人形-5
ぐ、と後頭部の髪を掴む。近崎は何かに悩み、行き詰まる度にここを掴む癖があった。阿形にハゲるよと揶揄われたのも記憶に新しい。今近崎はここ数日の調査内容を整理しているが、頭を占めているのは自身の未熟さ故の失敗だった。考えても仕方がないことに囚われて上手く回らない頭に意味もなく焦りを感じる。これまでどうやってこの状況を切り抜けて——あるいはやり過ごしてきたのか、どうにも解決策は見当たりそうになかった。
高橋へ人形を譲った人物、藤田への聞き取りの録音を再生すると、藤田の表情や仕草がありありと思い出される。
「本当は言いたくなかったんですけど」
藤田の声には苦々しさが滲んでいる。たしか、俯いた顔は歪んでいた。机に投げ出された手は飾られたネイルの許す範囲で握り込まれており、微かに震えていた。それらが嫌悪感に由来するのか、恐怖に由来するのか、また自分の追及がそれらを催させたのか、近崎には判断がつかない。
「夜に出てくる幽霊に、子どもを作れ、その子を彼女に捧げろ、彼女を母にしろって言われたんですよね」
「それは……」
早口で答えた彼女は、努めて平静を保とうとしていた。一方で感情を抑えた声は既にこの会話が彼女にとってストレスであることを示していたはずだった。近崎はそれを見落として、中途半端な投げかけをして言葉を止めた。
確かに気味の悪い発言だ。しかし、藤田がこれまで、紛れもなくその霊の言うことに従ってきたことを考えると、たったそれだけのことがあの人形を手放す決め手になるとは思えなかった。たったそれだけのこと。そう感じるのは自分の無神経な見方かもしれない。
「それは、なんですか?」
続かない近崎の言葉に苛立った藤田のささくれた声が入る。
「いえ、すみません、続けてください」
またしばらく沈黙が続く。合間には衣擦れの音があった。居心地が悪そうに身じろぎをする藤田から発せられていたものだろう。カップを手に取り、それが空であること思い出して戻す音。空いた水のグラスを満たしにやって来る店員の他人事のような声かけ。白々しい喫茶店のBGM。
「……言いたくないんですよね」
藤田の声には切実なものがあった。心からこの先は言いたくないのだろう。何か、彼女に恥のような感覚を持たせるものがあるのだとあの時の近崎は確信した。気味の悪いことを言われる以上に、言及するのも恥を感じるような事象——近崎は是が非でもそれを訊かなくてはならない。一人で。
「そうですか」
すう、と自分の呼吸音が聞こえる。緊張していた。この質問が藤田の心象をかなり悪くすることも分かっている。それなりの決心を持って踏み込んだはずの発言が続く。
「無理に伺うわけではないですが、その霊の発言がいつなのか伺ってもよろしいですか? お話を整理すると、霊の声に従うままコレクションを処分してから、例の人形を高橋さんへ譲るまで半年ありますよね?」
「それは」と藤田のわずかに震えた声。「それは私の話に疑問があるから訊いてるんですよね?」
「ええ、まあ……」
押さえ込まれた感情にしかし気圧されて近崎は曖昧な返答しか出来ない。分かっていたつもりだが少しも上手く対応出来なかった。
「私は言いたくないって言ってるんですけど、それでも納得出来ないから、だから訊いてるってことですよね?」
震えた声は徐々にボリュームを上げる。藤田のアイラインのよれた目に射抜かれてたじろいだのを覚えている。その怒りの激しさに近崎は慌てて口を開いた。
「いえ、無理にとは言いません」
「でも辻褄が合わないと思ってるじゃないですか」
すかさず藤田の声。詰問する声に近崎はどんどんしどろもどろになっていく。
「いや、そこまでは思っていませんが」
「思っていませんが、何?」
そして決定的な一言を漏らしてしまった。
「譲るまでの決定打としては弱いかもな、と」
「ほら、そう思ってるんでしょう!」
音が割れるほどの上擦った大声。何が藤田の怒りを買ったのは分かっている。分かっているがどう聞き出せば良かった? 何が正解だった? 録音を聴きながらまた後頭部の髪を掴む。
「いいですよ、話しますよ、決定打になったことを」
叫ぶような大声、大きく息を吸う音。
「生理が止まったんです」
押し殺した声だった。
再生を止める。この後に続くのはこの内容を信用するか否かでまた声を荒らげる藤田と、平謝りするしかない近崎のやりとりだった。どうしたらもっとスムーズに、情報提供者を不快にさせずに事を進められる? どうしたらよかった? 何が正解だった? そればかりが頭をぐるぐると回ってしまう。ずっとそうだ。堂々巡りの中で、ふと阿形が隣にいたら何か変わっただろうかと考えざるを得なかった。
藤田から怒声と共に提供されたのは、夜間現れる男が例の人形に子どもを捧げるように迫ってきた上に"実力行使"をしてきた事実と、例の人形を譲り受けたという取引用のアカウントだった。
人形を愛好する界隈ではコレクション品はオークションの他に同好の士の間で譲り渡す場合もあるようで、藤田から共有されたSNSアカウントはそういった目的で運用されていたようだった。
現在、アイコンは黒一色で、アカウント名も『ログアウトしました』とある。投稿は全て消えている。今も所有者がこのアカウントを見ているかは不明だが、例の人形の写真と共に人形の入手元となぜ手放したのかをメッセージで送ったところ、返信があった。オークションサイトのクローズされた商品のURLと、ただ一言。
「あの女とは関わらない方がいいですよ」
それきり、返信が来ることはなかった。
『ログアウトしました』から提供された商品の出品者からさらに何名か遡ることが出来たが、いずれも人形を手にした本人と会話することは叶わなかった。内訳は事故死二名、植物状態にあるのが一名。幸運にもいずれの所有者も家族が現在もメールやメッセージを管理していたために話がついた。それぞれの家族は、程度こそあれど、一様にあの人形に"嫌な感じ"がしたために手放したと語っていた。あの人形がどんなものであるか知っている近崎にとっては、もはやその感覚は分かりかねるものだった。
入手経路について、入手に時間がかかった所有者があった。他の所有者はオークションサイトで手に入れていたために比較的すんなりと見つかったものだが、その所有者は友人から譲られたそうだった。遺族が協力的であったために本人の端末からその友人の情報を探し出すことができた。
見事な欅並木から脇に逸れると、控えめなデザインの、しかし庭木が美しく手入れされた家々が立ち並ぶ住宅街に入り込む。そこからしばらく歩くと、目を引く豪邸があった。金属製の観音開きの門扉があり、その向こうには背の高い木々の隙間から洋風の屋敷が見える。表札はない。この辺りの地主か何かだろうか。思わず見入っていると、自分で設定したアラームが約束の時間が迫っていると警告した。そうしてその屋敷からまた数分歩くと、一軒家ばかりの住宅街に突然素朴なアパートが現れた。手元の住所を確認すると、ここが元所有者が住んでいるアパートであるようだ。オートロックでなければ集合ポストすらない。治安の良い地域であるためにそこまで気を回さずとも生きていけるのかもしれない。住所には203とあるので金属製の階段を上がる。インターホンを押す。はーい、という少し高めの男の声が返ってきた。
「ああ、どうも。警察の方ですよね?」
開いたドアから乗り出した男はにこやかに言った。
「あの人形の話ですよね」
男は長い前髪をかき分けるでもなくてきぱきと紅茶を出してきた。もちろんポットではないが、そんなに長い前髪では前が見えないのではなあかと近崎はぼんやりと考えた。
「ええ、そうです」
「中橋さんの妹さんから連絡もらったんです。警察の調査があるって」
中橋はあの人形の所有者のうちの一人で、既に亡くなっている。確かに女性の方が非常に協力的ではあった。彼女がその妹なのだろう。
「連絡もらえたおかげでお線香上げに行けたので、俺としては、調査してもらえて嬉しいです。よかったです、ご縁なのかなって思えて」
あはは、と笑う彼の表情はやはり口元しか見えない。本心からの言葉なのか、何か含みがあるのかは近崎には読み取れなかった。ヘラヘラと話す様は阿形を思い出す。彼がいたらこの男にどんなことを言い出すだろう。試す気はないが、そんなことを考えていた。
「今回はご協力感謝します。刑事四課の近崎と申します」
「赤澤です、何でもお話しします」
「よろしくお願いします」
レコーダーを取り出すと赤澤はどうぞ、とジェスチャーで答えた。
「では、あの人形の入手方法と、手放した理由をお伺いさせてください」
赤澤はどことなく嬉しそうに口を開いた。
「俺は普段書店員をしてまして、特に恐怖小説を好んで自分の店で本を買ったりなんだりをして生活しています。ホラー大好きっ子なんです。そんなある日、通勤している最中あの宮下さんのお屋敷の前を通ったら、あの人形がダンボールに入って置いてあったんです」
ホラー好きと聞いて何となくこの上機嫌も腑に落ちる。こういった現象を怖い話として捉える人たちは皆一様に上機嫌に話を始めるものだった。ましてホラーが好きとなればわざわざ自分のネタに首を突っ込み、知り得るはずがなかったその先まで調査をしてくれる人間に語るのは気分が良いだろう。
「宮下さんのお屋敷?」
「ここから登ったところにある鉄門扉の洋風の屋敷ですよ。ここに来る時前を通ったと思います。駅に行く道だから」
ああ、と近崎は先ほどの屋敷を思い出した。
「あの門の前に、ですか?」
「そうです。最初は見間違いかと思ったんですよ。でもダンボール箱に『ご自由にどうぞ』っていう手作りの看板と一緒に入ってて」
「なるほど」
「他にもいろんなものが置いてあったんです。雑貨類や、本もありました。帰りに詳しく見てみようと思ってその日は職場に向かいました」
「宮下さんのお宅はそういうことをよくやるんですか?」
「いえいえ、初めてでしたよ。その少し前に葬式をやってるようだったので、亡くなった方の遺品整理? だったのかなと思います」
なるほど、と頷くと赤澤はマグからティーバッグを小皿に避けた。どことなくコミカルな仕草が先ほどから鼻につく。
「帰りはどうしたんですか?」
「遠目で見ても綺麗な人形だったから、もう無いかなあと思いつつ帰ったんですね」
「あった、と」
「ありました! いやーこれは本当に呪いの人形みたいだぞと思って持ち帰りました。他にも本が数冊あったので気になったものはいただきました。催眠術の話とかもあって、これはオカルティストが亡くなったのかもと思って不謹慎ながらわくわくしたものです」
赤澤が茶を啜る。近崎はなぜか出された紅茶に手をつけられないでいた。何が嫌なのかは分からない。見渡してみればこの部屋自体は完全に整理整頓されており、掃除も行き届いている。ただ部屋に見合わない大きな本棚の周辺だけが散らかっていた。そして目はその脇のスツールに吸い寄せられる。そこには顔の削り落とされたマリア像があった。思わず二度見しそうになるのを懸命に堪えて目線を赤澤に戻す。
「そんなに楽しい気持ちで手に入れた人形だったのに、どうして手放すことにしたんですか?」
内心恐怖でいっぱいだった。この質問に顔の削り落とされたマリア像を部屋に置く男は何と答えるのだろうか。あれが単なるインテリアなのか、別のものなのか、阿形がいれば判断してくれるはずだが今回は、今回も、阿形はいない。自分のミスのせいでまだ眠っている。目が覚めないかもしれない。
「本物の呪いの人形だってことが分かったので、みんなにも体験してもらいたかったんですよ」
赤澤は嬉しそうに笑った。
「首を絞められたり、お爺さんの幽霊にあの子を崇めよって詰められたり、子どもを作ることを強く勧められたりしました。でも俺には俺の神様がもう居るので、一通り楽しんだらもう良いかなって思って」
言葉に詰まってしまった。なんという動機だろう。彼にとって心霊体験は恐怖体験ではなくエンターテイメントであるようだった。少し気になる発言があったがなるべくそこは触れないままこの会を終わらせてしまいたかった
「そして中橋さんに譲ったと」
「そうです。そういうの探してたみたいなんで」
「仮にあの人形を手にしたことで中橋さんの命が失われたのだとしたら?」
「知らないですよ、そんなこと言われても。俺は死んでないので」
男はまたにこりと笑った。ざわざわと後ろ頭が逆立つ感覚がある。ここで声を荒げても仕方ない、今回の目的はなんだ? 聞き込みだ。近崎は怒りを堪えて礼を言うと、レコーダーの録音を切った。
「近崎さんはアレについて何も言わないの?」
赤澤がマリア像を指す。ごくりと唾を飲んで平静を装って言った。
「信仰は人それぞれなので……」
「まあそうですよね。あの女は、誰でも助けてくれるので、おすすめですよ」
適当に答えを返しながら赤澤のアパートを出る。抑えきれない怒りと、なんとも言えない不快感を感じながら駅までの道を歩いていると、例の鉄門扉の洋館が見えてきた。次はここにアポを取らなくてはならない。端末がけたたましく着信を告げる。画面を見れば宇野からだった。
「ああ近崎くん、阿形くんが目を覚ましたよ」
四課事件記録 しきまさせい/マニマニ @ymknow-mani
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