて皿にのせてみた。子猫は鼻を近づけると、わずかに口を動かし、ほんの少しだけ口にした。その姿を見て、ようやく胸の奥に小さな安堵が広がった。


目ヤニが固まっていたので、ティッシュで拭き取る。ぎこちない手つきだったが、子猫は抵抗せず、ただされるがままにじっとしていた。


その晩、私は眠れなかった。布団に入っても、部屋の真ん中にいる小さな命の気配が気になり、耳を澄ましていた。


翌日、近所のホームセンターへ向かった。ペットコーナーに立つのは初めてだった。

子猫を保護したばかりで右も左もわからない、と店員に伝えると、勧められるままにキャットフード、ミルク、簡易トイレ用の砂を購入した。レジ袋を提げながら、これで良いのだろうかと自問し続けた。


部屋に戻ると、子猫は昨日と同じ場所に座り込んでいた。動かないその姿が一瞬不安を呼んだが、キャットフードを小皿に盛って置くと、鼻先を近づけ、ゆっくりと食べ始めた。その小さな喉の動きに、私は思わず息を止めるほど見入った。


それからの日々は、私にとって未知の連続だった。

「子猫 育て方」と検索窓に打ち込み、表示された記事や動画を食い入るように見た。


トイレは砂の上に連れて行き、前足を軽く動かしてやると覚える、とあったので実践した。最初は部屋の隅で粗相をしたが、叱らずに根気よく砂の上に運んだ。数日後には自分から砂の上に入るようになり、その姿を見たときは、ひとり声を漏らして喜んだ。


餌の回数についても迷った。ネットには「1日に3~4回」「夜中にも与えるべき」と書かれているものもあれば、「ドライフードに慣れさせた方が良い」という意見もあった。私はその間をとり、帰宅後に茹でたささみを小さく裂いて混ぜ、キャットフードと一緒に与えた。猫は予想以上に食欲旺盛で、口の周りを汚しながら夢中で食べた。


夜は鳴き声が途切れると不安で起き上がった。寒くないか、喉が渇いていないか。小さな呼吸音を確認すると、ようやく再び布団に入った。


ネットには「子猫の遊びは成長に大事」と書かれていた。ペットショップで買った小さなボールを転がしてやると、最初は戸惑っていたが、ある日、前足で突くとコロコロと転がり、その後を慌てて追いかけた。無邪気に跳ね回る姿に、思わず笑い声が漏れた。部屋で声を出すのは久しぶりのことだった。


3週間ほどが過ぎる頃には、私が帰宅するとドアの前で待ち構えるようになった。鍵を差し込む音がすると「にゃあ」と鳴き、扉を開けると小走りに駆け寄ってきた。その声を聞くと、孤独なアパートの一室が、ほんの少しだけ居心地の良い場所に変わる気がした。


3ヶ月が過ぎた頃のことだった。

夜、帰宅すると、ドアの隙間から外へ飛び出してしまった。慌てて追いかけたが、雨上がりの路地裏で姿を見失った。それきり、白い子猫は二度と帰ってくることはなかった。


喪失感は想像以上に重かった。

3ヶ月という短い時間に過ぎなかったはずなのに、部屋の空白は埋めがたく、日々の生活にしみ込んでいた。仕事を終えて帰るたび、鳴き声がしないことに胸の奥が鈍く痛んだ。

ふと気づけば、部屋の隅に転がるボールも、砂の入ったトイレも、ただの物に戻っていた。


半年が過ぎたころ。

私はいつものように朝のランニングに出ていた。土手の道を走るのが習慣になっている。秋の空気は澄んでいて、川面が朝日を反射していた。


前方に、小さな影が座り込んでいるのが見えた。近づくと、それは自転車とともに倒れている小柄な女性だった。淡い色のワンピースの裾が土で汚れている。膝を押さえて顔をしかめていた。


思わず声をかけた。

「大丈夫ですか?」


女性は顔を上げ、私の目をまっすぐに見つめた。頬がわずかに赤くなり、恥ずかしさを隠すように口を開いた。

「にゃあ」


転んだ照れ隠しに思わず発した言葉だとすぐにわかった。彼女は苦笑し、視線をそらした。私は一瞬戸惑ったが、その響きが、かつての子猫の鳴き声と重なって胸の奥に沁みてきた。


自転車を見ると、チェーンが外れていた。私は膝をつき、手を汚しながらチェーンをはめ直した。カチリと音を立てて元に戻ったのを確かめ、立ち上がった。


そのとき、彼女が小さな声で言った。

「……結城先輩ですよね?」


驚いて顔を上げると、彼女はまっすぐに私を見ていた。高校時代、同じクラブに所属していた後輩の顔が、時間を越えて重なった。


「やっぱりそうだ、先輩ですよね。こんなところで会うなんて」

彼女は立ち上がりながら、照れくさそうに笑った。


「久しぶりだな」

私も言葉を返す。


しばらく言葉を探すように沈黙が流れたあと、彼女がぽつりと言った。

「もしよければ、今度ゆっくり話しませんか?」


自然な流れだった。

「そうだな。じゃあ、来週の土曜とかどうだ?」

「はい。楽しみにしてます」


彼女は小さく頷いた。その横顔に、再び小さな命と過ごした3ヶ月の記憶が重なり、心の奥が温かく満たされていくのを感じた。


偶然の再会は、過去の延長ではなく、新しい始まりになるのかもしれない。

私は、そんな予感を確かめるように、走り慣れた土手の道を彼女と並んで歩き出した。

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