第17話 封印調査 ― 裏紙層(アンダーコード)

Ⅰ 退院の朝、白い天井と紙の音


 朝の医務祠は、紙をめくる音で始まる。

 正確には、風鈴が鳴るたびに天井の白が一枚ずつ薄く剝がれていくような、あの感じだ。

 鼻の奥に残っていた鉄っぽい匂いは薄れ、かわりに温めた牛乳の甘い匂いが近くにいる。


「起きたか」


 障子の向こうで声がする。鷹真だ。半歩手前で止まる癖は相変わらずで、結界みたいに安心する。


「……おはよう。唐揚げの夢、見た」

「現実で食べろ。ほら、スープ。塩はすくなめ」

「塩は舌で覚える、だよ」


 私が笑うと、鷹真の肩の力が少し抜ける。

 机の上には新聞が三紙、ネットのまとめ印刷、学園内の回覧。見出しはどれも似ている。


『臨界点筆頭、祈り暴走を鎮静』

『撫断式、社会実装へ』

『善の臨界—祈り濃度の新基準』


 “善の臨界”なんて言葉、去年までは教科書にもなかった。

 でも今は、朝の味噌汁みたいに当たり前に置かれている。


「体調は?」

「ご飯さえあれば、たぶん無敵」

「……その無敵、たぶん五分しか持たない」


 言いながら、彼は私の手首の脈をとり、額に手を当て、そして視線ごと少し近づく。半歩の距離が四分の一歩になる。


「数は安定。外圧に触れてないから当面は大丈夫だ。——ただ、昨日の夜から学園の地下層でノイズが増えている」

「祈りの残り?」

「残り、というより……書き換えの予兆だ」


 “書き換え”。

 祖父の声が薄く戻る。『表に居ると寒い。裏に紙を敷け』

 私は胸の小袋をとん、と叩く。からん。眠る音。ひとつ、深く息。


「退院、していい?」

「条件付き。三食、睡眠、塩」


 はいはい、と笑って、私は布団をたたんだ。



Ⅱ 上層の会議、善の顔と針の話


 同じ頃、理事会の大扉の向こう、空気は硬かった。

 半月形の卓、祠の水皿、古い掛け軸。

 有栖川圭人(学園総理事)、御子柴宗近(陰陽庁上席)、天御財閥の新理事・有馬響真、宗家筋の代表たち。

 話題はただ一つ——臨界点筆頭・斎宮透花の取り扱い。


「彼女を象徴に押し上げる。露出は管理。收益は教育に」

「いや、隔離が妥当だ。“撫断式”は暴走の芽だ」

「研究機関で分解すべきだ。個人に紐づいた術は危うい」


 有栖川が掌を上げて鎮める。「象徴でも隔離でもない。“台所”だ。彼女の日常を守らないと術も壊れる」


 有馬が書類を閉じる。「だから観測だ。監視ではない。触らず、見る。所有はしない。

 ——“観測者”を付ける。紙を一枚、影に沿わせる」


 御子柴が頷く。「裏紙層に観測線を敷こう。個人遮断と編集折半は堅持。紙は破るな」


 決まっていく。善の顔で、針の位置が。



Ⅲ 再登校、角を丸くするやりとり


 昇降口のすりガラスに映る自分は、昨日より元気そうだった。

 扉を開けると、廊下がわっと明るい。


「透花先輩だ!」「おかえり!」「鼻血、もう出ない?」

「出ないよー。出したくないよー」


 教室に入ると、三善先生が無言で親指を立てた。

 斜め後ろの席から、暁音がノートを差し出す。

 琥珀の瞳が真っ直ぐ、でも今日は少し柔らかい。


「二週間分、まとめた。結界学は祈り濃度の新基準。都市の導線が蛇口型に——鍵穴にしない、って先生が」

「蛇口は腹に繋がるやつだね」

「そう、“台所”」


 鞄の中で、祖父の妖石が小さく震えた。からん。

 文字にならない気配が指先に残る。読まないで、と祖父の癖が囁く。


「放課後、地下で裏紙層のログ確認に行く」

「行く」


 私たちは短く目配せした。それだけで、半歩の息が合う。



Ⅳ 地下調査室、画面に出た“文字”


 第零祠調査室。壁一面のスクリーンと、青い祠水印の布。

 澪が端末を叩き、颯がグラフを引き、黒江が通信ログを整理する。


「祈り暴走後の反動だと思ってたノイズ、波形が変質してる」

「変質って?」

「線になってる。書こうとしてる。——見て」


 スクリーンに滲む墨の筋が、ゆっくりと字形をとった。


還リナサイ


 誰も息をしなかった。

 暁音が口を開く。「筆跡の癖、古式の封文。——百年前の斎宮系に近い」

 胸が鳴る。祖父じゃない。もっと古い。けれど、家の匂いだ。


「出よう」

「え、今?」澪が慌てる。

「呼ばれてる。——破らない。撫でで行く」


 黒江が目を細めた。「祠区画は許可を出す。視認共有で。個人遮断は透花主体」

 「了解」



Ⅴ 古祠、裏目返し


 裏手の古祠は、雨を吸った紙みたいに重い空気だった。

 紙垂が垂れ、石段は苔の薄絨毯。灯籠の火は低く、鈴は鳴らないで笑っている。


「撫で式・裏目返し」


 輪を二重、臍をやわらかく。

 空気がめくれ、表の景色の裏にもう一枚が現れる。

 裏紙層。墨の薄霧が漂い、静かな波音が聞こえる。


 そこに、立っていた。

 祈り文字でできた人影。膝をついて祠に額をつけ、無音で祈り続ける残滓。

 善の残り火。善は、燃え尽きにくい。


「三体」

「撫でる」

「切り口、示す」


 暁音が一歩、紅が走る。「断ち式・断想」

 私がそこへ布団を滑り込ませる。「撫で式・眠り抱き」

 切り口に布、熱を抜いて、角を丸める。

 祈りの人影が砂になり、布に吸い込まれる。


 ——祠の奥で、別の音。ゴウン、ゴウン。

 内側から叩かれている。還ろうとしている。


「——聞こえる?」

 耳ではなく骨で、声が鳴る。


還リナサイ


 視界が暗くなる前に、私は扉に手をかけた。

 祖父の妖石がからんと強く鳴る。遮る手は、ない。



Ⅵ 封の内側、薄墨の海


 落ちた、ではない。裏へ滑った。

 音はない。匂いは、紙と塩。

 足元は薄墨の海で、踏むたび文字がほどける。


『封ノ裏へようこそ』


 声は男でも女でもなく、筆の声。

 遠くに焚き火が見える。祖父が座っている。影だけれど、背中の丸みが家だ。


「じいちゃん……?」

『表の私はもういない。裏の私は、封だ』

「封?」

『封印とは、自分を二つに割ること。片方を裏に寝かせ、片方で表を歩く。私は片方を置いてきた』


 墨の波が運んでくる。

 古い封文、祖父の笑い、退魔の旅、祠の寝息。

 全部が静かで、温かい。布団の中みたいな世界。


『お前は、撫でで封を再生できる』

「再生……?」

『角が立ち直り、紙が乾き過ぎている。灯を弱め、裏を厚くせよ。読まずに、撫でよ』


 遠くで音。墨の海の向こう、黒い手がゆっくりと出る。

 還リナサイと指が書く。

 それは命令ではなく、祈りに近かった。


「——撫でる」


 私は指を円にして、臍を深く置く。

 撫での滞留は短く、川は浅く。裏の繊維が水を含み、ふやける。

 乾いて鋭くなっていた角が、ふにゃと戻る。


『よい』


 祖父の影が笑う。

 でも、その笑いの奥で、別の呼吸が起きている。

 封の、さらに裏。

 そこに**別の“私”**がいる。祖父の言葉の意味が骨に入る。


『封ハ、己ヲ二ツニ裂ク。残る“私”は、お前を見ている』


 視界が再びめくれた。



Ⅶ 戻る先で、墨は刃に


 現(うつつ)へ押し戻される。祠の石、夜気、仲間の声。

 私の足もとに墨が広がり、そこへ祈り文字がゆっくり蓄積する。

 “見て”“認めて”“叶えて”“守って”——善の語彙が積層して、刃になる。

 善は、重なると切れる。


「来る!」暁音の声。刀印が紅に輝く。「断ち式・連鎖(れんさ)!」

 刃が墨を切り、墨が刃を飲む。

 澪が叫ぶ。「祈り濃度急上昇! 善祈と封の裏息、共鳴してる!」

 鷹真が数を走らせる。「外圧1.26→1.63→1.92。段階で肩を落とす——0.60→0.58!」


 私は祖父の妖石を握る。

 紅・水・白——三の和音。からんが鐘に変わる。

 背に薄い光輪がふたつ、みっつ、四つ。昨日より浅い。これでいい。今は深くしない。


「撫で式・布団返し」

 裏から布を前に返す。

 祠の内側に毛布が垂れ、墨の角がそこで引っかかって鈍くなる。


「……足りない、なら——」暁音が一歩踏み込む。

 呼吸が揃った。半歩がゼロになる。

「撫断・共鳴布陣!」


 断ちの切り口が丸く終わる場所に、撫での布がすべり込む。

 善の語彙が滲み、輪郭を失う。

 叶えては眠ってになり、見ては見守ってになる。

 言葉は、撫でで柔らかい命令に変わる。


 墨の波が退くと、祠の口に小さな白が残った。

 白い蝶。昨日、祖父の守護符から出たものと同じ、でも今は少し大きい。


 蝶が私の指に乗り、還という字を書いた。

 還(かえ)る、ではなく——戻(もど)す、のほう。



Ⅷ “観測者”任命、紙は一枚増える


 翌朝。掲示板に三枚の紙。角がよく丸い。


『臨界層監視の拡張:裏紙層(アンダーコード)常時観測へ』

『撫断式・学校共同儀法試案(公開版)』

『観測者任命:斎宮透花(臨界点筆頭)』


「観測者?」と口にすると、背後から黒江。


「監視ではない。観測だ。触らず、見る。所有はしない。君の影に紙を一枚置く。編集折半、個人遮断は君が握る」

「紙が増えるのは、安心」

「角が立ちすぎたら、撫でてくれ」


 有馬から短いメッセージも届く。《露出は調律。蛇口は台所へ。鍵穴を作らない》

 言葉の塩は薄いのに、腹に残る。うん、台所。



Ⅸ 街へ:祠の息を測る


 午後は街の祠を回った。

 祭の余熱が残る商店街、観光地の小社、マンションの屋上祠。

 各所の祈り濃度は、先週より穏やかだ。けど、ときどき飴色の張りつめが混じる。


「いいねが多い場所ほど、祈りが**“見せ方”の形に寄る」と澪。

「善の顔で針が隠れる」と私。

「隠れた針を折る**んじゃない。布で包むの」と暁音。

「数は俺が持つ」と鷹真。


 四人の言い分が、一本の導線になるのがわかる。

 撫で、断ち、数、台所。

 ひとつ欠けても転ぶけど、四つあるから立っていられる。


 路地裏の古い祠で、白い蝶がまた現れた。

 “裏で待つ”という一筆を残し、紙の間へ潜る。

 ——待つ、のか。待たせっぱなしはいやだ。


「夜、もう一度。裏に行く」



Ⅹ 夜の学園、封の底へ


 夜半。学園は音を吸い、星の数が増える。

 零祠の前に布水印を敷き、輪を一枚。

「撫で式・裏目返し」

 空気がめくれ、裏の廊下が現れる。


 踏み出す前に、鷹真が腕を掴んだ。「五分だ。深く行くな。寄り添う数は0.58で固定」

「うん。睡眠は正義」

「……ほんとに理解してるのか?」


 暁音が肩で笑う。「理解してるから怖いのよ。行こう」


 裏は静かだ。紙の壁に、古い封文が斑点のように浮いている。

 読まない。撫でる。祖父の教えを一つずつ置く。


 奥で、呼吸が揺れた。

 ——いた。

 石と紙が混ざった人型。胸に古い斎宮封。

 目はない。でも、視線だけがある。

 私を読む視線。


「あなたは——」

『——臨界点。筆頭。封ノ裏で待ツ者』

 声が二つ重なる。祖父の影と、封の中の誰か。

 “誰か”は、私の名を正しく呼んだ。

 斎宮透花。撫での子。臨界の子。眠りの子。


「外へ、戻ろう」

『還セ。戻スナ。還リナサイ——“コチラ”ヘ』


 “こちら”。

 嫌な単語の選び方だ。所有の匂いがする。

 私は後ろに半歩下がり、輪を大きくする。

 祖父の石が掌で震えた。からん。

 鐘にはしない。鈴のまま。


「撫で式・薄敷(うすしき)」

 布を薄く敷く。厚くしない。外と内を分けすぎない。

 境界が行き来できる程度に、毛布だけ置く。

 封の裏の“誰か”が、一瞬だけ眠気に囚われ、視線が緩む。


「今!」


 暁音の刃が角の尖りを丸く切り落とす。

 私はその切り口へ撫でを差し込み、眠りを縫いとめる。

 鷹真が数を落とし、澪が窓を狭める。


 ぐ、と世界が軋み、祠の底の鼓動が半目盛りで止まった。


「戻る」

「了解!」


 裏がめくられ、現が戻る。布水印の青が、表に貼り付く。



Ⅺ 医務祠と台所、眠りの味


 戻ってから、私は少し震えた。寒気は怖くないけど、空腹は怖い。

 台所で唐揚げを二舟、牛乳を三本。

 暁音は半分でギブアップし、澪は祠プリンに逃げ、鷹真は「塩」とだけ言ってからレモンを絞った。


「裏の“誰か”、私の名を呼んだ」

「祖父さんじゃないの?」

「違う。封の写し。古い斎宮の影。たぶん、封を書いた書き手自身の裏」

「封は自分を二つに割る……片方は裏だ」と鷹真。

「じゃあ、裏の彼(それ)は透花を所有したい?」暁音が眉を寄せる。

「“こちらへ還りなさい”は所有の言葉。でも、眠気で弱くなった。

 だから急がない。厚く敷かず、薄く撫でる」


「薄い布団は風邪ひくわよ」

「毛布を二枚。台所で温めてから」

 わっと笑いが起きる。笑いは祠の鈴を鳴らさない灯だ。



Ⅻ 庁と財閥、外の波紋


 外では、庁が祈り濃度の臨界マークを公開した。

 黄は安全、橙は注意、赤は祈りの自制を、と。

 天御は**“見せる守り”ガイド**を配信。触らず導線、個人遮断、編集折半。

 ニュース帯は『撫断式、学校標準に』『臨界時の参拝マナー』なんて文字で埋まる。


 でも、ネットの片隅では陰も広がる。

 「臨界点筆頭を神格化せよ」「所有タグを付けて象徴投影しろ」

 ——針は、飴に隠れる。

 黒江はタグを折るのではなく撫でて丸め、御影は食卓の文言で緊張を溶かす。

 “灯は腹から。鍵穴を作らず、蛇口を台所へ。”


 有馬は短く言うだけだ。「観測を続ける。距離を保て」



ⅩⅢ 放課後、掲示と笑い


 掲示板の角は今日も丸い。

 “裏紙層・巡回計画”“撫断式・共同儀法の部”“睡眠と栄養(イラスト:祠プリンと牛乳)”。


「睡眠のポスター、私の寝顔じゃないよね?」

「個人遮断」と澪が真顔。

 吹き出しながら、私は胸の石をとん、と叩く。からん。深い眠りの音。


 暁音が隣に立つ。「今日は断ちをしまっておく。布団の端を持つ」

「ありがと。布団、重いから助かる」

「重い布団ほど、温かい」


 鷹真は半歩でメモを閉じる。「君の撫では“式”で完全には書けない。だから寄り添う数は君に合わせる」

「塩は舌で」

「それはもう分かった」



ⅩⅣ 深夜、白い蝶の手紙


 夜。屋上で白い蝶を待つ。

 風はやわらかく、星は牛乳みたいに薄い。


 蝶は来た。掌に止まり、一本の線を書いた。


読ムナ。撫デヨ


 祖父の字。いや、祖父が祖父になる前の癖。

 “読まない”は難しい。つい意味に手を伸ばしたくなる。

 でも、私の仕事は撫で。意味を眠らせ、角を丸くし、台所に戻す。


「読まないよ。眠ろ?」


 蝶はうなずくみたいに羽を震わせ、裏紙層へ溶けた。



ⅩⅤ 第二夜の封、薄い毛布を増やす


 二夜目。

 零祠の前、昨夜より布を薄く、しかし枚数を増やす。

 厚く一枚より、薄く三枚。空気の層で温かくするやつだ。


「撫で式・薄敷・三葉(さんよう)」

 臍を浅く、輪を三つ。

 裏の呼吸がゆっくりになり、鼓動が静になる。


 封の裏の“誰か”は、今日もいる。

 眠気の中で、なお読む視線を保っていた。

 “見る”と“読む”は違う。“読む”は所有に近い。

 私は視線の角に小さな絆創膏を貼るみたいに、撫での点を置いていく。


「……眠いでしょ。眠ってから、また話そうね」

 返事はない。でも、音が変わる。

 鼓動が半から半、同じ位置にとどまり続ける。

 良い。


 戻る途中、裏廊下の角に古い落書きが見えた。

 斎宮の姓と、ちいさく廉の字。

 祖父が学生だった頃の悪戯だ。

 “破るな”と書き足して帰る。笑ってるだろうな、じいちゃん。



ⅩⅥ 朝の台所、祠プリンの光


 朝。台所の小祠に牛乳一本、祠プリン一つ。

 鈴は鳴らない。鳴らないで笑う。


「灯は腹から」

「うん」


 食べること。寝ること。笑うこと。

 この台所を失くさない限り、臨界は越えられる。



ⅩⅦ 小さな事件:見られすぎる“善”


 三時間目の後、中庭の祠で小さな騒ぎ。

 “臨界点筆頭の手形をとらせてください!”という善の人たち。

 善は悪に勝つけど、行き過ぎた善は針になる。


「見てくれるのは嬉しいけど、触らないで見てね」

 私は撫でで列の角を丸め、布水印の導線に誘導する。

 公開ログに“見守るボタン”を追加。触れない祈りの蛇口だ。

 列は静かに流れ、祠の灯は低い。


 暁音が肩で笑う。「断ちを使わずに済むなら、それが一番」

 「断ちは、端をきれいにしてくれる」

 「撫では、真ん中を温かくしてくれる」


 どっちも必要。どっちが欠けても、角が立つ。



ⅩⅧ 夕暮れ、観測者の視点


 夕暮れの屋上で、“観測者”として一日の記録をまとめる。

 触らず、見る。読まず、撫でる。

 観測の言葉は薄味に。塩は舌で足す人へ任せる。


 有馬から短い返信。《十分》

 御影からは《眠れ。睡眠は正義》

 黒江は《角、丸いまま》と短く書いた。


 胸の石をとん、と叩く。からん。眠りの音。

 ——この音が続く限り、私は大丈夫。



ⅩⅨ 夜明け前、呼ばれる


 明け方、夢の中で紙がめくれた。

 誰かが裏からノックする。

 今度は命令ではなく、お願いのノック。


 眼を開けると、枕もとに白い蝶。

 “来テ”の一画だけ書いて消える。

 私は起き上がり、上着を羽織って零祠へ向かった。


 裏目返し。薄敷・三葉。

 ——いる。


 封の裏の“誰か”は座っていた。昨夜より小さい。

 眠気で輪郭がゆるみ、読む視線は見守る視線に近づいている。


『……ナゼ、戻ル?』

「台所に帰るから。また来るために」

『台所?』

「食べて、眠って、次を撫でる場所」


 沈黙。

 封の裏が、布団の温度になった。

 “誰か”の声は、今度は祈りに近い。


『……還レ。外へ。今ハ、外デ食ベヨ』


 命令が祝福に変わった。

 私は笑ってうなずく。


「還るね。戻すのは、私がやる」


 戻るとき、祠の鈴が小さくからんと鳴った。

 祖父の笑いが、風に混じっていた。



ⅩⅩ 最後の掲示、そして次の頁


 朝の掲示板に、新しい紙が一枚。角は見事に丸い。


『封は再び動き出す—裏紙層点検のお願い』(生徒向けやさしい版)

・祠の前では“見守るボタン”を押してね(触らない祈り)

・眠そうな灯を見たら先生に知らせてね(眠りは善)

・寝不足は怪異(睡眠は正義)

・唐揚げは塩(塩は舌)


 読んだ子たちが笑い、角は今日も丸くなる。

 私は教室へ歩きながら、胸の石をとん、と叩いた。

 からん。深い眠りの音。


「透花、昼ごはん、行こ」暁音。

「唐揚げ二舟、牛乳三本。台所から臨界まで、直通で」

「……食べすぎ」

「善は腹から」


 笑い声が、紙の裏で灯を温める。

 封は動き出す。けれど、私たちの台所も動いている。

 紙を破らず、角を丸く、撫でて、眠らせる。

 臨界点筆頭の仕事は、きっとずっと、その繰り返しだ。


 ——頁が、ひとりでにめくれる音がした。


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