第9話 種を蒔く手、撫でる手

Ⅰ 報道の加速――善の雨、疑いの風


 朝の食堂。テレビの音量は小さいのに、字幕の勢いが強すぎる。

『透明性の時代、学園は古い?』『臨界点筆頭、奇跡の“撫で”ふたたび』『共同研究“公開型”に拍手』『内部の管理に課題?』

 善の言葉は雨みたいに降り、疑いの言葉は風みたいに吹いた。どちらも窓を叩く音がする。


 私は唐揚げに塩を一振り、もう一振り。衣が光る。牛乳の白が喉を流れて、胸の小袋がからんと小さく返事をする。

 澪は新聞を三紙並べて眉を寄せ、颯は黒いノートに見出しの動詞だけを拾って縦に並べる。“支える/照らす/問い直す/急ぐ”。

 莉子は会報の見出し案を五つも持ってきて、机に並べては「これが一番“光”!」と胸を張る。


「“古い”って便利な言葉だね」

 澪がため息を混ぜる。「“古い=悪”みたいに貼れる」


「“新しい=善”も便利」

 颯が無表情に返し、塩を指で弾く。「今日の午後、“公開型”の細部詰めだ。常時接続は拒む、公開は受ける——この線引きを誤らない」


「線は紙。破らない」

 私は頷いて、唐揚げをひとつ頬張る。「……美味しい」


「はい名言、会報に採用」

 莉子がすかさずメモし、澪が肩を小突く。「採用しすぎ」


 斜め後ろのテーブルで、同級生たちがひそひそと話す。「透明性は大事」「でも事故が起きたら怖いよ」「財閥の網に繋いだ方が安心じゃない?」

 “安心”の出所がどこかは、みんなよく分かっている。蛇口だ。誰が握るか、だけ。


 食べ終わるころ、天御鷹真が二歩離れた距離で新聞を畳み、一礼した。

「午後の設計会議、門は開くが、鍵穴は渡さない——その設計でいく。臨界点、君の“感覚”の範囲は言語化しすぎないでいい」


「うん。撫では、塩と同じ。分量は舌」


「その比喩、今日は分かる」

 鷹真が珍しく口元だけ笑って、席へ戻っていった。笑いは紙を湿らせない、よい塩梅の量だった。



Ⅱ 内部調査――奨学金の路、補講の影


 午前の一限が終わると、私は御影先生に呼ばれて職員会議室へ行った。角の祠に新しい白い花。

 長机の片側に黒江、向かいに御影、その隣に事務主任。颯は壁際に立っていた。


「——“補講”の流れがひとつ見えた」

 黒江が資料をめくる。明細のコピー、申請フォームの複写、口座の経路。

「学園外の“学術振興財団”(名称は善)、実質は天御の系列。そこからの“研究助成・個人”枠が、面談なし/郵送のみで降りている。添付資料に“課題”が付く。鍵穴の“点”」


「事務の承認、通ってます?」

 御影の声は乾いている。


「通っている。寄附受け入れの窓口の旧規程を使われた。——古い経路だ。紙の繊維が弱い」


 事務主任が肩をすぼめた。「当時の担当が退職していて……更新が漏れていました。申し訳ない」


「裏切りじゃなくて、穴だね」

 私は言った。喉の奥の星がぼんやり光る。「ご飯、足りなかったみたいに」


 黒江が片目だけで笑う。「斎宮の比喩は、半分呆れるが半分救われる。——穴はすぐ塞ぐ。旧規程を破棄、“個人助成”は学園窓口に集約。寮の夜間補食も拡充する」


「補食!」

 廊下で聞き耳を立てていたらしい莉子が顔を出し、あわてて会釈して去った。


「補講生のフォロー、私も行きます」

 私は言った。

「昨日の子、また夜に“点”をなぞってた。叱らないで、食べさせて、寝かせて、撫でる。——それで、紙は破れない」


「任せる」

 御影は頷いた。「危なくなったら走って逃げる。黒江がいる」


「いる」

 黒江は短く言った。いるという言葉は、護衛の言葉だ。



Ⅲ 小さな救済――唐揚げの手、眠りの布団


 夜の寮は、緑の非常灯の向こうに、薄い湖みたいな闇が広がっている。

 図書室の前の廊下で、私は足音を殺し、扉を少し開けた。

 窓際の机に、昨日の補講生の少女が座っていた。頬はこけ、指は凍えてはいないが、乾いている。

 机にはコピー用紙。そこに輪の練習の線が無数。指先に小さな絆創膏。


「こんばんは」

 私は声をかけ、コンビニ袋を掲げた。「唐揚げ、ある。塩、持参」


 少女は驚いて、でも逃げなかった。喉が一度動いて、目が水に濡れたガラスみたいになった。

 私は机に紙ナプキンを広げ、唐揚げをいくつか置く。塩を一振り。衣がほんの少し光る。

 ひとつを彼女に渡す。彼女は両手で受け、恐る恐る齧り、目を丸くしてから泣いた。泣きながら食べるのは難しい、と知っている。だから、私は牛乳パックを開けて渡す。白は泣き声を丸くする。


「……ありがとう」

 彼女は小さく言った。「——強くなりたいの。奨学金もいる。家、お金なくて」


「うん」

 私は頷く。「強さは、ご飯のあと。強さは、寝たあと」


「……補講は、内緒って言われて」


「内緒は、紙の裏のインク。滲む。だから、窓口に持っておいで。補食も、助成も、学園のを」


 少女は唇を噛む。血が滲まない程度に。

「——怒らないんだね」


「怒ると、紙が破れる。撫でる。撫では、怒らない手」


 唐揚げをもう一つ渡す。塩を控えめに。

 彼女は食べ終え、息をつき、机に突っ伏して少し泣いて、少し笑った。

 私は毛布を持ってきて、背中にかける。肩が一度だけ震えて、その震えが布に吸われる。

 窓の外の結界膜が淡く光り、小さくからんと鳴った。胸の石の返事だ。守りは要らない。眠りが守る。


「——明日、窓口」

 彼女は毛布の中で言った。「行く」


「うん。一緒でもいい」

 私は毛布の端を直して、部屋を出た。廊下の角の影に、黒江がいた。何も言わず、短く顎で頷いた。いる。



Ⅳ 理事会――“中に種を”の議事録


 同じ夜、都心の塔。

 理事会室の灯りは、黒檀の艶を落ち着かせ、祠の鈴は鳴らない。

 天御織江は議長席で指を組み、鳴海は数字の紙を叩き、西園寺は物流網の地図を広げ、有栖川は言葉の砂糖を皿に広げている。九条は口を閉じたまま。


「補講生は増やせる」

 鳴海が言う。「小口助成を拡大、課題と称して“点”の練習を課す。市場の裾野が広がる」


「寄附物資の直送ルートも開く」

 西園寺が地図に線を引く。「学園の厨房へ“善”を流し込む。蛇口はこちらにあると体感させる」


「善の顔は徹底する」

 有栖川の声は甘い。「“臨界点筆頭の活躍”を讃えつつ、『学園を支える私たち』を描く。孤立は、善で起きる」


「——臨界点の“撫で”が成功し続けると、市場は揺らぐ」

 口を閉じていた九条が、初めて言葉を落とした。「“安全核”の希少性が変わる。蛇口から水が溢れる」


 織江は微笑に見えない微笑で全員を見渡した。

「結論。中に種を蒔く。寄附で善を流し、助成で芽をつけ、透明性で陽を当てる。

 ——斎宮透花を取り込むのではない。斎宮透花の“世界”を、天御の水脈に接続する。彼女の周囲を善で奪え」


 祠の鈴はやはり鳴らず、窓の外の風だけが薄く壁を撫でた。



Ⅴ 揺さぶり――善の箱、列のざわめき


 翌日、昼の少し前。

 大型トラックが学園の裏門に入ってきた。ロゴは天御。積み荷は箱。白いラベルには「災害備蓄・学園支援」。

 厨房へ台車が列を作り、“補食セット”が二千。缶詰、レトルト、栄養バー。ありがたい。ありがたすぎる。

 食堂前に貼り紙——「天御財閥より寄附」。

 列は伸び、歓声が上がる。「助かる!」「寮の食費が浮く」「こういうの、ありがたいよね」


 澪が唇を噛む。「善は、強い。腹に届く善は、もっと強い」


 莉子が不安げに私を見上げる。「臨界点さま、負けてない?」


「負けてない。——私も配る」

 私は厨房に入り、唐揚げのバットの前に立つ。おばちゃんが笑ってスペースを空ける。

 塩を一振り、もう一振り。衣が光る。

 配膳台で、私は配る。「はい、唐揚げ」「塩、足りる?」

 受け取る手が笑って、列の温度が少し上がる。善は蛇口、善は台所。両方あって、いい。

 胸の石がからんと鳴る。来る、というより、来ている。



Ⅵ 夜の結界――“点”の列、撫でる輪


 夜。校舎裏の小さな林の前に、薄い点が三つ並んだ。

 胸の石がからんと二度鳴り、私は澪・颯・莉子と走る。

 点の前にいたのは、昨日の少女と、見知らぬ二人。年はばらばら。頬はこけ、目はまっすぐ。悪意はない。喉が渇いているだけ。強くなりたいだけ。


「こんばんは」

 私は息を整え、笑って言う。「唐揚げ、ある。塩、持参」


 三人の視線が揺れる。ひとりが言う。「課題、今日まで。提出しないと、助成、止まる」


「助成は、学園から出す。窓口においで」

 颯が静かに、しかしはっきりと告げる。

 澪は札を二枚、木に貼る。すべり止め。逃げ道は確保する。追い詰めない。

 莉子は両手を胸に合わせて「一緒に食べよ……!」と泣きそうに笑う。


「——強くなりたい」

 少年が言う。手は震えていない。欲はまっすぐだ。


「強さは、撫でのあと。撫では、食べたあと」

 私は唐揚げを一つ渡す。塩は控えめに。

 彼は噛み、飲み込み、目を閉じ、肩の力が一段落ちた。喉に水が通る音がする。


 けれど、課題は消えない。

 彼らの指先が、同時に空へ輪をなぞる。模倣。臨界点の呼吸を、外から写した輪。

 私は一歩前へ。喉の星をひとつ、舌の裏で転がす。輪を輪で受けない。輪の縁を川にして、外に合わせる。


「——紙、破らない」


 声にすると、輪郭ができる。

 私の川が、彼らの輪の外側を撫で、合図なしに速度を落とす。

 三人の指が、ほのかに震え、輪が川にほどけていく。

 砂は起きず、風も立たず、葉が一枚だけ、静かに位置を変える。


「課題、提出するなら——“撫で”は書かないで」

 澪が言う。「感覚は、言語化しないのが安全」


 少年が眉を寄せる。「でも、“鍵穴”の答え、求められて」


「鍵穴は、鍵屋の商売。君らの宿題じゃない」

 颯が短く切る。「学園の課題をやれ。睡眠と食事」


「寝るの、課題……?」

 三人が同時に呟いて、それから笑った。

 私は唐揚げをもう一つ、三人に渡す。塩は少し多めに。元気の味。


「窓口、明日の朝。一緒に行こう」

 私は言って、うなずいた。

 三人はそれぞれに頷き、薄闇に溶ける。足音は軽くはないが、重くもない。生きている足音だった。


 胸の石がからん。来ない。今夜は、これで終わり——のはずだった。



Ⅶ 背後の印――光る縁、走る文字


 林を背に校舎の壁が続く。古い外壁の目地、その一本が、一瞬だけ白く光った。

 私は反射で振り向く。

 壁の目地に、細い紙片が線のように埋め込まれている。普段は見えない。今、薄く滲む。

 紙片の端に、印。——天御の正式印ではない。鍵屋の通し印。桂木が好む最後の助詞に似た書体。

 似せている。同じとは言えない。似せているから、滲む。


「颯」

 私が呼ぶと、彼はもうスマホ(オフラインカメラ)を構えていた。フラッシュは焚かない。祠の水印に合わせて、角度を変えて二枚。

 澪が札をそっと目地に当て、撫でる。紙は破らない。印は剝がさない。写真だけ。


「——来てる」

 私は小さく言う。「外からだけじゃない。中から、壁の裏から」


「“善の顔”の工事で来る」

 颯が淡々と続ける。「“耐震補修”とか“校舎改修支援”とかの名目で。善は通行証だ」


「窓口閉め直す」

 澪が決意を込める。「改修は学園発注。寄附工事は全面停止、検査は祠と学内監査で二重」


「会報、“寄附工事ってどうやって安全に?”特集やる!」

 莉子が涙目から切り替わって拳を握る。「やわらかく、でも具体!」


「窓口へ」

 三人で言って、四人で笑った。笑いは、紙の湿りを飛ばす。



Ⅷ 朝の列――善の箱を受け取って、塩を振る


 翌朝。

 裏門のトラックは来ない。停止を黒江が昨夜のうちに通した。善は止めない。工事だけ止めた。食べ物は通す。

 食堂前には“補食窓口”の机。事務主任が頭を下げ、書類は簡単で短い。面談は座って、水を出して、寝てるかを聞く。

 昨日の三人が、列の真ん中にいた。眠そうな顔。だけど、目は濁っていない。

 私は唐揚げを配る。塩は控えめ。牛乳は二本。

 列の後ろから、言葉が飛ぶ。「天御の寄附、助かったよ」「厨房は神」「臨界点ちゃんも配ってる」


「助かったは、ありがとうだね」

 私は言う。

「ありがとうは、蛇口の向きを決めない。ありがとうは、舌で決める」

 言ったあとで、ちょっとだけ照れた。言い回しが詩みたいになってしまった。

 澪が肩で笑い、颯が「今日は分かる」と言い、莉子は“名言”スタンプをまた一つ作った。



Ⅸ 放課後の屋上――孤立の罠、並走の距離


 午後の授業が終わり、屋上の風は昨日より乾いていた。

 ベンチに腰を下ろすと、天御鷹真が数歩離れた位置に立った。礼はいつも通り端正。距離は昨日より半歩近い。


「——工事は止めたらしいな」

 鷹真の声は評価とも安堵ともつかない。「善の名で壁に入る手。止められるなら、止めたほうがいい」


「うん。善は、台所に入るといい。壁は、祠で撫でる」


「……比喩が雑なのに、わかる」

 彼はわずかに息を笑いに変え、それから真顔に戻した。

「今日は学内で説得された。“孤立させろ”と。善で。——僕はしない。並走だ」


「知ってる」

 私は頷いた。牛乳の白を一口、舌の裏に残す。「並走は、塩。振りすぎない」


「君の言葉はなぜ食べ物に戻る」

 彼は首を振り、しかし表情は柔らかい。

「臨界点、公開は進める。感覚は無理に言わない。設計はこちらが握る。——孤立はさせない」


「うん。ありがとう」


 彼は礼をして去った。足音は軽くも重くもない。いつも通り。並走の音だ。



Ⅹ 夜の祠――鈴、二つ鳴る


 その夜、祠の前。

 私は澪と並び、鈴を鳴らした。からん。

 胸の石も、からん。二つの鈴が重なり、短く、いい音を出す。

「公開、やる」

 私は祠に小さく告げる。「工事、止めた。食べ物、通した。補講生、窓口へ」


「全部、線の上だね」

 澪が囁く。「善にも悪にも寄りすぎない。紙を、破らない」


「うん。撫でるだけ」


 風が薄く、石畳を撫でた。砂の粒が一つ動き、止まる。

 祠の鈴はもう鳴らない。鳴らないのは、いいことだ。



Ⅺ 深夜――階段の影、手袋の白


 消灯後の校舎。

 階段の踊り場で、手袋の白が一瞬、動いた。上級生の影。胸ポケットに銀のペン。

 指先で点をなぞりかけ、止める。躊躇。

 からん。遠い屋上の鈴に、影の肩がわずかに震える。

 指が下り、点は描かれない。影は静かに去る。

 ——次は、来る。来る前に、食べさせ、寝かせ、撫でる。窓口で受ける。制度で包む。



Ⅻ ラスト――線の上で、笑う


 寮の部屋。

 机の上に、補講生の申請書の控え。学園窓口の印。今日から、彼女たちは表に戻ってくる。

 ベッドの上で、私は唐揚げを一つ食べ、塩を舌の裏で溶かし、牛乳を飲む。

 胸の石がからん。来ない。今夜は、来ない。

 窓の外の壁の目地は暗く、印は光らない。検査は明日。工事は止まった。食べ物は通る。線は引かれた。


「透花?」

 澪が上段から覗く。


「うん。ご飯、美味しい」


「それなら、勝ちだよ」


 私は笑う。

 “勝ち”という線は、紙みたいに薄く、川みたいに揺れる。だから、線の上で笑う。

 紙、破らない。

 塩は、小さく、白く、灯っている。

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