第5話 まさかの…バレちゃった……!?

 翌日。

 青空の広がる気持ちの良い朝を迎え、綾香は大納言と共に牛車に乗り込み宮中へと出勤していった。

 母から手渡された黒糖饅頭の包を二つ受け取り、綾香は牛車の窓から見える景色を眺めながら宮中へと向かう。

 ごとりと牛車が停車し、降ろされていた御簾がするすると上がり先に綾香が地面に降り立つと、勤務場所となる玄関口の敷居に黒衣に包んだ麗しい青年がニコニコと微笑みながら立っていた。


「おはようございます、中務卿宮様」


 視界に入った宮様に椿は礼儀正しく頭を下げて朝の挨拶を交わすと、中務卿宮は満足気に頷いて見せた。


「おはよう椿。今日も元気そうでなによりだね。しっかりとお仕事に励んでおくれ」

「はい!お心遣い、ありがとうございます」


 臨時事務員とはいえ、政の中枢を担う宮様からの声かけに、椿も頬をほころばせながら微笑んで見せた。

 そんな椿の姿を見て満足したのか、中務卿宮は背後に控えていた複数の控えをつれて奥の間へと踵を返し去って行った。


 大納言の義父と共に勤務場所に向かう道すがら、同じ寮内にて勤務を行う年かさの同僚たちにもにこやかに挨拶を交わしながら、椿は昨日も訪れた職場に到着した。

 義父の席の隣に座り、大納言からの朝礼を同じ同僚たちと共に聞いてから、今日も一日仕事に励むべく奮闘した。


 お昼を迎えると、昨日と同じように内裏の中庭に向かい、池のほとりで休息をとる。

 懐にいれてあったお饅頭の包と竹筒を敷物の上にそっと置いてからしばらくの間のんびりと池を眺めた。

 すると、背後から声がかかり綾香の意識はそちらに向かった。


「やあ、こんにちわ!また会えたね!」

「……東宮様!」


 昨日と同じ薄水色の直衣を着た東宮が、開いた扇を口元に当てながらにこにこと綾香の背後に立っていたのだ。


「ちゃんと今日も来てくれたんだね。よかった」


 そう言って、東宮は座ったままの綾香の隣に腰を下ろした。

 昨日はただのお兄さんだと思ってたのに、まさかこの国の最高権力者の息子が自分の隣にいる事に綾香は内心驚いていたが、それでも東宮の纏う柔らかな空気に触れて、綾香は警戒心を緩めて気軽に声をかけることにした。


「こんなところにほいほいやってきちゃっていいんですか?東宮様って、東宮御所と言われるお住まいから外に出る事がないと聞きましたが」

「おや、そんな事を大納言から聴いちゃったの?別に、監禁されてるわけでもないし。それに、今は昼休みだからどこを散歩しようが自由だと思うけどな」


 ふふっと笑う東宮に、綾香は「なるほど」と納得しながら、自分の脇に置いてあった饅頭の包を東宮に差し出した。


「今日もおやつをもってきてますが……食べますか?」

「いいの?嬉しいなあ~。って、包み事もらっていいの?」

「はい。今日は自分の分もちゃんとありますので」


 そういって、綾香は東宮に饅頭の入った包を手渡し、自分の懐からもう一つの包を取り出した。

 ごそごそと包を開けば、今日はかわいらしい桜色の薄皮饅頭が4つ鎮座していた。


「わあ……綺麗な色だね。それもお母上の手作りなのかい?」

「はい。母はこういった菓子を作るのが昔から得意なんですよ」

「そうなんだ……。どれどれ……。ほんとだ、こちらも綺麗な色合いをしている」


 東宮は自分の包を開けて饅頭を確認すると、自然と頬を緩ませて喜んだ。

 お互いに一つずつ摘まんで菓子を口にすれば、柔らかな甘さが口に広がり、満足そうに咀嚼した。

 そして、先に食べ終わった綾香は一緒に持ってきた竹筒から小さな竹のコップにお茶を注ぎ、東宮へと手渡した。


「随分と用意がいいね。もしかして、私が来ることを最初から知っていたのかな?」


 東宮は差し出されたお茶に口をつけながら、緩やかに微笑んでみせた。

 そんな東宮の微笑みに、綾香はほんのりと頬を上気させながらも、そっけない雰囲気を保って見せる。


「別に……。東宮様じゃなくても、もしこの場に他の人が来られたら同じように振る舞っていると思いますけど……」

「ええ、そうなの?それは残念だな」


 東宮の言葉に、綾香は不思議そうに首を傾げてみせる。


「なぜ残念なんですか?」

「だって、こんなに美味しいお菓子を、他の人に渡しちゃうのはもったいないって……」

「東宮様って変わってらっしゃいますね」

「そう?」


 きょとんと首を傾げてみせる東宮に、綾香は膝に顔を付けながらくすぐったそうに笑って見せる。


「だって、この国で一番偉い人の息子さんなのに、全然偉そうに見えないっていうか……。こんな庶民な私に気軽に声かけちゃうんだもの」

「そうかな。でも、君だから声をかけたってのもあるかもよ」


 そう言って、東宮は飲み切ったお茶のコップの水気を切り、綾香へと返した。


「私、そんなに頼りなさそうな子供に見えますか?」

「子供というか、君の纏う空気は宮中にはない雰囲気があるから……ついね」


 そんな東宮の言葉を耳にしながら、綾香は食べ終わって空になった包を畳んで懐にしまった。


「でも、あまり私に関わると、東宮様にご迷惑がかかってしまうかもしれませんよ……」


 綾香はゆっくりと立ち上がって着物についた草を取り払った。


「昨日は香袋を下さってありがとうございました。とても嬉しかったです」


 胸に手を当てぺこりと頭を下げる綾香に、東宮は綾香の袂の裾を片手をくいっと引き寄せた。

 まるで、この場から立ち去る事を許さないかのような袖の引き具合に、綾香は驚いて東宮の顔を見下ろした。


「君と一緒に過ごす時間を、私は迷惑だなんて思っていないよ。君が今日ここに来ている事も知っていたから、私はここに来たんだよ」


 そういう東宮の目は真っすぐと綾香に向けられている。


「ねえ……君の本当の名前を教えてよ」

「え」


 きゅっと袖の裾を掴まれた東宮の手を振り払う事ができず、綾香は真っすぐと向けてくる東宮の視線から逃れられない。


「昨日、大納言は君の事を椿ではなく、綾と呼んでいたよね」


 その言葉に、綾香の目は大きく見開かれる。


「大納言殿には一人娘がいたよね。確か、その姫君の名前も確か綾姫だと聞いているけど……」


 ゆっくりと告げられる東宮の言葉に、綾香は背筋が凍った。

 冷や汗が背中を伝ってぞくりと小さく身震いする。


(私の事が……この人にはバレてしまっているのか?まさか、そんな……)


 綾香は性別を偽り宮中に来ているのだ。ここで東宮に正体がばれてしまうと宮中に努める大納言にも迷惑がかかるのではと、脳裏で強く警鐘が鳴った。

 顔色を変え言い淀む綾香に、東宮はゆっくりと口を開いた。


「……君がもし……性別を偽ってここに来ている事を隠しておきたいのなら、せめて理由を聞かせてほしい。なぜ、わざわざ宮中に来ようと思ったのか、その動機を教えて欲しいんだ」

「動機……ですか……」


 東宮はゆっくりと手を離し、綾香の束縛を解いてその言葉を待った。

 真摯なまなざしで見る東宮に、綾香が性別を偽ってこの場にいる事を咎める雰囲気が無いのを感じて、半ば観念した面持ちで口を開いた。


「……東宮様の……お顔を拝見したいと思ってたんです」

「私の?」


 綾香は頬を染めてバツの悪そうな表情で東宮から視線を外した。


「父が……近いうちに入内申し込みを行いたいと言ってたんですが……。私は、顔も素性もわからぬ人と結婚するのは嫌だったんです。父は大納言家の長ですし、入内するの事もこの世界の女の子では当然の必須ステータスだと理解はしていたつもりでした。でも……。東宮様のお顔や素性を確認できたら入内申し込みをしてもいいっていう約束を……」

「そうだったんだ……。よかった……」


 ほっと息を吐く東宮に、綾香は顔を上げた。


「怒らないんですか?」

「どうして?」

「だって、ただ貴方の顔を見てみたいっていう、めちゃくちゃ不純な動機でこんなところに来ちゃってるんですよ?」

「別に。好きなだけ見ればいいじゃない?今だって、こうして目の前にいるしさ」


 そう言って、東宮はあっけらかんと笑って見せた。


「私に会いたいからって、直接ここに乗り込んできた女の子は今まで誰一人いなかったんだもの。それって凄く勇気のある事だし、なにより君はちゃんと仕事もきっちりやっていると聞いているから、わざわざ罷免して追い出すようなことなんてしないよ」


 綾香はあっけらかんと笑う東宮の姿に、毒気が抜かれたようにぺたんと座り込んだ。

 そんな綾香に、東宮は愛おし気に綾香の頭をぽんぽんと撫でた。


「うん。よしよし……可愛いねぇ。気に入ったよ」

「え……」


 ほわほわと微笑みながら綾香の頭を撫でる東宮に綾香もあっけに取られてしまう。


「ねえ、君が私の事を気に入ってくれたら入内してくれるんだよね?それなら、是非とも私の元へと来てくれると嬉しいんだけどな!」

「え、もう、プロポーズですか?」


 綾香の両手を柔らかく包み込み、東宮はその小さな指先に軽く口づけを与えた。


「ぷろぽおずってのは良くわからないけども……。君が納得さえすれば、大納言家から入内の連絡がくるんでしょう?」

「え、まあ……。って。え?」

「じゃあ、君のお眼鏡にかなうように、私も頑張らないといけないな」


 そう言って、東宮はすくっと立ち上がって綾香の両手をもったまま引き上げた。


「今日の事……君が女の子だってことは宮中の中では内緒にしといてあげる。もちろん、私に君の事がばれちゃったコトは大納言にも内緒だよ?」

「それは……。お義父様もお咎めなしってことですか?」

「うん。それに、君は正式に宮中の参内人として登録もされてるしね。宮の許可なしに私の権限で勝手に君たちを罷免することもできないよ」

「そうなんですか?」


 東宮なのに、思ったより内部での発言権がないのかなあと、綾香は不思議そうな顔をする。


「君がここに来れるようになったのも、中務卿宮のおかげだからね」


 そう言って、東宮は敷物の上に残してあった饅頭の包を持ち上げて丁寧に料紙で包み直し、自分の懐にしまった。


「ねえ、本当の名前を教えてくれないかな……」


 名残惜しそうな顔で東宮は綾香の頬にそっと指を触れさせた。

 160㎝ほどの綾香の身長からゆうに20㎝は大きい東宮に見下ろされ、綾香はしぶしぶと声を出した。


「……女性に名を聞く前に、そちらから名乗るのが紳士たる態度だと思いますが?」


 口を尖らせて俯く綾香に、東宮はふっと笑って見せた。


「そうだね。じゃあ……。私の名は直孝。父上や皆からは藤宮親王と呼ばれているよ」

「なおたか……ふじのみや親王……さま?直孝が本名って事ですか?」

「うん、そうだね」

「……直孝さま……なおくん…………?」

「なお君?」


 綾香がふっと呟いた言葉に、東宮は目を大きくさせた。


「なおくん……。そういう風に私の名を呼ぶのも君が初めてだよ」


 そう言って笑う東宮の笑顔に引かれ、綾香は顔を上げて彼を見つめた。


「私の名前は……綾香……です」

「綾香……良い名前だね」


 東宮はもう一度綾香の頭をぽんぽんと撫でた。


「ねえ、この池の前にいる時だけ、私の事は直くんって呼んでくれないか」

「え!?そんな、不敬すぎませんか?」


いくらなんでも、皇太子となる人を呼び捨てにするわけには……っと綾香は驚くが、そんな綾香に構う事無くその細い両手を取りぶんぶんとさせてみせた。


「いいんだ。君と過ごす時くらい、東宮の肩書から外れて、肩肘張らずに過ごしたい」


 東宮は、ゆっくりと綾香の手を離し、優雅に微笑んで見せた。


「これからもよろしくね。綾!」


 宮中に務めて2日目にして、綾香は東宮に自分の正体があっさりとばれてしまった事に、呆然と立ち尽くすしかなかった。。







「義父様、遅いなあ……。まだかかるのかなあ……」


 夕暮れを迎え、一日の執務が終わり帰り支度を終えた綾香は、1時間前から内裏の内殿へと出かけている大納言の帰りを待つ為に、寮室の面する縁側に座って過ごしていた。

 既に退勤時刻を過ぎていることもあり、辺りの人気は随分と少ない。

 縁側から見える夕暮れを見上げながら、綾香は素足をぷらぷらとさせながら大納言の帰りを待っていた。


「内殿での会議が遅くなってるのかな……。お腹空いたなー……」


 綾香は縁側の柱にぽすりとよりかかり、くぅぅとなるお腹を押さえて夕焼けを見上げた。


「あれ?椿?」


 さわやかなテノールの声音に振り返ると、そこには黒の直衣を纏った中務卿宮が一人で佇んでいた。


「中務卿宮様……」

「こんなところでどうしたんだい?一人なの?」


 縁側に座ったままの綾香の視線に合わすように、中務卿宮は静かにしゃがみこんだ。

 端正な顔立ちが間近に迫り、綾香は頬を赤く染めあわわと慌てふためく。


「だ、大納言様が内裏に参内されていて……。お戻りになるのを待っているんです」

「え、大納言?」


 綾香の言葉に、中務卿宮は目を丸くさせて驚いてる。


「大納言なら、さっき内大臣と右大臣に連れられて宴会に行ってしまわれたよ?右大臣家で飲み会をやるって、さっき……3人で帰られたけど……」

「え!?」


 中務卿宮からの情報に、綾香はびっくりして驚いてしまい絶句する。


「うそ!?ここにもう戻ってこないんですか!?」

「うん……。だって、私も先程まで彼らと共に内裏に参内していたからね。会議が終わったから戸締りの見回りも兼ねて戻って来たんだよ」

「うそん……まじか……」

「あれ?大納言からの使いが来てなかったのかな……?おかしいねえ……」


 まさかの義父がいつのまにか内裏から移動してしまっている事実に、綾香は呆然とするしかなかった。


「……もしかして、帰る足がなかったりする?」

「もしかしないでもそうなりますね……」


 あー……と項垂れてしまった綾香に、中務卿宮は一頻り考えて、目の前にいる小さな頭をぽんと一つ撫でた。


「じゃあ、私の牛車で送ってあげよう」

「え!?」


 願ってもない中務卿宮の言葉に綾香は驚いて顔を上げた。


「見回りが済めば、私も自宅に帰るところだし。大納言邸は帰り道にも通るしね。送ってあげるよ」

「本当ですか!?ありがとうございます!!!!!」


 綾香は歓喜極まって目の前にいる中務卿宮の前で万歳をしてみせた。

 そんな幼い仕草の綾香に、中務卿宮の表情もふっと綻ぶ。


「可愛いね。東宮が気に入るわけだ」

「へ?」


 扇を口元にあててくすくすと笑う中務卿宮に、綾香はこてんと首を傾げた。


「いや、こちらの話。さ、ついておいで。一緒に見回りに付き合っておくれ」

「はい!中務卿宮さま!」


 すくっと立ち上がった中務卿宮に習い、綾香も手早く立ち上がり、室内にまとめてあった自分の手荷物を持って中務卿宮の後を追う事にしたのだった。



 建物内の全てを確認した後に、綾香は中務卿宮の寮内へと連れていかれた。

 中務省の室内も、自分が仕事をしていた大納言寮内の景観とあまり変わらず、職場って案外こんなもんだよね……と独りごちた。

 誰もいない室内を一頻り確認した中務卿宮は御簾を下ろし、形ばかりの戸締りを行った。


「御簾だけだと、セキュリティに少し不安が残りますよね」

「せきゅりてぃ?」

「防犯管理の事ですよ。政を行う中枢部にしては、うすっぺらい御簾で部屋を仕切ってるのも、案外が会話も周りに聞こえちゃうし機密性ガバガバだなーって」

「そうだねえ……。でもまあ、ここの大内裏に立ち入ることすらも厳重に見回りが行われてるし、本当に重要な書類とかは鍵をつけた文箱や自分自身で持ち歩いているよ」


 そういって、中務卿宮は懐から小さめの文箱と書類を取り出して見せる。


「……直衣って、そんなにモノがはいるものなんですか……?まるでドラ〇もんですね……。やはり四次元ポケットか……」


 綾香の呟きを聞きながら、中務卿宮は笑みを浮かべながら綾香と共に建物の玄関口へとやってきた。

 すでに夜の帳を迎えており、蝋燭の明かりに灯された玄関で帰り支度をしていると、遠くから綾香を見つけた童が慌てて走り寄ってきた。

 童は綾香の靴をかかえており、綾香を見つけると散々探し回っていたとのことを述べて靴を石畳に置いた。


「私を探してたの?君、どこの子?」

「内大臣家の伝令童です。椿様をお送りせよと言付かっていたのですが……」

「えー……来るの遅くない?私、結構大納言寮で待ってたんだけど」


 愚痴を口にする綾香に、背後に控えていた中務卿宮はぽんぽんと綾香の頭を撫で出て宥めた。


「まぁまぁ……。そんなに怒らないよ。君、椿は私が責任もって家まで送り届けると、内大臣と共にいる大納言殿に伝えてくれるかな」

「かしこまりました」


 中務卿宮の言葉をあっさりと受け入れた伝令童は素直に頭をさげると、そのまま走り去ってしまった。


「さ、帰ろう。牛車にお乗り」

「はい」


 玄関口につけられた中務卿宮家が所有する豪華な牛車に乗り込んだ綾香は、続けて牛車に乗り込んだ宮と至近距離で座り合う事となった。

 御簾が下ろされて、ごとりと牛車が動き出すと、そのままからころと内裏を後にした。


 牛車にいる間も、綾香は近くにいる中務卿宮からの質問にいくつか答えながらも、まじまじと宮の様子を伺った。

 狭い空間にいるせいか、中務卿宮とこんなに近くにいるせいか、彼の直衣から漂う品の良い薫りに気づいた。


「宮様、なんだかよい香りがしますね」

「そうかい?」

「東宮様とはまた違った香がする……」


 すんすんと鼻を鳴らす綾香に、中務卿宮はくすりと笑みを零した。


「君だって良い香りがしているよ。ほら、その懐の辺りから……」

 と、持っていた扇で綾香の懐を指すと、綾香は思い出したように懐に手を差し込み指摘されたものを取り出した。


「これ……?」

「よかった。大事に持ってくれているんだね。昨日は東宮がいきなりやって来てびっくりしたでしょう?」


 ふふっと笑みを零す中務卿宮に、綾香は頬を染めながらぷるぷるよ顔を横に振って見せた。


「いえ……滅相もないです。というか、一介の庶民に、東宮様から頂き物をもらってしまって本当によかったのでしょうか?」


 綾香は手にしていた香袋を見つめながら、ずっと心に残ってた言葉を漏らした。


「中務卿宮様が昨日、うちに手紙を送ってくれたのも、これがあったから……ですよね?」


 そう言って、綾香は真っすぐと宮の顔を見つめた。

 真面目な双眸を浮かべる中務卿宮は、緊張した面持ちで自分を見つめてくる綾香に、ふっと笑って見せる。


「確かに、それもあるかな。だって、あの兄上が君を特別に気に入っているようなんだもの。誰かから妬まれて狙われてしまうかもしれないじゃない?」

「ね、狙われ……。内裏ってそんなに物騒なんですか?」


 宮の言葉に、綾香は香袋をぎゅっと握り締めて青ざめる。

 分かりやすい綾の表情の変化に、中務卿宮はくすくすと笑いを漏らした。


「なんてね。ちゃんと内裏内には警備を敷いてあるから、襲われるなんてことはないと思うよ」

「……すみません」

「どうして謝るの?」


 しょんぼりとうつむいてしまった綾香に、宮は不思議そうに首を傾げた。


「だって……昨日出仕したばかりの新人なのに、宮様から特別に目をかけて頂いているのは凄い事なんだって……。母からも聞いています。私のせいで、東宮様や宮様方にご迷惑をかけてしまってるんじゃないかって……」

「いいんだよ。気にしないで」


 中務卿宮は浮かない顔をする綾香に手を伸ばし、その小さな頭をぽんぽんと撫でた。


「それに、私も君が東宮に渡したお饅頭を頂いているしね。それのお礼と思ってくれればいいさ」

「へ?」


 不思議そうな顔をして見上げる綾香に、宮は目元を綻ばせて見せる。


「昨日、東宮が私にもお饅頭を分けてくれたんだ。今日もそうだよ。あれ、君の家のお母上の手作りなんだってね!凄いよね~」


 東宮が持ち帰ったうちの饅頭を、目の前の宮様も食べている事に、綾香は驚いてその顔をまじまじで見てしまった。


「だから、そんなに気にしなくてもいいんだよ。綾香ちゃん」

「はい……え?」


 するりと聞こえた自分の本名に、綾香は目が点になる。

 そんな綾香に、中務卿宮は綾香の片手を取り、きゅっと握りしめた。


「私はね。生まれた時から東宮を守護する為に存在しているんだ。彼が知りえる情報は私にも必ず共有されるんだよ」


 すっと瞳を細めて射抜くその視線に、綾香の身体はびくりと硬直する。


「宮様は……私が女だと知って……」

「うん。だから、余計に私は君を守る必要があるんだよ。わかるよね?」


 そう言って、中務卿宮は綾香の手をもぎもぎと握ったまま、にっこりと微笑んで見せた。


「東宮が君を気に入っているってのは結構凄い事でね……。兄上が他人に興味を示すって事がこれまでほとんどなかったから、正直私もびっくりはしているんだよ……」

「そうなんですか?」


 中務卿宮からの言葉に、綾香は彼らの意外な一面を見た気がして肩の力が抜けた。


「だって、まさか自分から内裏に行って、君に自分の持ち物を与えてしまってるんだもの」

「東宮様は、私の何をそんなに気に入ったんでしょうか……。お饅頭ですか?」


 きょとんとしながら首を傾げる綾香に、中務卿宮はおかしそうにくすくすと笑いだした。


「君は面白いね!東宮が一目で気に入ったのもよくわかるよ」


 そう言って、くすくす笑いながら綾香の頭をまた優しく撫でた。


「ねぇ綾姫。私は君の宮中での仕事ぶりも高く評価しているんだ。だから、入内が確定するまでずっと宮中に出仕してくれると嬉しいんだけどな~」

「え……」

「これから年末に向かって色々忙しくなるんだよねぇ。本当は、私の手元で君を確保しておきたいところなんだけど、中務省に君を引き抜くには今は席が無くてね……」


 残念だなあと漏らす宮に、綾香は口元に手を当てながら声を出した。


「仕事は続けるつもりですけども……。そもそも……まだ入内申請もしてませんし……。私が東宮様の元に嫁入りに行くとも限りらないんですが」

「え?そうなの?」


 入内の言葉を口にしたとたん、綾香が複雑そうな顔を浮かべるのを認めて、中務卿宮は不思議そうな顔をしてみせた。


「てっきり、既に入内申請済みだと思ってたんだけど」

「たぶん、まだしてないはずです。お父様は私が納得した上で申請を行うと言って下さっていましたし……」


 あの人のよさそうな顔をしている義父が約束を破るとも思えなかった。

 綾香の言葉に、中務卿宮は開いてた扇を閉じてふむりと考え込んだ。


「でも、申請は早い方がいいかもよ」

「なぜですか?」


 綾香は手にした香袋をきゅっと握り込む。


「東宮に入内を申し込むのは、君だけじゃないからね。既に、左大臣や太政大臣からも入内申請は宮中に出されているんだ」


 中務卿宮の言葉に、綾香は無言でその顔を見つめる。


「東宮が誰を正妃として選ぶかは彼自身の問題だけど、後宮に側室を入れるのは彼だけの問題ではないからね」

「他所からのお姫様もたくさんくるってことですか?」


 ほーん……と遠い目をする綾香に、中務卿宮は小さく息を吐き口を開く。


「ねえ、君はそれを受け取ってるんだから、東宮の事は少しは気に入ってくれてはいるんだよね?」

「え、あ……まあ……はい」


 害意を見せないほんわか東宮を思い出し、綾香は素直に首を縦に振った。



「なら、私もなるべく君の味方でいてあげるから、早めに大納言に言って入内申請行うようにいいなね。早ければ早いほど、こっちとしても助かるから」


 中務卿宮の言葉が終わるとともに、牛車はごとりと音を立てて停車した。

 大納言邸に到着したのか、閉じられていた御簾か半分開かれる。


「明日も待ってるからね。お休み。椿」

「……送って下さってありがとうございました」


 椿は丁寧に頭を下げてから、牛車から速やかに下りるとぱらりと御簾が下ろされた。

 そして、小窓がすっとあけられて、そこから中務卿宮が顔を見せてひらひらと手を振ってみせた。


「じゃあ、またね」

「おやすみなさいませ。中務卿宮さま」


 からころと去って行く中務卿宮家の牛車を見送りながら、綾香は掌に握り込んだままだった香袋を胸元に当てたまま、牛車が見えなくなるまで大納言邸の門の前から動こうとしなかった。




 

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転生先が平安京だなんて聞いてない! 駒津茄奈実 @nanami-komatu

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