第2話「映らない契約」
顔合わせの場所は、狭霧から指定があった。河川敷。都心部を曲がりくねって流れる川の、ちょうど高架の影が落ちる区画。夏を越えた草の匂いと、どこかのグラウンドから遅れて届く掛け声。日暮れ前の風は生ぬるく、音をよく運んだ。
湊は、土手の階段の二段目に腰を下ろし、靴紐を二度、結び直した。緊張しているときの癖だ。土手の向こう側の水面は、風にひっかかれた布のように細かく皺を寄せ、陽の名残りを細く砕いていた。
「お待たせしました」
声は、背後から落ちてきた。振り返ると、そこに白い布が立っていた。昨日と同じ、高さと軽さ。布地は昼間の光を吸って、境目が柔らかい。
狭霧は、湊の隣の段に立つと、いつものように距離を測った。半歩。足の置き方は静かで、踏むというより置くに近い。
「神田さん」
「はい」
「名は、縛りです」
挨拶の代わりに、そう言った。
布の重なりは表情を見せない。その代わり、言葉の置き所がはっきりしている。水面に小石を落とすときのように、音の中心を見ている人間の声だ。
「名は、縛り……?」
「名を持つと、そこに結び目ができます。ほどくには、誰かにほどいてもらう必要がある。私は、ほどいてもらうのが苦手なので、最初から結ばない」
「では、その狭霧という呼び名は」
「あなたが呼ぶための音。名ではありません。音は流れます。縛らない」
理屈として理解したというより、風の筋道が一度だけ強くなって、その向きを覚えたような納得だった。
狭霧は続ける。
「本題です。契約を。条件は、三つ」
白布の端が、風でわずかに揺れて、言葉の前置きをする。
「一つ目。映さない。あなたのカメラに、私が写り込まないよう、あなたは意志をもってフレームを選ぶこと」
「はい」
「二つ目。私の存在を断定しない。『いる』とも『いない』とも言わない。視聴者の問いに対しても、断言を避ける。言葉で結ばない」
「……はい」
「三つ目。終業は二一時三十分厳守。これは譲れません。退勤ではなく、終業。私の動ける時間に制限がある」
言いながら、布の下の手が、何か小さな札のようなものを撫でた気配があった。
終業時刻──定時──は、狭霧にとって、ただの生活習慣ではないのだろう。何かの線引き。内側と外側を分けるための、時間の結界。
「対価は?」湊は訊いた。「私は、何を払えばいいんですか」
「あなたの声。あなたの歩き方。それから──」
狭霧は、布の奥で言葉をひとつ選び直す間を置いた。
「あなたの『言い方』を、借ります。見えないものを、見える場所まで運ぶ言い方」
「実況、ですね」
「そうとも言う。私は、あなたに隠れて働きます。あなたは、私を隠したまま伝える。互いに、互いの『外側』で、支え合う」
湊はうなずいた。うなずくことで、その約束が体のなかに入っていく感じがした。
狭霧は、布の下から、和紙の小片を取り出した。名刺より一回り小さい。灰白の繊維が見える。手漉きの、古い紙の感触に似ているが、指腹に当てると、紙と布の中間のひんやりとした硬さがあった。
「これを」
「何ですか」
「ノイズを、一時的に落とす紙。カメラの前に一瞬かざしてください。電気的ではない、別の雑味が引きます」
与えられた紙を手の中で裏返す。片面に、薄く、水の輪のような模様。もう片面は無地。匂いはほとんどない。ただ、紙そのものの静けさが、音のある場所を吸っている。
「これは、どこで」
「拾いました。昔」
拾った、というのは、見つけることと、捨てられないことが一緒になった言い方だ。
紙は、名を持たない。だから縛らない。
湊は紙を胸ポケットにしまい、アクションカムの角度を微調整した。
河川敷を渡る風が少し強くなる。進行方向の空が濃く沈んでいく。
「では、向かいましょう」
狭霧の声は、日常を歩き出すための高さに降りていた。
◇
同伴配信の初回。
入域は十九時五分。出域予定は二一時二十五分。終業二一時三十分厳守。
湊はいつもより一分長く、導入の挨拶をした。契約の二つ目──断定しない──を守るために、言葉の選び方が増える。
《本日は、規約準拠のテスト協力者の方に、同行の許可をいただいています。安全確保のため、カメラにお姿は映しません。映さないことで守れるものがあるからです。確認のため、数秒だけ、ノイズを落とします》
胸ポケットから和紙を取り出す。アクションカムのレンズ前に、ふっと通す。
ザザ……と常に薄く乗っていた砂のような粒立ちが、画面からすっと剥がれ落ちた。空気が一枚、静謐の方へ向き直る。
コメント欄が、一斉に息を呑んだように止まり、すぐに流れ始める。
・今の何?
・ノイズ消えた?
・空気キレイになった(語彙力)
・幽霊フィルターw
・いやガチで違うわこれ
《今の紙は、音響さんに見せてもらった、古い防波紙の簡易版のようなものだそうです》
嘘ではない。音響さん、というのが具体的に誰かは言わない。断定しない約束がある。
《では、いきます》
カメラは肩越しのまま。湊の視界に、狭霧は入らない。歩幅のリズム、足の置き方、壁の反射光で距離を測る。
最初の角。昨夜よりも乾いている。天井の梁に白い粉がわずかに積もっていて、風で流れた筋が見える。
《前方、空気がいったん膨らんで、すぐに戻る。生き物の気配というより、仕掛けのほう》
と、説明しようとした瞬間、床の上を、白い線が一つ、走った。
罠の糸──ではなかった。罠の「痕跡」。糸がそこにあったことだけが残り、実物は、もう、どこにもない。
「処理済みです」
狭霧が、画角の外で短い報告をする。その声は湊にだけ届く音量。
《いま、足元、罠の痕跡が一本。実体は、もうありません。足は正常に置いて大丈夫》
湊はノートを読み上げるみたいに、言葉を区切った。
視聴者は、すぐに反応する。
・え、何が起きたの
・刈り取り後ってこと?
・もう無いの怖いw
・映らない護衛さん?
・幽霊護衛(定着しつつある)
角の先、薄い膜を張ったような空気の境があった。膜は、人が通ると、静かに破れて、何事もなかった顔をする。
通過。
《通路の幅、昨日よりも狭い。同時に通れるのは二人分。壁面に、最近ついた擦り傷。刃先の高さは腰くらい》
言葉にすることで、見えていないものを一段、近くに引き寄せる。説明すればするほど、自分の体が「状況の形」に巻き取られていくのがわかる。
耳の奥で、金属の呼吸がひとつ、短く吸って、吐いた。
次の瞬間、湊の前方にいたはずのメズ・バットが、床に薄い影を落としていた。羽は二枚だけ、整ったまま残っている。
《ひとつ、落ちました。羽根だけ、二枚》
・斬ってる……のか?
・映らないアクションw
・音で分かるの、こわ面白い
・カメラの外の剣戟(前回タイトル回収)
・ステマじゃないの?
アンチの声も混ざり始める。
《言葉で追います。目で見えないことを、耳と、空気の変化で》
湊は、言う。言うことで、視聴者と同じ距離に立つ。
《前方、二十メートル。床の砂が、外に吐き出す向きで動いている。何かが、内側に息を吸っている。ハウンド系の気配》
狭霧の足音が半歩、前に出る。
風が、縫い結ばれる。
瞬間、空気の繊維がひとつ、固くなる音がする。
《いま、突き。空気が一度だけ、針のようにまっすぐ。──はい、止まりました》
物言いを終えると、床の上には、汁のない黒い皮片と、くぐもった金属片だけが残っていた。
見せ場は、見えない。
けれど、見えないものに言葉が寄り添うと、見えなさは「嘘」から、別の名前へ変わる。
《ありがとう》
湊は、画角の外に、静かに礼を言った。
狭霧は返事をしなかった。かわりに、布の端が視界の端でひらりと揺れる。定位置だ。
通路の途中、昨日より濃い匂いの帯に入る。
《甘い匂い。腐敗促進剤の類か、あるいは、罠に使う誘引剤。床、粘る場所あり》
靴の裏がほんのわずかに軋み、壁面の微細な反射が変わる。
次の瞬間、床下から細い針が数本、音もなく立ち上がった。
立ち上がった──痕跡だけ。
本体は、いない。
刈り取られた縁だけが、紙を抜いた後の切り込みみたいに残り、そこに埃が落ちて、すぐ平らになっていく。
《処理、済んでます》
湊の声に、コメントが重なる。
・早すぎるw
・あの白布さんマジで仕事早い
・ただの演出でしょ?(アンチ)
・複数人で先回りして切ってるだけ
・ステマ乙
・音の位相が本物っぽい(物理勢)
・位相w(語彙が好き)
アンチは、言葉の切れ味が鋭いときほど、削り取られる皮膚が浅く済むと思っている節がある。
湊は、息を整える。
《見えない行為を、言葉で追うのは、簡単ではありません》
《でも、見えないからこそ、どこに何が残ったかを、言葉で示せる。刈り取られた後の残滓。音の止まり方。匂いの薄れ方。床に残る微粒子の流れ》
《みなさんは、その変化の「後」を、一緒に見てください。前は、今のところ、私も見えていません》
途中、通路の幅が急に広がる場所で、和紙の小片をもう一度、レンズの前に通した。
ざざざ……と画面の砂が剥がれ、灯りの輪郭がすっと滑らかになる。
《ノイズを落とす紙。正式名称は、まだ、ありません》
「名は縛り」と言った狭霧の言葉を思い出し、湊はそれ以上、名前を与えなかった。
◇
中盤、思わぬ場面に遭遇した。
誰かの声。若い女の、助けを呼ぶような声。
昨日の針罠に似た匂いが薄く漂い、通路の角に、あまりにも都合の良い「隠れる場所」が見えた。
《声、前方。二十メートル。壁の凹みに一人分の影》
狭霧の足音が、湊の後ろで止まる。
《呼びかけます》
標準の声掛け。「単独通行です。すれ違い希望」
返答は早かった。「助けてください。足を──」
言い終わる前に、角の影の縁が、不自然に揺れた。
湊は、言葉を重ねるのをやめ、呼吸の音だけをマイクに乗せた。
刃の気配が、一度、空気の中で縮れてほどける。
次の瞬間、角の向こうから、くぐもった「うわっ」という声と、何かが壁に叩きつけられる鈍い音が届いた。
《通過します》
角を曲がると、そこには足を押さえていた女が、壁に背を打ち付けて座り込んでいた。顔は映さない。映さないように、湊の肩がわずかに画角を塞ぐ。
床には、細い針の根本。薬剤の袋は破け、内容物が床で泡立つ。
《罠、起動前に無効化。針は壁へ。負傷者確認。意識あり。こちらはすれ違いを提案します》
女は「すみません」を繰り返した。顔が映らないように、湊は視線を落としたまま通り過ぎる。
通過後、狭霧が低い声で告げる。
「匂いが逆でした」
「逆?」
「誘う匂いではなく、相手を遠ざけるための匂い。『近づかないで』と、言っていた」
「……罠じゃなかった?」
「罠の断片を利用した、拙い遠ざけ方。どちらにせよ危険。あなたの言い方は、正しかった」
湊は、胸の奥に重く残っていたものが一つ、正しい場所に戻るのを感じた。
《いまのは、罠ではなく、警告の香りでした。現場では、言い間違えることがあります。だから私は、断定を避けます》
見えない契約の二つ目──断定しない──は、こういうとき、自分のためにも働く。
◇
残り二十五分。視聴者数は四千を超え、コメント欄は賛否と茶化しでせわしない。
・幽霊護衛(拍手)
・音の実況、クセになる
・でも映さないのは卑怯(アンチ)
・複数人で突破してるやつ(陰謀)
・運営のステマ(陰謀その2)
・ステマってほど金かかってなさそう(現実)
・言い方が好き(推し)
湊は、画面の左下で流れる文字を眺めながら、決めた。
──これからの実況は、「見えないアクションを言語化する」方針でいく。
単なる結果報告ではなく、過程と、過程が通り過ぎた「跡」を、連続する言葉にする。
見えないものの輪郭線を、声でなぞる。
言葉は名ではない。けれど、言葉は、見えないものを包んで運ぶ。包むが、縛らない。
《前方、空気の層が、薄い紙を二枚重ねたみたいに、少し浮いている。そこに空気の割れ目。刃が通る道》
《いま、そこへ、誰かの刃が入りました。音は細い。呼吸は短い。──止まる。はい、地面に落下音、三回。金属、布、骨》
《残るのは、床に薄く擦れた跡と、匂いの変化だけ》
語りながら、湊は奇妙な安堵を感じていた。
見えないものを「ない」と言わない、という選び方は、孤独を薄める。
「いる」と言えば嘘になるとき、「いない」と言わずにいる術が、言葉の中にある。
◇
帰路。終業時刻まで、残り七分。
《帰ります。出口までの間も油断しません》
狭霧は、いつもどおり時間管理を口に出さない。代わりに、歩幅をわずかに早める。
ゲートの手前、湊はもう一度、和紙の小片をカメラにかざした。
画面の砂が剥がれ、静けさが一枚、手前に滑ってくる。
《この紙のことを訊かれますが、私は、名を付けません。名は縛りだから》
コメント欄が、一瞬だけ静まった。
・名は縛り(刺さる)
・かっけえんだよなこの人の言葉
・縛られたい(やめろ)
・断定しないの、いいね(推し)
出域。二一時二十五分。終業五分前。
配信を切る直前、湊は深く頭を下げた。
《本日はここまで。同行してくださった方に、礼を。視聴者の皆さんにも、礼を。また次回》
エンディングの静かな音楽が流れる。画面が黒へ落ちる。
◇
ロッカールーム。
狭霧は、ドアの影に半身を置いたまま、湊に短く言った。
「おつかれさまです」
「ありがとうございます」
狭霧は、布の下から何かを取り出した。和紙の小片。先ほどのものとよく似ているが、角が少し丸い。
「予備。あなたのものです。お好きなときに、使ってください」
「代価は」
「今日のあなたの言い方。十分にいただきました。……それから、ひとつだけ、お願いを増やしてもいいですか」
「お願い?」
「四つ目。『逸らさないこと』。あなたが危険から目を逸らさないかぎり、私は、あなたの画角の外側にいられます」
四つ目の条件。
契約は、固く結ばれるのではなく、薄い膜を重ねるみたいに更新されていく。
湊は、しっかりうなずいた。「逸らしません」
狭霧は、布の下で指をひとつ鳴らした。数えるように。
「では、終業です」
時計は、二一時三十分ちょうどを指そうとしていた。
白布は、踵を返し、音もなくロッカー間の通路を抜ける。
「明日は」
思わず呼び止めかけた湊の声に、狭霧は振り返らずに短く返す。
「呼んでください。ただし、終業厳守です」
◇
帰り道、湊はコンビニの前の縁石に腰を下ろし、スマホで反応を確認した。
切り抜き勢がすでに動き始めている。
「【映らない契約】幽霊護衛と配信者、三つの条件」「名は縛り──見えないものを縛らない語り」「音だけで戦闘を実況してみた」
タグは、半分が揶揄、半分が賛同。
アンチの口はたいてい達者だ。
「ステマ」「複数人突破」「運営案件」「台本」──
湊は、スクロールする親指を止め、深呼吸した。
「見えないアクションを言語化する」
方針はぶれない。
マーケティングの語彙で殴り合っても、殴り返せるのは同じ語彙だけだ。
言葉の筋肉を別の使い方で鍛える。
湊は、ノートアプリを開き、今日の配信の「言い方」を文字に起こしていく。
《前方、空気の層が重なる》《呼吸の短い音》《針のようにまっすぐ》《止まる》──
並べて書いてみると、短い詩に似ていた。
誰かの刃が紙の上で息をしている。
◇
その夜、DMが届く。送り主は狭霧。本文は短い。
──本日の同行、感謝。
──あなたの『言い方』、たいへん役に立ちました。
──明日、必要であれば、二〇時から。終業は、二一時三十分。
それだけで、十分だった。
湊は「お願いします」とだけ返し、布団の上で、今日の言葉のいくつかを心の中で転がした。
名は、縛り。
映さない。
断定しない。
終業厳守。
逸らさない。
四つの条件は、どれも、どこか優しかった。誰かを縛るための縄ではなく、誰かが誰かに触れない距離を守るための薄い糸。
目を閉じる。耳の奥で、金属が、短く、呼吸をした。
◇
三日目の配信は、さらに視聴者が増えた。
開始直後から三千。中盤で五千。
《本日も、昨日と同じ条件での同行です。映しません。存在を断定しません。終業は二一時三十分》
コメント欄は、もう、半分は理解している。
・断定しないの良い(固定ファン)
・映さないから信じる(逆説)
・でも映して(甘え)
・名は縛り(座右の銘にする勢)
・幽霊護衛(定着)
アンチは、理屈を増やした。
・複数人突破なら説明つく
・先頭に盾役、後ろに斬り役、最後尾に配信者
・音の位相は編集でいじれる
・カメラに和紙でノイズ軽減=サードパーティ製フィルター(無理筋)
湊は、笑ってしまいそうになりながら、声を整えた。
《では、今日は「見えないものの跡」を、いつもより細かく拾います》
《まず歩幅。私の歩幅は六十八センチ。今日の床は乾いているので、砂の鳴る音が一歩ごとに均一に近い。そこに、別の足音。私より半足小さい。床に接する音の面積が小さい》
《壁の傷。昨日のものが一つ、乾いている。上から二十一センチの位置に、角度の浅い削れ。刃が通った跡。今日は、そこに新しい粉が載っている》
《匂い。甘い匂いの帯が薄い。誘引剤ではなく、警告の匂いに近い》
《風。前方に向かって、一度だけ、吸うような動き。呼吸ではなく、罠の空気。そこへ、針のようなまっすぐが入る》
《止まる。落下音、二回。金属と、空の袋》
視聴者の文字は、一瞬間を置いてから、落ちてきた。
・実況が詩
・言葉で見せるってこういうことか
・映らない契約、好きになってきた
・ぐぬぬ(アンチ消えない)
歩くこと、話すこと、聞くこと。
その三つが、同じ速度で揃うと、体は驚くほど楽に動く。
狭霧の足音は、今日も半歩だけ後ろで、時々前へ、時々横へ。そのたびに、空気の繊維がひとつ、正しい方向へ向き直る。
終業が近づいた頃、狭霧が珍しく言葉を継いだ。
「あなたの歩き方、少し変わりました」
「どこがですか」
「『誰かと一緒に歩く』歩き方に。悪くない」
「……よくわかりますね」
「音は、いつも正直です」
◇
配信を切り、ロッカールームから出ると、河川敷へ続く道に、昨日と同じ風が吹いていた。
湊は、土手の二段目に腰を下ろし、和紙の小片を指で撫でた。
スマホが震える。狭霧からのDM。
──あなたの視聴者の一部が、危険な場所に足を運ぶ予兆が見えます。
──明日、入口近くに注意喚起の札を貼ります。
──名は、書きません。ただの「注意」。
湊は、しばらく画面を見つめ、それから、短く返した。
「お願いします」
続けて、もう一通。
「あなたは、幽霊護衛ではないと、私は思っています」
既読がつく。
返事は、すぐではなかった。
やがて、三行。
──私は、誰かの外側にいるだけです。
──外側は、内側を守るためにあります。
──終業です。おやすみなさい。
画面が暗くなる。
川の水面が、夜風で細かく震えた。
名を持たないものたちの気配が、音もなく出入りする。
映らない契約は、その中に置かれた薄い橋のようなものだ。渡る者は少なくていい。壊さないように、音を立てずに。
湊は、和紙を胸ポケットに戻し、空を見上げた。
空は、映らない。
それでも、空の下で起きたことを、言葉にして人に渡すことはできる。
次回、彼は、入口の注意札の前で、ゆっくりと説明から始めるだろう。
断定せず、逸らさず、映さずに。
終業二一時三十分厳守で。
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