映らない護衛が最強だったので、俺の配信は定時で伸びます

妙原奇天/KITEN Myohara

第1話「カメラの外の剣戟」

 東京ダンジョンの低層は、通勤時間帯の地下鉄に似ている。どちらも照明は均一で、空調の風はやけに乾いていて、遠くから足音が連なってくる。違うのは、地下鉄には発車メロディがあるのに、こちらには金属が擦れる音があることだった。金属と金属。石と金属。金属と骨。音は種類ごとに温度を持っていて、冷たいほど観客は食いついた。

 神田湊は、スリングで胸に固定したアクションカムを指先で叩き、ピントの遅延を確かめる。三秒くらい遅い。回線の混み具合のせいかもしれない。コメント欄はまだ静かだった。配信開始から二分。いつものように、誰も来ない時間だ。


《0:02:11》

【コメント】

 ・誰?(初見)

 ・通知来たので来ました(定期)

 ・きょうも肩越し通路助かる

 ・音だけプロ


 「ただいま低層三層、南方坑道にいます。今日は新しいマイク、導入しました。……安いので、ノイズ乗ったらすみません。はい、そういうわけで、やっていきます」


 この言い回しは、登録者千人未満の配信者なら何度でも使う定型文に近い。こちらは何も特別ではないと告げるための、おまじない。期待を下げることで、偶然が起きたときの跳ね方を大きくする。湊はそれを性格としてではなく、手順として選んでいる。

 ダンジョンの壁は、コンクリートと粘土の中間のような色の石でできている。壁面の細かい凹凸が照明を受けると、肩越しのカメラには砂の星空みたいな粒が映る。画面に情報が少ないぶん、音はよく拾える。


 金属音が、ふと、こちらに寄ってきた。


 湊は足を止める。コメントが増える。視界の端で、ベージュの砂塵が煙のように流れ、何かが通路の角から現れて、消えた。


 ・今の何?

 ・風?

 ・編集??

 ・いやライブだぞ?


 「いま、通路の角に、風圧ありましたね。先行がいるかもしれません。……声、かけます」


 彼は通路の先に向かって、ダンジョン庁が定める入域者同士の標準呼びかけを発する。「そちら、探索者の方。単独通行です。すれ違い希望」

 返事はない。代わりに、ぴん、と針金の跳ねるような音がした。次いで、ふたつほど。たぶん、ワイヤートラップだ。

 「三層にワイヤーは珍しいんですけどね」湊は笑ってみせる。「低層は教育用で荒れないはずなんですが──」


 床に近いところで、何かが弾けた。火花が散る。画面の中心は湊の肩で半分隠れているのに、光だけが鋭く画面に噛みつく。マイクは人間の声を拾わない。かわりに、刃の跳ねる空気音、風の裂け目、壁を擦る革の音、石が何か硬いものに当たって落ちる音を拾う。

 誰かが戦っている。画面には誰もいないのに。

 コメント欄がざわつく。


 ・見えないんだけど

 ・これエアソード?

 ・実は編集だったり

 ・いや生なんだって

 ・管理AIの影?(都市伝説厨)


 湊は喉の奥が乾くのを感じた。彼は何度かこういう音を聞いたことがある。画面の外、明るさの縁の、そのさらに外側で、何かが“処理”されていく音。

 通路の角から、透明な果汁をこぼしたような粘液が流れてきた。低層の雑魚種、スライム系の体液だ。床に触れた部分が微かに泡立ち、煙のような白い霧が薄く立った。画面には見えない刃の影が、霧の向こうで何かを刻んでいる気配だけ残す。

 湊は、ただ、退かないようにした。ここで逃げれば本当に「やらせ」だと思われる。彼の配信の唯一の芯は、逃げないことだった。


 音が止む。煙が収まる。床には、きれいに四角く切られたスライムの核石が転がっていた。本来なら触れると微量の電撃が走るはずだが、核はすでに冷えている。

 「……えーっと」湊は核石に近寄って、ピントを合わせる。視聴者数が跳ねた。


《視聴者:73 → 138 → 221》


 ・核出た!

 ・普通にうまい

 ・でも誰がやったんだよ

 ・映ってないってば

 ・透明人間?(笑)

 ・現場猫ヨシ?(定時厨)


 湊は、核石を摘み上げ、小さなビニール袋に入れる。指先の震えが、マイクに微かな衣擦れの音を乗せた。

 「この層に核が落ちるのは、まあ、運です。……運ですけど、今のは、ちょっと……」


 言いかけて、やめた。何を言っても、言葉は穴を深くする。自分の口が、イワシの群れに投げるパン粉みたいに視聴者を集めるか、逆に散らすかは、言い方ひとつで決まる。


 探索を続ける。角を曲がり、段差を降り、壁に残る古いロープ痕を見上げる。誰かがここで練習したのだ。教育目的で整備された低層の通路は、誰かの訓練の跡を吸い込んでは、無表情な壁に戻っていく。


 次の角。温度が変わる。空気が少しだけ甘くなる。腐った果物に似た匂い。

 「……きます」


 マイクが拾う、羽音。正確には、膜と骨が空気を叩く連続音。小蝙蝠型のメズ・バット。群れて来ると厄介だが、単体ならライトと棒で叩き落とせる。

 湊はライトを壁に向けて跳ね返し、影の角度で距離を測る。ふいに、羽音が消えた。消えた直後、さっきと同じ、空気を鋭く縫い合わせるような音がひとつ。

 床に、コインのように薄い黒い羽が二、三枚落ちる。血は出ない。そういう種だ。

 「……ありがとうございます」


 誰に向かって言ったのかわからない礼を、湊は無意識に口にした。

 コメント欄は、これみよがしに沸いた。


 ・誰に礼言ってるw

 ・見えない彼氏

 ・編集でSE入れてるだけでしょ

 ・いやSEにしては空気鳴りがリアル

 ・プロの人どう?(呼びかけ)

 ・(※プロ)これ本物の間合い音に聞こえる

 ・は?(荒らし)


 湊は、進む。核石の袋の重みがポケットで揺れる。その重さは、今日の配信の成否を量る天秤の皿みたいだった。

 配信は四十五分で切るつもりだった。帰り道や機材トラブルを考えると、彼に許されるのは一時間の現地滞在だ。長くいれば、変なことに巻き込まれる確率が上がる。

 出入口のある北方坑道へ戻る曲がり角あたりで、視聴者数が再び跳ねる。


《視聴者:221 → 538 → 801》


 ・切り抜き来たから来た

 ・バズってんぞw

 ・肩越しダンジョン、音だけプロってこれ?

 ・今


 今──のあと、コメントが砂のように流された。画面の左隅、安定していた照明が一瞬だけ暗くなり、すぐに戻る。システムの明滅ではない。影が、光源を塞いだ。

 湊は立ち止まらない。止まれば、影は立ち止まる。歩けば、影は歩く。そういう類のものがある。経験のない誰かが言えば嗤い話になるが、ここの石は知っている。

 足音が、もうひとつ増えた。湊の歩幅より、半足りない。重さは軽い。靴底は薄い。床に接する音の面積が小さい。

 「……護衛、さん?」


 返事はない。けれど、足音は半歩だけ下がった。湊の背後の、画面に映らないぎりぎりの位置に、誰かがいる。

 カメラのフレームから、徹底して外側に。


 出入口のゲートが見えてきた。ダンジョン庁の青いロゴが壁に浮かぶ。視聴者は千人を超えた。湊の心臓が、別の意味で騒ぐ。

 ゲートで退出手続きを取る。機械にカードをかざし、酸素濃度のチェックを受け、ロッカーに預けていた荷物を受け取る。その間もコメントは流れ続ける。


 ・核石何個?

 ・さっきの音マジで何

 ・カメラアングル天才だよね(皮肉)

 ・いや肩越し固定は逆に正解かも

 ・見えない人が戦ってる説

 ・透明じゃなくて外してるだけでしょ

 ・この人の語りが落ち着く(推し)


 ロッカールーム。鏡の前で、湊はカメラを外し、静かに電源を切る。画面は広告に切り替わり、やがてエンディングの固定画像へと移る。

 配信終了の挨拶は、いつだって同じだ。彼は短い礼を述べ、次回予告を曖昧にし、「よければチャンネル登録を」と発し、深く頭を下げる。頭を上げるときには、すでに配信は切られている。

 スマホが震えた。通知が六件。フォロワーが増える通知が四件。DMが一件。

 件名はない。本文は、二行だけ。


 ──護衛の提案。

 ──条件:映さないこと/定時退勤。


 もう一往復するように、続けて二行。


 ──明日、三層南、十八時集合。

 ──遅刻厳禁。


 送り主の名前欄には、ただ「狭霧」とあった。

 湊は、ロッカーの扉に映る自分の目を見た。興奮で少しだけ赤い。笑っているように見えるが、笑ってはいない。笑うほど、余裕はない。

 「……明日」


 声に出すと、音は脆くなる。だが、音にしないと自分が自分に追いつけないときがある。

 湊は返信を打つ。了解、の二文字。

 打ってから、やめる。了解、は、相手に上と下を作る言葉だ。

 「わかりました。テスト協力、お願いできますか」


 送信。

 ロッカーの扉が、静かに閉じた音がした。小さな音だったが、今日の一番大きな音に感じられた。


     ◇


 狭霧という名は、都市伝説のなかで古い。最初にネットに流れたのは、四、五年前だ。ダンジョンの出現から日常化までが最も激しかった時期、ひと息に書かれたまとめサイトの片隅に、余白のように載っていた。「白布を被った人」。

 彼は、救う。

 彼は、映らない。

 彼は、定時で帰る。

 よくできた冗談として、人々はそれを共有し、スタンプにし、パーカーにプリントした。ときどき真顔で語る人間が現れると、からかい半分の温かい嘘に包まれた。嘘に包むことで、ほんとうにそれを見た人の目を守る。

 都市伝説のいいところは、ほんとうを薄めて持ち歩きやすくすることだ。

 湊は、そんなことを思い出しながら、翌日の荷物を詰めた。核石は買い取り所に出した。二千八百円になった。生活が少しだけ延びる金額だ。

 夜、彼は動画の切り抜きを編集し、タイトルをつけて予約投稿した。「【東京ダンジョン】カメラの外から聞こえた剣戟【三層南】」

 公開を明日十七時に設定する。十八時の集合前、目を集めておきたかった。


     ◇


 翌日。湿った曇り。地上の空気がすこし重い日は、地下の空気は軽くなる。ダンジョンの入口は、相変わらず無表情な歯のように口を開けている。

 三層南。集合十分前。

 湊は、入口近くの手洗い場で手を洗い、鼻の奥の粘膜を軽く水で湿らせる。嗅覚が利かないと、濃度の変化に気づけない。低層でもそれは変わらない。

 時間ぴったりに、足音がした。

 振り向いた先に、白い布があった。


 ほんとうに白布だった。全身を覆う薄布。輪郭だけを身体に沿わせ、顔の位置に布の重なりがあるので表情は見えない。布は古い医療用のガーゼを思わせるが、織りは密で、わずかに光沢がある。布の下には、音が入らない。

 高さは、百七十あるかないか。体格は細い。手の甲まで覆っているが、布の下で指を動かす癖があるらしい。何かを数えるように、指が小刻みに動いて、すぐ止まった。

 「神田湊さん?」


 声は、布の重なりの中から柔らかく漏れてきた。十代半ばの少年の声にも聞こえるし、二十代の落ち着いた声にも聞こえた。年齢は布の厚みのせいで散って、掴めない。

 「はい。あなたが、狭霧さんですか」


 「通称。呼びやすいように」

 布の向こうで、わずかに頷く気配がある。「条件は、前に送った二つ。映さないことと、定時退勤」


 「……定時は、何時ですか」


 「十八時四十五分」

 「退勤」ではなく「退庁」と言いかけて飲み込むような、職場語彙の迷い方をした。

 「今日のテストは、四十分。出入口から三層南の巡回一周。あなたは喋って、歩いて、死角に入らない。私は、死角にいる。あなたは、カメラを固定したまま、私を映さない」


 「はい」


 「対価は、あなたの視聴者と、あなたの声。あなたに危害が及ばないことの証明として、それを、今日だけ、借ります」

 妙な言い回しだと思った。「危害が及ばないことの証明」。証明とは誰に向けて行うのか。

 「では、十八時開始。十九時前に戻る」


 布は、湊の横を通りすぎ、ゲートに向かって滑るように歩いた。足音は、昨日、半歩うしろで聞いたそれだった。軽く、薄い。


     ◇


 開始五分前に配信を開く。タイトルには昨日と同じ言葉を並べた。サムネイルは簡素に、肩越し通路。

 視聴者は最初から百人を超えた。切り抜きが効いている。

 「本日は、テスト協力をいただいています。映せません。映しません。こちらの安全のための対処です」


 ・昨日の彼女(彼)?

 ・映さない宣言ww

 ・炎上不可避(褒め)

 ・定時退勤の人?


 定時退勤、という文字が、コメント欄でちらつくたび、狭霧の布の向こうが微かに笑っている気配がした。言葉で笑う代わりに、呼吸を一回、静かに短くする人がいる。

 十八時、入域。

 カメラは昨日よりもぶれない。湊は狭霧の足音を、耳の片方に挟み込むように意識して歩く。

 通路の角。昨日、ワイヤーの鳴った場所だ。

 ぴん、と、また針金の音がする。狭霧は、音より先にそこにいた。足音が消える。布の裾が擦れる気配がないのに、空気だけが刃物のように移動する。

 何かが切られる。

 画面の端で、火花が弾ける。火花には色がある。青いのは硬い金属、黄色いのは薄い板、赤いのは粘り気のある刃。今日の火花は白っぽい。トラップの骨材に混ざるマグネシウムが露出したか、あるいは──

 湊は、喋る。「三層南は、教育目的の層です。視界が開けていて、他の探索者もいる。……はずですが、今日は少ないですね」

 視聴者数が、また跳ねる。


《視聴者:1,042 → 2,018》


 ・切り抜き主おる?

 ・来ました!(団体)

 ・肩越しカメラ、ガチで正解だと思うわ

 ・誰かいるのに映らないの怖い

 ・音デカくして見てる(隣近所ごめん)


 角の向こうで、爪の音がする。ハウンド系の足音。速い。

 湊はライトをわずかに上向けにし、天井の梁に光を当てて、影の位置で数を読む。二。

 距離は、八メートル。

 狭霧の足音が、前に出る。

 風が一度だけ、湊の頬に冷たく触れ、そして前方に吸い込まれていった。

 突き。

 画面の外で何かが止まる。止まった、直後、さらにひとつ、止まる。

 床に落ちた金属片が転がって、カメラに近いところで止まる。拾い上げると、小さな留め具のようなものだった。狭霧が何をしたのか、湊には見えない。

 「……通過します」


 脚が勝手に前に出るのは、恐怖ではなく、信頼に似たもののせいだと、人はよく勘違いする。恐怖のときも、脚は前に出る。後ろには脅威がいるから。

 通路の先で、透明な果汁みたいな粘液がまた流れてきた。今日は匂いが薄い。核が早く冷えたのだ。

 「核回収します」


 狭霧は、言葉を挟まず、足音を半歩下げる。湊がかがむと、布の端が視界の端にかすめる。危うくカメラにかかりそうな距離。

 湊の肩が、わずかに右に寄った。布は、左に寄った。二人の間に、見えない線が引かれている。その線は、湊の身体の外郭から、もっと外、画面の四角の外側に沿って引き回されているようだった。

 回収した核石は、小さい。今日は、数を稼ぐ日だ。

 「引き返します。タイムチェック」

 「十八時二十八分」


 湊は、声に出して時間を確認しながら、コメント欄に目だけ滑らせる。


 ・時間管理w

 ・定時のための巡回なの草

 ・いや仕事できる人って感じすごい

 ・白布さん、呼吸音しないんだけど人?

 ・人だって(※)


 通路の途中、不可解な静けさの帯に入る。音が吸い込まれる場所。ほこりが床に落ちる音すら微かに聞こえるような、乾いたポイント。

 こういう場所は、何かが隠れている。

 狭霧の足音が止まった。

 湊の喉が、無意識に空気を浅くする。

 前方二十メートルほどの暗がりで、空気がゆっくりと凹む。そこにいた。

 湊は、ゆっくりと呼吸を整え、声だけ出した。「単独通行、すれ違い希望」

 返事は、なかった。

 代わりに、石の上で誰かが立ち上がる、布の擦れる気配がして、次いで、かすかな笑い声の名残が空気に染みた。

 荒事が好きなタイプ。

 湊は、画面の中心から自分の肩を少しだけ外した。狭霧がそこに入らないために、画角の四隅のうち一つを無人にした。

 風が、二度、切り結ぶ。

 一度目は、相手の刃。二度目は、それを無効にする、何かの軌道。

 耳で聞いた。

 目には映らない。

 床に、何かが落ちる音が三回。金属、骨、そして布。

 湊は、歩いた。音に引かれるのではなく、音から目をそらさないために。

 通路の真ん中に、小さな鈍いものが残されている。拾い上げると、探索者登録カードだった。登録の色が灰に変わっている。失効済み。

 「置いていきます」


 湊が呟くと、狭霧の布が、微かに頷いたような気がした。


     ◇


 戻り道。

 「今日のテストはこれで終わりです」

 狭霧の声は、布の厚みの中で少し遠い。「あなたの歩き方は、音を拾う歩き方。視聴者に届く音を選んでいる。良い習慣。……ただ、危険を避けるときには、逆に音を捨てるべきポイントがある」


 「捨てる」


 「拾いにいく音を、切る。自分の足音を、相手の呼吸より大きくしない。あなたの声は落ち着いている。だから音が映える。……借ります」


 「借りる?」


 「今日のあなたの声。私の証明に使う」

 質問が喉元まで上がって、湊は飲み込んだ。

 ゲートが近い。空気が薄く湧いている。出口の匂い。

 集合から四十分。時間どおり。

 ゲートを抜ける直前で、狭霧が一歩だけ前に出た。

 「今日は、ここまで。お疲れさまです」


 「ありがとうございました。……えっと」


 「何でしょう」


 「あなたは、どうして、映らないんですか」


 布の向こうで、ほんの短い沈黙があり、それから、答えではない何かが落ちてきた。

 「映るものは、壊れる。映らないものは、壊れにくい」

 それだけ言って、狭霧はゲートの向こうに消えた。

 時間は、十八時四十五分の三分前。定時の三分前退勤。

 配信を切る。エンディングを流す。今日は、いつもより深く頭を下げた。


     ◇


 帰路。高架下のコインロッカーで荷物を入れ替え、缶コーヒーを買おうと自販機の前に立つと、スマホが震えた。

 DMが届いている。

 送り主は、狭霧。本文は、やはり短い。


 ──核石の買い取り、あなたの名義で。収益はあなたのもの。

 ──対価は、あなたの声の一部。切り抜き許可を。


 付記に、リンクがあった。

 開くと、見たことのない動画サイトの個人ページが表示される。サムネイルは白い布越しの暗色。音声だけの動画がいくつも並んでいる。

 再生する。

 聞こえてきたのは、湊の声だった。今日の配信の冒頭。彼の声から、雑音や「えー」といった繋ぎが消え、短く、密度の高いフレーズだけが縫い合わされている。

 「本日は、テスト協力をいただいています。映せません。映しません。こちらの安全のための対処です」

 それに重なるように、金属音。呼吸。刃の空気。

 狭霧は、湊の声を借りて、自分の「証明」を作っている。映らない護衛の、唯一の名刺。


 湊は、返信を打つ。

 「わかりました。許可します。ただ、私の視聴者に、危険が及ばないようにしてください」

 既読の表示はすぐに付く。

 ──もちろん。


 それから数秒置いて、もうひとつ。

 ──明日も、必要なら、呼んでください。

 ──ただし、定時退勤です。


 湊は思わず笑って、缶コーヒーのボタンを押した。缶が落ちる音が、ゲートのロック解除音に少し似ていた。

 雨が、細く降り始めていた。

 高架の下を歩く。夜の起毛した空気が、肌を軽く撫でていく。

 都市伝説は、そうして、人の体温と混ざる。混ざることで、すこしだけ形を持つ。


     ◇


 その夜。

 切り抜きは、想像以上に伸びた。四時間で五万再生。コメント欄は半ば荒れ、半ば擁護で埋まる。

 「編集だ」「やらせだ」「いや、この呼吸音は本物だ」「映せ」「映すな」「映らないから価値がある」──

 議論は熱を帯びるほど、証拠から遠ざかる。熱は、事実を溶かして撓ませる。

 湊は、画面から視線を離して、壁の時計を見る。針が、静かに十を指した。

 明日の予定表を開く。

 三層、南。ルートは昨日と同じ。出入口すぐ横のベンチに、「狭霧」というふせんを貼るみたいに、頭の中で目印を置く。

 枕元のスマホが震えた。

 知らない番号からのショートメッセージ。本文は、また短い。


 ──あなた、結構いける。

 ──ただ、声に、嘘を混ぜないこと。


 湊は、返事をしなかった。

 返事をしないときの沈黙は、拒絶ではなく、保留だ。

 寝返りを打つ。耳の奥で、金属が一度、鳴った。


     ◇


 翌日、集合の五分前。

 出入口の手洗い場の鏡に、湊は自分の顔を映した。目の下のクマは少し薄くなった。頬の色は昨日よりもいい。

 「本日は、テスト協力二日目。新しい──」


 湊が声の調子を整えていると、鏡の端に、白い布が滑り込んできた。

 狭霧は、昨日と同じ高さ、同じ軽さで立っていた。

 「おはようございます」

 「おはようございます」


 挨拶は、どちらも短い。

 「今日は、少しだけ、深いところまで」

 「低層ですか」

 「低層。ただ、人が少ない。……私の定時は、変わらない」


 「わかっています」


 狭霧は、わずかに首を傾げる。その仕草が、奇妙に幼く見えた。

 「わかっている、は、便利な言葉」

 「便利ですか」

 「はい。互いの誤解の余地を、その言葉の中にしまうことができる」

 布の向こうの声は、柔らかく、少しだけ湿っている。雨上がりの匂いのような声。

 「誤解は、いつか役に立つ。誤解がないと、真実は立っていられない」


 「……あなた、哲学科ですか」


 布が、くす、と笑ったように揺れた。

 「行きましょう。十八時、開始です」


     ◇


 入域。

 通路は昨日より湿っていた。床の砂が靴底に貼りついて、取れる音がいつもより多い。音が多いと、狭霧が少しだけ前に出る。相手が音に寄ってくるのを、音で誘導するために。

 角、段差、梁。昨日の場所は昨日の場所のままだが、湿気が違うと、音が違う。

 湊は、語る。「今日のルートは、昨日と同じですが、湿度の関係で、何かが増えています。……匂いが、少し甘い」


 甘い匂いは、腐敗の初期だ。

 床の先で、黒い塊が動いた。鼠の群れ。低層にしては数が多い。

 狭霧が、前へ。

 空気がひとつ、固くなる。

 その固さは、刀身の厚みのように、見えないのに測れる。

 鼠が、静かになる。

 湊は、踏まずに、跨いだ。

 コメント欄に、「今の何」という文字が、幾つも流れる。


 ・今の固い音何?

 ・空気が折れた気がした

 ・わかる、空気折れてた

 ・折るって何?

 ・物理の民召喚(呼びかけ)


 「風の屈折、ですかね」湊は適当を言った。「冗談です」

 冗談を言うのは、視聴者のためだけではない。自分のためでもある。

 視聴者数が、三千を超える。

 昨日の切り抜きが拡散したのだ。

 湊の声は、少しだけ落ち着きを装う必要があった。装うのは、嘘ではない。装ったときに生まれる自分も、たしかに自分だ。


 角の向こうで、声がした。

 「配信者さん?」


 人の声。若い男。

 湊は、即座に声を返す。「単独通行です。すれ違い希望」

 「助けてください。仲間が、動けなくて」

 典型的な呼びかけ。罠かもしれないし、ほんとうかもしれない。

 狭霧の布が、湊の視界の端で、少しだけ揺れた。


 「行きます」

 湊は言い、足を出した。

 通路を曲がると、そこに、二人組の探索者がいた。ひとりは足を押さえて座っている。もうひとりは、彼の肩を支えて立っている。

 床に、微かに匂いがある。

 甘い匂い。

 湊は、ライトを少し下げた。

 「大丈夫ですか。……失礼します」

 足を痛めた男の靴底の縁が、妙に厚い。普通の靴に、何かが重ねられている。

 湊が一歩近づいた、その瞬間。

 床から、薄い針のようなものが立ち上がった。

 視界の端で、白い布が、画角の外へとぎりぎりに滑る。

 空気が、一度だけ、真横に引き裂かれる。

 針が、軌道を変え、壁に刺さる。

 「退いて」

 狭霧の声が低い。

 湊は、退く。

 針の根本に、小さな袋。腐敗を加速させる薬剤が入っているタイプの罠だ。足に刺されば炎症で歩けなくなる。

 「すみません、すみません」立っていたほうの男が、早口で言った。「そんなつもりじゃなくて、ただ、その──」


 言い訳は、よく滑る。滑る言葉は、床に落ちる前に形を失う。

 狭霧は、近づかない。足音を半歩だけ前に出して、そこで止める。

 「あなたたちの安全のために、ここを離れてください」

 布の向こうの声は、冷たいわけではない。執務手順をそのまま言葉にしているような、空気の温度の声。

 「すみません。……すみません」

 男たちは去っていく。

 去り際に、ひとりが振り返って、湊にだけ、何か言いかけてやめた。

 耳に残るのは、針が壁に刺さってから微かに震える音だけ。

 湊は、小さく息を吐いた。「ありがとうございます」

 「いえ。あなたのカメラが、よく、私を外してくれたので」


 「それ、よく言われます」


 「言われるんですか」


 「ええ。……人の顔、画角に入れるの、苦手で」


 布が、やわらかく笑った。

 「苦手は、特技の種です」


 湊は、少しだけ笑って、歩いた。

 ゲートが見える。

 時間は、十八時四十二分。

 定時の三分前退勤。

 出口で狭霧が立ち止まり、湊のほうを向いた。布の重なりの向こうで、視線が合う気配がする。

 「明日も、必要なら」

 「はい」


 「ただし、定時退勤です」


 「わかっています」


 狭霧は、一瞬だけ、ほんとうに短く、ためらったように、黙った。

 「その『わかっています』を、信じます」

 それだけ言って、布はゲートの外に消えた。


     ◇


 配信を切る直前、コメント欄にひとつ、奇妙な文が流れた。

 「白布さん、昔、どこかで見たことがある気がする」


 意味はない。

 けれど、意味のない言葉は、ときどき、重い。

 湊は、喉の奥で小さく返事をした。「たぶん、みんな、どこかで見たことがあるんだと思います」


 エンディングの静かな音楽が流れる。

 画面の向こう側で、雨が強くなっていく。

 都市は、いつだって濡れている。濡れているから、光る。

 画面が黒に落ちる直前、湊は、マイクに向かって言った。


 「次回、テスト協力、もう一度。カメラの外に、います」


 配信はそこで切れた。

 画面の外側で、刃の気配が、静かに、定時で消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る