転生先が平安京だなんて聞いてない!

駒津茄奈実

第1話 まさかの転生先。

 気が付けば、私はいつも一人だった。

 物心つき始めた頃に両親が事故で他界し、母方の親戚の家に引き取られ育った私に、家庭内で気兼ねなく過ごせる日々というものは遠い憧れにしか過ぎないものだった。

 親戚と言えども、他人に近い家庭の中にいる自分は明らかに異物そのもので、彼らに常に気を使いながら過ごす毎日だった。

 それでも、思春期を迎える頃には同居していた従兄妹のお兄さんに片思いするようになったりして、それなりに毎日を謳歌していたと思う。

 兄替わりとなってくれた彼はその家の一人息子で、一般人にしては感が鋭く、その能力を生かしてタロットカード占いをよく披露してくれた。

 男なのにカード占いなんてと叔父に言われるのが嫌だったのか、その特技を披露してくれたのは家庭内で唯一の他人である私だけだった。


 「君には血の繋がった両親がもういないんだ。だから、いつかはこの家を出て一人で生きて行かなかないといけない。手に職は必要だよ」


 そう言って私に生きる術として自分が知る占いの知識やカードの使い方を、よく教えてくれた優しい兄も、私が高校に上がる頃には病気であっけなく死んでしまった。


 家の中で唯一の心のよりどころと言える兄を失った私は、高校卒業と共にお世話になった家を出て一人で生活するようになった。

 昼間は事務要員として会社で働き、夜になると繁華街の隅っこで辻占いを始めた。

 手持ちのカードは死んだ兄の形見となる七十二枚のタロットカードと、三十六枚のルノルマンカードの二種類。

 この二つがあれば、大抵の事は占う事もできるので、カード技術を残してくれた兄に感謝しながら、今夜も占いに励んでいた。

 

 

 しかし、そんな毎日は突如終わりを迎えてしまう。

 いつものように繁華街の隅での辻占いを行い、客が途切れる二十三時頃には店じまいをして帰るかと手元のタロットカードを集めていると、ガラの悪いチンピラ数人がうちの卓を取り囲んだのだ。

 酒に酔ってるようで絡み始めたそいつらが占いをするように強要してきたので、重い溜息を内心でつきながらも大人しく占う事にした。

 しかし、出た結果はあまり良くないものばかりで。素人目にもわかる負のカードが盤上に並んでしまったものだから、カードを見たチンピラたちの雰囲気も険しいものとなってしまった。


 (うわぁ……全部正位置じゃん……。最悪だ……)


 負を表すカードはどれも暗い印象のものばかり。誤魔化しようのない盤面にちらりと彼らの顔を見上げた瞬間に、私は悟ってしまった。

 

 (あ。これあかんやつや)


 たぶん何を言っても聞いてもらえない雰囲気を悟り、机の下にあったショルダーバックをひったくって、私はその場から逃げ出した。


 「おいこらまて!」


 ガラの悪いだみ声が背後から聞こえてくるが、無我夢中で逃げまくった。

 狭い路地を切り抜けて大通りが見えてきたと思った次の瞬間。

 強く白い光が体の側面から照らされて思わずそっちを見ると、直前に迫った大型トラックが。


「あ。」


 つんざくような激しいクラクション音と共に、私の身体は大きく飛ばされてしまった。

 現世での自分の意識はここで終わっている。


 なぜ終わったと感じるのか。

 それは、今自分が、ふわふわと真っ白な空間を漂っているのだと意識しているからだ。

 目を閉じて腕を胸の辺りで組んで眠っている感覚はある。

 だが、瞼を閉じていても光は感じていて、真っ白な景色が広がっているように思えるのだ。

 ふわふわと漂いながら、いろんなことが脳裏に過っていく。



 ああ、私、死んじゃったのかな……。

 でも全然痛くないや。

 そして、逃げるときに辻占の卓に残してきたカードの事を思い出した。

 お兄ちゃんのカードを置いてきてしまったな……。

 大好きなお兄ちゃんの唯一の形見だったのに。

 死ぬ時まで手放さずに持っていたかったのになー……とか。

 とりとめなくそんなことをふわふわと考えている内に、眠気がやってきた。

 

 ああ、眠たい……。寝よ……。





 ゆらゆら。ゆらゆら。

 ゆっくりと水面に浮かぶように体が浮上する。

 ああ、まだここに浸かっていたいのに……。勝手に体が浮かんでいく。


 ふわふわとした意識のまま浮かんでいくと、やがて閉じていた瞼の裏に柔らかな白い光がさすのを感じた。


 (まぶしいな……なんなの……?)

 

 あまりにもまぶしく感じて、重く閉じられていた瞼をゆっくりと開けた。


「……ん」


 最初に視界に入ったのは、和室を思わせる暗い天井だった。

 明かりを灯しているはずの照明器具はぶら下がっておらず、ぼんやりとした意識のままで明かりを感じる方向に視線を向けた。

そこには、ゆらゆらと灯る白い蝋燭の火がそこにあった。


「……ろうそく……?」


 まるで時代劇に出てくるような行灯の灯がそこにあって、かすかな違和感を感じてそっと身じろぐと、かさりと聞こえる衣擦れの音が耳に入る。

 ゆっくりと片手を上げてみれば、見慣れぬ白い着物を着た自分の腕が見えた。


「着物……?死んだから……?」

 

 不思議そうに首を傾げていると、外からガタンと何かが床に落ちる音と慌てふためく人々の声が同時に聞こえて、思わずそちらに視線を向けた。


「ひ……姫さま……が!」


 半ば悲鳴のような声は女の人のもので、その人は慌てふためいてばたばたと走り去ってしまったようだ。

 まるで床張りの廊下を裸足で走っていくような慌ただしい音に、呆気に取られてしまい声をかけることすらできなかった。


「廊下……フローリング……?姫さま……?」


 ぼんやりしていた意識が少しずつ覚醒していき、起き上がろうと思うものの身体が重くて思うように動けない。

 それでもゆっくりと両腕を地面につけて身を起こしてみれば、自分が畳の上に直接寝かされていた事に気づいた。


「畳……和室?じゃない……?畳はここだけ?」


 きょろきょろと辺りを見回せば、自分が寝かされていた場所はどうやら小さな畳の上だったようで、辺りは全面床張りの部屋のようだった。

 小さな蝋燭の明かりだけでは余り周りを見渡す事はできなかったが、どうやらここは古い和室の民家のように思えた。


「なんで私……こんなところにいるんだろう……。病院……でもないし、自分の部屋でもない」


 そうして起き上がってみれば、上掛けとしてかけられていたものは、上質な色合いの着物であることが判明した。


「布団じゃなくて着物……。え……?」


 状況が良く掴めないけども、なんとなく嫌な予感はしてしまう。

 まるで時代劇のような風体の白い着物姿と緋袴を履かせられてる今の自分の姿に混乱していると、外からバタバタと複数の人々が自室になだれ込んできた。


「綾姫!!」

「姫様っ!!」


 部屋との仕切りとしてかけられていた簾っぽいものを弾き飛ばすかのような勢いで部屋に入り込んできたのは、中高年に差し掛かった女性と、黒々とした長い髪をなびかせた数人の女性たちだった。


 がばりと自分の寝所へ飛び掛かる勢いで、四人ほどの人たちの剣幕にびっくりして引いてしまった。

 だって、その服装の人たちの姿には見覚えがあったのだ。


(ちょっと、嘘でしょ……本当に?)


 長い髪に色とりどりの着物を重ねて来ている女たちの姿は、学生時代に習った歴史の教科書でも見た事のある井出立ちなのだ。

 そんな考えが吹き飛ばしてしまうような剣幕で、白髪の混じり始めた女性は目元に涙を浮かべながら自身の目の前に視線を合わせたのだ。


「おお……よく目覚めてくれました……!もう、二度と目が覚めないものだと思っていたのですよ」


 およよと涙を零しながら、老女は剣幕におののき固まる私の頬に手を伸ばした。

 すりっと優しく撫でられて、恐る恐るその人を見てみれば、ふっくらとした頬に白い顔。昔はとても美人だったんじゃないかなあって思う五十代くらいの女性だった。

 愛おし気に涙を流しながら自身の目覚めを喜ぶ彼女の後ろには、二人の黒髪の女性たちが控えていた。

 彼女らの顔には血の繋がりが見えず、一人は三十代くらいの丸目な顔立ちの人と、もう一人は十がら、「姫さま……よかった、よかった」と泣きながら喜んでいるのだ。


 状況を飲み込むことができず置いてけぼり感満載だったが、とりあえず聞いて見ない事にはわからない。

 意を決して傍にいた中高年の女性に声をかけた。


「あの……ここどこですか?あなたたちは誰です……?」


 恐る恐る発した言葉に、涙を浮かべていた中高年の女性は驚いたように目を見開いた。


「……私がわからないのですか?」


 驚愕したような顔を見せるその人に申し訳ないなあって気持ちになりながらも、ゆっくりと首を縦に振ってみせた。


「あの……私……。どうしてここにいるのか、わからなくて……」


 しどろもどろになりながら答えると、彼女の後ろに控えていた黒髪の二人は「姫様……おいたわしや……」と、またよよよと泣き出してしまった。

 そんな姿を薄目で見ながら、目の前にいる女性の様子を伺った。


「あの……?」


 固まったまま自分の顔を見るその人は、暫し思案したのちに後ろの二人に声をかけて薬と食べ物をもってくるように指示し下がらせた。

 簾を上げて立ち去る二人の気配が遠ざかったのを確認してから、彼女は居住まいを正して自分の事をまっすぐと見てきた。


「綾姫……いえ、綾子。貴女……今までの事を全部忘れてしまったということなのかしら」


 気丈そうに振る舞う彼女に、なんだか申し訳ない気持ちになりながらも正直に今の心境を述べた。


「あの……すみません……。確かに私の名前は綾(あや)ですが、綾子じゃなくて綾香(あやか)……なんですが」


 気まずい気持ちになりながら肩をすくませて答えると、目の前の彼女は驚いた表情を見せた後にふんわりと笑ってみせた。


「まぁ……!綾香……懐かしい名を聞きました……。そうですか……綾香……。あやか……?」


 何度か綾香の名を口にして、ハっとしたように顔を上げて綾香を凝視した。


「もしかして……綾ちゃん……?」

「……え?」


 優しく微笑みながら親し気に呼ぶそれに、私はびっくりしてしまう。

 だって、その呼び方は……。


「とんとんまーえ、とんとんまーえ」


 懐かしそうに瞳を閉じて口ずさむそれは、幼い頃に聞いたあの優し気な声音と一緒のモノで。


「小さい頃、よく一緒に口ずさみましたね。一番大好きなだったものは、イチゴ味のドロップと甘いプリンでしたっけ」


 ゆっくりと微笑むそれは、懐かしい遠い記憶に残る若かりし母のものだった。


「うそでしょ……!?おかあ……さん……なの!?」

「綾香っ!」


 びっくりして驚く自分に、目の前の女性は感極まって抱き着いてきた。

 ぎゅうっと抱きしめる強い力に、私は信じられない気持ちでいっぱいだったのだ。


 だって、明らかにこの世界は平安時代のそれで。

 目の前にいる女性も長い髪を床まで垂らし、簡素ではあるが重ね着の着物を着ている。

 いわゆる異世界トリップとも言える現象を起こしているのではないかと考え始めていたところに、まさか死別したはずの母がここにいたのだ。

 一頻り涙を零し嗚咽していた母はようやく身を剥がして、ゆっくりとお互いの顔を見合わせたのだ。


「ああ綾香……綾ちゃん……!まさか、ここで貴女にもう一度巡り合えるなんて思いもしなかったわ……!こんなに大きくなって……!」

「おかあ……さん?孝子(たかこ)母さん……なの?本当に……?」


 三歳の時に他界してしまった母の顔はおぼろげにしか覚えていない。

 だが、数枚残された色あせた写真にあった母の顔が、今目の前にあるのだ。

 違う部分としては、長くのばされた白髪交じりの豊かな髪と見慣れない和服の着物だ。

 混乱の残る私の頭をぽんぽんと撫でながら、母はゆっくりと今の現状を話してくれた。


「綾香……。気づいていると思うけど、ここは平安時代なの。貴女は、この時代でも私の子供として生まれていたのよ。でも、数日前に貴方は病に倒れてしまって死んでしまっていたのよ」

「病……死んで?」

「もう駄目だと……生き返る事は無いとお医者様にも言われていたくらいだったのよ……」


 そういいながら、母は近くに置かれていた急須から白湯を湯のみに注いで綾香に渡した。

 すっかり冷めてしまっている白湯を飲みながら、少しずつ頭が冴えてくる。

 母に、自分は母がいなくなってから親戚に預けられていたこと、そして高校卒業後に一人暮らしして、最後にはチンピラにおいかけられたところで大型トラックにはねられたところまでを話した。

 すると母は痛ましげな表情を見せて、もう一度綾香の身体を抱きしめてゆっくりとその頭を撫でたのだ。


「可哀想に……。こんなに若いのに早くに死んでしまうだなんて……」


 ぎゅうっと抱きしめた後、母はふうっとため息をついて綾の身体を離した。


「私はね……。交通事故で死んでしまってから、なぜかこの世界に飛ばされたのよ。今の綾香と同じように、どこかのお家の姫様と入れ変わっちゃったみたいで。実際に亡くなった年齢よりも若い10代ぐらいの女の子に戻ってしまってたの」

 

 母の説明を聞くと、母も自分と同じように世界を飛んでしまった挙句に年齢まで遡ってしまったらしい。

 そのまま平安の家で過ごし、そのうちに家が決めた許嫁と結婚し今の家にいるのだと。

 母は複雑そうな顔をしながらも、神妙に話を聞く綾の頭をゆっくりと撫でた。


「転生した先がこの時代で私も随分と驚いたけども、もう一度新たな人生をやり直すんだって思って、今までやってきたのよ。今の旦那さまも優しくて温かい人だから、今の時代も幸せに過ごさせてもらっているわ」

「そうなんだ……」

「で、貴女の事なんだけど……。今の旦那さまとの間に生まれた貴女は、今の貴女ではない子だったの。でも、面影が幼い頃の貴女にそっくりで、この世界でも綾子って名前をつけていたのだけど……。さっきも言った通り、数日前に病で亡くしてしまって……」

「死んじゃったの?……じゃあ、私……その子の器に乗り移っちゃったってこと?」


 母の話を聞く限り、トラックで跳ね飛ばされて死んだ自分は、転生先の母の子として死んだ器に魂が引き寄せられてしまったのではないかと憶測した。


「ええ。どうやらそのようね。といっても、綾子は死んで息を引き取っていたから、正確には生き返ったが正しいかしら」

「ひぇ……!?」


 あっけらかんという母の言葉に、綾香はぞぞぞっと身の毛をよだらせ自身の身体を抱きしめた。

 だが、目の前にいる母は落ち着いた様子でニコニコと微笑んでいた。


「でも……。まるで夢みたいね……。もう一度、貴女に会う事ができた……。この世界の私の娘として、戻って来てくれたんだもの……奇跡だわ!」

「まあ、確かに……」


 ふふふっと笑みを零す母の雰囲気に、寒気を感じていた綾香もようやく落ち着きを取り戻した。


「でも……綾ちゃん……。元の世界にはもう戻れないと思うけど……。大丈夫?」


 恐る恐る伺う母に、綾香はあっけらかんとしてみせる。


「うん。別に。現世には未練はないわ。元々一人ぼっちだったし。なんもいい事もなかったしね」

「そう……ならいいけど」


 現世での未練をまったくもって持たない娘を不憫に思ったのか、母は少しだけ寂し気な笑みを浮かべて微笑んだのだった。



 タイミングを見計らったように室内に入ってきたお手伝いさんの人々が、綾香のすぐ傍に食事とも言える簡素なおかゆと薬湯を置いていった。

 差し出されたおかゆをゆっくりと食べながら、母から今世の世界の話を聞き始めた。


 まず時代は平安中期頃だということ。

 戦もなく、比較的穏やかな時代が三十年ほど続いているそうだ。

 この家は平安京と呼ばれる現世での京都府にあって、家の主は宮中に仕える大納言家なのだという。

 その内に家主とも言える大納言がやってきて、綾香は少し緊張しつつもその顔を拝見した。

 年は五十代中頃で白髪の混じる黒髪をまとめ、黒装束に身を包んだ人のよさそうなおじさんだった。


「……なんだか、ちょこっとだけ前のお父さんに似てる?」


 と、こそこそっと母に耳打ちすれば、「もしかするとお父さんの祖先かもね」といたずらっ子そうにぱちりとウィンクしてみせたのだ。

 今世の父は生き返った娘の姿に歓喜し、嬉しそうに微笑みながら綾香の頭を一撫でしてからあっさりと退出していった。


「旦那様は毎日宮中へ出仕していてね。お忙しいのよ」

「まるでサラリーマンみたいだね」

「そうかも」


 そう言って母子はくすくすと笑いをもらしたものだった。


 食事を一通り終えて片付けて、温かいお茶を飲みながらゆっくりと母と会話をつづけた。


「大納言家か……なら、そこそこのお金持ちの子ってなるのかな、私」

「そうね……。衣食住は一通り約束されているし、生活には困ってはいないから、何もなければのんびりと生きる事はできると思う」

「何も……なければ……ね」


 ふーっと熱いお茶に息をふきかけて、会話が途切れた母に視線を向ける。


「その言い方だと、何かあるみたい」

「……ふふっ。察しがいいわね」

「私だって二十二歳まで生きて、それなりに社会にでてましたから。そりゃ色々分かっちゃうよ」


 はははって笑ってみせながら、近くにあった鏡台に視線を向ければ、今の自分の姿が少し幼く見えて内心ため息を吐いた。

 そう、今の自分は母の時のように少し年齢を遡ってしまっているようだった。

 現世で終えた最後の年齢は二十二歳だった。

 だが、今世で息を吹き返し得た肉体は十六歳で時が止まってるという。


「まさか、私まで若返っちゃうなんて思わなかったけど」


 自分の背に垂らされてる長い髪を手繰り寄せれば、真っ黒で綺麗に手入れされた黒髪がそこにあった。

 立ち上がっても床を少し引きずる程度まで伸ばされた髪は案外重いもので、母に肩口で切っていいかと聞けば駄目だと強く言われたのだ。

 この世界では髪を長く伸ばすのが通例なのだという。絶対に勝手に切っちゃだめだと強く念を押されたほどだ。


 その髪を遠巻きに見ながら、手にしていた湯のみをお盆に置いて、綾香は母へと視線を移した。


「のんびりできない理由は何?」


 綾香の言葉に、母は隠しきれないわねっとため息をついて見せた。


「綾子……貴女がここに来る前に生きてた子は、東宮様へ嫁ぐ入内準備が行われていたのよ」

「へ。入内……嫁ぐ……?」


 さらりと答えた母の言葉に、綾香は平安時代のしきたりを思い出した。

 東宮といえば、今世を仕切る帝の息子…いわゆる天皇家の跡取りとなる皇太子様だ。

 平安時代では有力な貴族の女子は、帝の嫁になる事でその家の権力を繁栄させていくものだと歴史で習った。

 いわゆる入内と言われる貴族たちの政略結婚の儀式だ。


「もしかしなくても、大納言家からも姫を入内させる準備が行われていた……ってこと」

「その通りよ」


母が小さくうなずき、綾香は腕を組んで天井を見上げた。


「入内……入内かー……。生き返ってすぐに結婚かーーーーーーーーーーー」


はーーーっと大きなため息をついてから母を見れば、母も戸惑うような表情を浮かべていた。


「貴女の前の子はこの世界で生まれた子だったから……。東宮様への入内内示も喜んではいたのよ。入内できる日を指折り数えて待っていたの……。だけど」

「流行り病で死んじゃった……んだよね……」


この器に移る前にいた女の子は既に他界してしまったのだ。

器を乗っ取る形でここに来てしまった自分だったが、目の前の母の表情を見ると母も複雑そうな顔をしている。


「……もしかして、私、ここに来ない方がよかった?」

「そんなことないわ!」


母は綾香の言葉に大きく首を振って否定してみせた。


「綾子は既に死亡診断されて3日は経っていたの。私の中で、あの子とのお別れは既に済んでいるし、貴女ともう一度巡り合えたことも神様に感謝しているわ!」


そう言って、母は綾香の手を取りきゅっと握りしめた。


「でも……綾ちゃんから見たら、知らない人のところに勝手にお嫁に行かされちゃうのは嫌よね」

「そりゃ……まあ……。現世だと考えられない事だったし……」


 綾子が生き返ったと喜ぶ大納言の父の姿を見ていると、おそらく再度の入内も近いうちに決定するかもしれないという。

 そんな事を母は言葉少な目に漏らしたのだ。

 今世で生きる母にとっても、娘の結婚は喜ぶべき嬉しい出来事だろう。平安の世なら、いわゆる玉の輿でもあるのだ。

 玉の輿には心惹かれるけども、でも顔の知らない男の元への結婚が確定しちゃうのも納得がいかない。


 そんなことを考えながら、綾香はその日の夜を悶々と過ごしたのだった。

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