人形-3

 数日後の夜、鳥海から届いた人形を阿形の家に持ち込んだ。

 箱から現れたその人形はなるほど芸術品だった。

 近崎の人生に人形があったことはほとんどない。祖母が端午の節句に出してくる五月人形くらいだろうか。それもしかし福々しく丸い子供の面立ちをした、少なくとも欲望は感じられない造形をしていた。

 この球体関節人形は違う。まさしく薔薇色の頬に、真紅の小さな唇。目元や鼻先はもちろん指先まで淡く血色を帯びている。繊細なまつ毛に囲まれた青紫色のガラスアイは光を吸い込んで奥まで見通せそうだ。およそ六十センチの身体にはフリルをたっぷりと使った真紅のドレスが着せられている。何から何まで理想を詰め込んだ姿をしているそれには欲望が感じられた。

「どう? 近崎くんもドールとかハマりそう?」

 しばし目を奪われている近崎にからかうように阿形が言う。

「いや、こういうものを見るのは初めてなので……」

「かわいい?」

「興味深いですね。ものすごく精巧で、じっくり見ようと思うとどこまでも見れる」

「わりとイケるクチだね。まあこの子は特別だろうけど」

 阿形はけらけらと笑う。

「特別?」

「ものすごく執念深く作られているよね」

 皮肉っぽく言う阿形はどうやら近崎が感じている以上の何かを見ているようだった。

「阿形さんは写真の時点からこの人形を怪しんでましたよね? 何が見えてるんですか?」

 疑問をそのまま口にすると阿形は笑顔を引っ込めて口を開いた。

「僕が見えるものって、正直何なのかよく分かってないんだよね」

 首を傾げる。しかし以前訪れた屋敷でも明らかに自分には見えていないものを目で追う様子があった。

「うーんと、近崎くんや他の人には見えていないものが見えているのは確かなんだけど、それが幽霊なのか怪物なのか神様なのかは分からない」

 言葉を選びつつ、近崎くんはちょっと気持ち悪いと思うかもしれないけど、と阿形は続ける。

「視覚として捉えられることはあんまり多くなくて、感じるとか、流れ込んでくるって言った方が正しい場合の方が多い」

「なるほど。異物を感知している感覚なんですね」

 話が早いねえと阿形は嬉しそうに笑った。

「そう、だからこの人形から禍々しい何かは感じられるけどそれが何とは明言できない。でも感じられたのは強い欲望で……」

 続きを促すと阿形は尚も言葉を選んでいるようだった。普段はなんの衒いもなく突拍子もないこと言うくせに何を悩んでいるのかが近崎には理解出来ない。

「今更阿形さんが何言っても僕は一旦飲み込みますよ」

「あ、ほんと?じゃあ言うんだけどさ、男っぽい感じなんだよね」

 想像を超えて具体性に欠けることを言われたので近崎の思考は一時停止した。

「それは所有者が男性だったからではなく?」

「違うね。なんというか、独占欲というか……女の人の情念とは違うものを感じるんだよね。入ってくるものもこう……相手の意思とは関係なく欲しい、とかそういう雰囲気の言葉でさあ」

「それはこの人形がいわゆる男の欲望を叶える造形をしているからではないんですね?」

「そうだね、確かに願望入りまくりの作りではあるけど、そことは違うかな。もっと言えば、モデルが居そうな感じなんだよね」

「モデル?」

「うん。このドールのモデルがいて、その人のことが好きだけど手に入らないからこれを用意した、だからこれに執着してるって感じ」

 わかる? と問われて近崎は一瞬答えに詰まった。その執着について論理としては理解出来るが心情としては全く理解出来ない。

「あー、その気持ちが分からなくても僕が感じ取ったものがどんなもんだったのか分かってもらえればいいよ」

 阿形がひらひらと手を振って言った。

「僕もそんな奴の考えることなんてわからないし。近崎くんだってストーカー犯の気持ちとかわかんないでしょ?」

「そう、ですね」

「分かんなくても対応できればオーケー。ストーカー犯への対応と同じ」

 阿形の態度から近崎は戸惑いを見抜かれたように感じた。自分の戸惑いはそんなに分かりやすいものなのだろうか。

 阿形が感じるという人形にまとわりつく男性の気配について考えると、ふと高橋が話した夜間に話しかけてくる男の声について思い当たる部分があった。

「高橋氏の話でも『お前は相応しくない』と言っていましたよね」

「うん、気持ち悪いよね。そういうの。今のところこのドールに憑いてる何かって僕が見たぼんやりしたイメージと、高橋さんが言われたことからしか推測できないじゃない?とりあえずドールのオタクでも何でもない僕が寝てみてなんて言われるのかちょっと記録してみたいんだよね」

 阿形は三脚を立てると暗視カメラをセットした。

「じゃあ、僕はこの部屋で寝るから、近崎くんは隣の部屋で待っててくれる? 何か有ったら声かけるから。エアコン付けといたし、一応お布団敷いてあるよ」

 じゃあよろしくね! とそのまま追い出されてしまった近崎は、どこか腑に落ちない思いを抱えて客間へと足を向けた。

 

 

 阿形はあまりにも自然に目を覚ました。尿意や悪夢からではなく、音や光の刺激によるものでもない。自分の人よりも鋭い第六感が刺激されたのだと理解する。熱帯夜だというのに、寝室は布団を被っていても寒気がする冷気に満ちていた。エアコンの設定は二十六度で標準的だったはずだ。

 まずは身体が動くのか確認をする。手足の先、手首、足首、肘、膝、股関節、首……。首で止まった。顔が固定されたように天井を向いて動かせない。声はどうだ? あ、あ、と声を出すも喉は貼り付いたように動かず、微かな音が漏れ出るだけだった。これはまずい。何か有っても隣の客間で待機する近崎に助けを求めることが出来ない。腕が動くうちに壁を叩いて呼び出すか? まだ何も起きていないのに?

「……ぜ」

 しわがれた男の声が耳に響いた。来た。首の固定は圧迫感に変わり、うなじの毛が逆立つような不快感が押し寄せる。

「……なぜ」

 先ほどより明瞭な声が響く。問いかける声は目の前から発せられているようだった。ぐ、と目に力を込めると黒い靄のようなものが集まり人影を作っている。何が?と問うが引き攣った声しか出てこない。それでも影はこちらに反応したようで圧迫感が一段上がる。

「なぜお前が持っている」

「借りたんだよ」

「彼女は……」

 何さ、と挑発するように続きを促す。靄に目を凝らすが靄以上になることはないようだった。

「彼女は母にならなくては」

 ヒュと空気が漏れる音がした。阿形は自分が笑った音だと気が付いた。笑ってしまった。正直に言えばこの影の人形への執着も自分にとって大した話ではなかったのだ。日々こなしている本業の半数は占いと言いつつ男に困らされている女たちに話を聴くことだ。今日のこれだって、よくある欲望、よくある迷惑な話の延長線上でしかない。

「どう、やって?」

 しゃべるのも億劫な圧迫感は引き続き強いままだ。

「子を捧げよ」

 ほう、と阿形は思った。子を欲しがるくせに他のドールを排除するのは、擬似的な子ではなく本物の子どもを捧げよと言っているのだろうか。それはドールのモデルへの愛欲ではなく家を求めていることになる。そうなると話が変わってきそうだ。家を求めるのは神だ。この男はあのドールを神の依代として崇めることを求めている。

「俺、子は、持てないよ」

 掠れた声で言うと影はより黒く、よりはっきりとした形を取り始めた。喉元の圧迫もはっきりと指が食い込む感覚がある。

「俺、男が、好き、だから」

 阿形は込み上げる笑いを必死に抑えた。こいつはこのドールの持ち主が子を持てない属性だったらどうするつもりだったんだろう?

「あれは私のものだ」

 黒い靄が老人の形をとった。ぐ、と顔が近づく。痩けた頬に白けた無精髭が浮いていた。

 なんだ、普通の爺さんじゃないか。ドールがあんたのものだから何だよ。ギリギリと指が締め上げる。込み上げる笑いはついに決壊した。

「お前のような者が……」

 その言葉に阿形は恐怖よりも先にその陳腐な問いに笑い転げそうになっていた。

 阿形は混血であり、ゲイである。凝り固まった偏見で実際に殺されかけたことはないがそれを受けて自死を選ぼうとしたこともある。しかしそれも生者であってこそ。差別も偏見も愚かしいが生者の領分だ。それを人ですらないものになってまで引き摺っていることが阿形には面白くて仕方がない。

「笑うな」

 いよいよ漏れ出るはずの笑い声も出てこなくなった。近崎を呼ばなくては。身体は目覚めた時よりもガチガチに固まっている。指先から動かそうとしても一向に動く気配がない。気が遠くなる。一頻り笑い終えた脳内は嫌にクリアでここから逃げ出す手段がないことを明確に捉えていた。

 え?本当に? 僕は幽霊に殺されるの? ここまで生きてきたのに?

 

 

 何も起きないことが不安になるとは思ってもみなかった。刑事をしていれば待機くらい発生するものだが、ここまで不安な夜もなかった。近崎は幽霊を信じないが、実証実験を行って何か掴める確証を持っている様子の阿形を信じていた。阿形を信じることにしたのは近崎の不満を言い当てたり、ちょっとした戸惑いを解消したりすることに躊躇がなかったからだ。

 近崎はこれまで模範的な人間として生きてきた。学業も運動も苦労することなく求められる水準をクリアして生きてきた。そういう人間の不満や戸惑いを誰が気にするだろう。

 少なくとも近崎にはその小さな気遣いを受けた記憶がなかった。未熟さ故に気付けなかったのかもしれない。そうであれば彼に自分が出来ることは、まずは信用することであると近崎は自分を納得させた。

 ところで時間は深夜二時を回っている。特に何もなければ近崎は寝入っているだろう時間帯だ。念の為そっと寝室のドアを開けると凄まじい冷気が漏れ出てくる。その尋常でない状況に目を白黒させながら部屋へ入れば阿形の上に老人が乗り上げていた。一瞬自分の目を疑ったがその老人の手が阿形の首にかかっていることを見ると考えるより先に引き剥がしに掛かった。

「は?」

 肩に飛びついた瞬間、老人はこちらを向いたと思うや否や霧散した。

 近崎はまた目を白黒させながら大きく咽せ込む阿形にベッドサイドの水を差し出した。

「大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫……っ」

「水飲めます?」

「飲める! それよりも録画! 撮れてるか見て!」

 近崎は礼よりも先に実験結果を気にする阿形がいかに自分の機微を読んでくれたとしても失礼な人であることを思い出した。

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