第19話 奪われた指環

 夜明け前の空は、墨の中へ牛乳を一滴こぼしたみたいに白く濁っていた。城下の路地は、爆ぜた夜の名残りをまだ抱いている。焼け残った樹脂の匂い、濡れた石に貼り付く薄い煤、鈴の鳴らない鈴。共同療養所橋の庭の庇には、朝露が不規則な点線を描き、その点線が、昨夜ここで途切れた物語の行末みたいに見えた。


 セレスは、夜を見張った看護人たちを下がらせ、最後の巡回を終えると、湯釜の火を落とした。湯気はやせた指のように窓のほうへ伸び、窓枠の角で切れていく。置き水の茶碗は空だ。夜のあいだ、言葉の出口は乾かなかった。乾かさなかったのは、人の手だ。


 帰城の道は、日の高いうちでも危険だが、夜明け前はもっと厄介だ。物語がやっと寝入る頃合いに、人間の足が石を叩くからだ。セレスは白衣の上に地味な外衣を羽織り、襟のほつれを爪でならした。指の腹に硬い感触——彼女の矜持みたいに古い針の茎が、裏地に縫いとめてある。針は武器じゃない。けれど、治癒師の手元に一本あるだけで、夜は少しだけ歯を引っ込める。


 東の橋を渡るとき、風の向きが変わった。橋板の隙間から、冷たい川の息が上がってくる。遠くで鈴の音。鈴は“手当て”を呼ぶ。鐘は“恐怖”を呼ぶ。今鳴っているのは、鈴ではない。鐘だ。城のほうから、低い音が三度。間を置いて、また三度。合図。王都の朝の呼吸が、少し早まる印。


 アレクシスが動いている。


 セレスは歩幅を半歩だけ広げた。その半歩が、彼女と危険の間に細い溝を一本走らせる。溝は、飛び越えられるうちは境界の役を果たす。飛び越えられないときは、穴になる。穴に落ちた声は、鈴の設計に似たかすかな金属音を残しながら、路地に散る。


 曲がり角の先に、荷車が横倒しになっていた。樽が二つ、転がっている。樽の口は閉じられていて、中身の匂いはしない。誰かが道を塞いだのだろう。セレスは足を止め、左手の壁に触れた。壁は湿っている。指に黒い粉がついた。樹脂と灰。昨夜の爆薬の材料。けれど火の匂いは薄い。不自然だ。誰かが“昨夜の名残り”を今朝に持ち込んでいる。


 戻るなら今だ。そう思って踵を返しかけた瞬間、背のほうから、乾いた布がふわりと落ちてきた。頭巾。頭巾の内側には、香の匂い。眠りを誘う強さではなく、嗅覚の輪郭を海水で薄める程度の量。鼻腔がちり、と痺れた。


 セレスは半身になり、肩を落とす。肩で布を受ける。布の重みで、視界がいっとき暗くなる。暗さは刃ではない。暗さは布だ。布は、裂け目を隠す。隠している間に、誰かの指がそこに針を通す。


 針ではなかった。縄だ。細い、よく撚られた麻縄が、彼女の手首に、次いで肘に、肩にかかる。動きは速い。動物の腱を知っている手だ。関節の逃げ道に先回りしてくる。逃げ道が塞がれると、体は別の道を探す。彼女は膝を落とし、足の甲で地面を蹴る。樽が転がり、ゴン、と鈍い音が、路地の壁を一枚鳴らした。


「静かに」


 耳もと。女の声。喉が砂と煙で鍛えられたような硬さ。そこに、宗教家の寒い丁寧さが混じる。不快な調合だ。


「叫べば、指を折る」


 折られて困る指がある。治癒師の指は、骨でできているけれど、骨よりも言葉でできている。彼女は顎を引き、布の下で目を閉じた。


「——わかった」


 縄は芸術のように正確だった。手首と肘の間にあり合わせの結び目を作らず、一本の線で捕まえていく。右手の親指の付け根に最終の輪がさっとかけられる。そこは、セレスが包帯を留める時にいつも過不足を感じる場所。彼女自身の弱点の座標を、誰かが知っている。


 暗さの中で、彼女は指環に触れようとした。革紐に通され、いつも薬草の香りを薄く纏っている小さな銀。アレクシスの王冠の影に吊るされた、彼女自身の「確かさ」。指環は指ではなく、胸元の下、肌の上——心臓の鼓動に勝手に歩幅を合わせる位置にある。


 指先が触れる前に、冷たい金属がそこに滑り込んだ。鋏だ。刃先が皮膚を避け、革紐を選ぶ。押さえる指の腹に、誰かの息がかかる。息は獣のものではない。人のもの。規律の息。刃が一度だけ軽く震え、革が音もなく切れた。指環が、心臓のふちから剥がされる。剥がすという動作に、礼儀はない。


「いただいた」


 女の声。近すぎず、遠すぎず。


 セレスは歯を食いしばった。指環が肌から離れると、胸骨の裏に冷たい空気の小さな針が入ってくる。そこに穴があいたわけではないのに、穴があいたみたいに息の形が変わる。変わる息は、治癒師の仕事道具のひとつだ。形を見れば、何が欠けたかわかる。今欠けたのは、金属でも、革でもない。「距離」だ。


 視界の布が外される。路地の光が戻ってくる。戻った光は、夜とは違う残酷さを持っている。夜の光は不足を隠す。朝の光は不足を暴く。縄の端を握った女は、普通の顔をしていた。普通というのは、見つけにくいということだ。髪は灰に染めたような色、瞳は色のない茶。外衣の袖口に刺繍。宗派の印。教団。——人界の教団に潜む“灰の主(あるじ)”。


 名を告げられた覚えはない。だが彼女は、“灰”の匂いを身に着けていた。焼けた香と、水で薄めた血の匂い。多くの死者に祈りを捧げた者の、手の匂い。


「歩く」


 灰の主は短く言い、縄を引いた。引き方に、犬を連れるありふれた散歩の癖が混じっている。癖は誰にでもある。癖の中に、人間の過去がいる。


 路地を抜け、運河沿いの古い倉庫に入る。扉は半分壊れ、半分は新しい釘でつぎはぎされている。倉庫の中は、上階へ向けて錆びた鉄の梯子がいくつも並んでいた。梯子の一番上には明かり取りの窓。その窓に薄い布がかかり、布越しの光が粉塵の中で、白い雨みたいに降っている。


 床に円が描かれていた。灰と、油と、粉にした草の混合物。円は汚いけれど、正確だ。歪みがあるとき、それは故意のものだ。歪むように計算されている。円の外には鉄の鎖。鎖の一部は黒い布で覆われ、布の下に何かの刻印が隠れている。対角に配置された鉛の皿。皿の上には——セレスの指環。


 セレスは目を細めた。指環の銀が、見たことのない色を帯びていた。銀は、人の皮膚と一緒に過ごすと、人の時間の色を吸う。その色に、いま、灰が混ざった。混ざった色は、儀礼の色だ。


「王の生命線に、干渉するつもり?」


 灰の主は微笑すらしなかった。「そうだよ、治癒師。あなたの指環は、王の冠に結び目を作っている。その結び目に湿りを与えれば、王の額に冷たい汗の一滴が落ちる。汗は思考を鈍らせる。鈍れば、城は選び間違える」


「汗ですめばいいけど」


「汗ですまないことを、あなたたちは知ってる」


 灰の主は鎖を持ち上げ、彼女の両手を、灰の円の中心から七歩分だけ外れた支柱に縛り付けた。鎖は、ただの鉄ではない。布の下から、皮膚に針のような痛みが刺さる。刺すのは金属ではなく、線のほう。鎖ひとこまひとこまに、細い線が刻まれている。線は図形を作らない。残酷な数列のように伸びる。数列には、音楽と同じ暴力がある。


「反治癒符(はんちゆふ)。あなたが手を伸ばせば、その伸ばした手が、あなたに帰ってくる。回復を祈れば、それが痛みに変換される。あなたの技は、あなたに噛みつく」


「いい趣味」


「効率のいい趣味だ」


 灰の主は、鉛の皿の上の指環に香草を振りかけ、小さな硝子瓶の栓を抜いた。瓶の中の液体は、色がないのに匂いがある。鉄と汗と古い紙。紙は祈祷書だ。祈祷書を焼いて、灰にして、液に溶かす。古いやり方だが、効くときはよく効く。効かないときは、祈る者の喉が枯れるだけ。


「痛くはしない」灰の主は言った。「あなたを“治せない者”にするだけ。そのための準備。あなたの矜持を、丁寧に剥がす」


「拷問のほうが、まだ親切だよ」


「拷問は物語になる。あなたは物語を操る。だから、あなたの物語を剥がす」


 セレスは唇を噛み、呼吸を整えた。整える。整えるというのは、戦い方を選ぶということだ。彼女は、目を閉じ、胸骨の下で、息を一つ捨てた。捨てた息が空白になり、空白が、彼女の内側の机の上を片づける。


 恐怖はある。あることを否定しない。否定しないために、数を数える。


 ——一。

 ——二。

 ——三。


 息を捨てる。捨てるたびに、胸の中に薄い棚が生まれる。その棚に、恐怖を置く。置くのは、棚の隅。手の届かない場所じゃない。届くけど、毎回、手を伸ばさないと届かない場所。


 灰の主が、儀式を始めた。指環の上にひとしずく落とされた液が、銀に触れると、鈍い色をつくった。その色は、王冠の内側の縁の色に似ている。王冠の金は冷たいが、人に触れている部分は、わずかに温度を持つ。その温度に触れてくる手がいま、別の人の手だ。


 遠くで、鐘が鳴った。鈍い音が、倉庫の屋根を薄く震わせる。城が動いている。アレクシスが動いている。彼の命令は短く、よく通る。彼の歩幅は、石畳の上に音を残さない。残さない音が、逆に合図になる。合図は、部下の胸骨を叩く。


 セレスは、目を開けた。鎖に手をかけ、わざと、わずかに癒法の回路を走らせる。指先から、体表へ。体表から、肋骨へ。肋骨から、肺へ。肺から、——そこで跳ね返る。跳ね返ったものが、反治癒符の線をつたって、彼女の神経へ、鋭い針になって戻ってくる。痛みは細いが、確実だ。細い痛みは、大きな痛みより、手強い。大きな痛みは人を倒す。細い痛みは、人を解体する。


 彼女は痛みを呑み込んだ。呑み込むとき、喉の筋肉が小さく震え、震えた筋肉が、過去の夜の全てを反射で呼び出す。鐘楼の夜、石の投擲、蜂蜜酒の甘さ、置き水の湯気、アレクシスの嗚咽。嗚咽は音ではなく、骨の動き。骨は、音楽の前に踊る。


「恐怖は、呼吸の数で小さくできる」


 セレスは、自分に囁いた。患者に話すときの声で。声は、布だ。布は、傷の上に置く。針は、まだ使わない。


 灰の主が、円の外に立ち、言葉を紡ぐ。人界の古い言語。治癒師の学舎では、あまり使わない舌の動かし方。言葉が、指環の銀の上で、音ではなく、色に変換されていく。銀はそれを吸い、皿がその重みを受け取る。受け取った重みの行き先は、一つしかない——王だ。


 王冠の裏側に、重石が増える。


 セレスは、もう一度だけ、回路を走らせる。鎖の符は、彼女の癒しの意図を、機械的に痛みに変換する。機械は残酷だが、偽装がない。偽装がないものには、別の道がある。彼女は、癒しの回路ではなく、呼吸の回路を使った。呼吸の回路は、技法じゃない。生きる方のやり方だ。鼻から入れた空気を、舌の根で薄く温め、肺の下の膜に触れさせ、膜の震えを、脊椎の節々で受け止め、節の一つに、ほんの少し、温度を残す。


 反治癒符は、それを痛みに変えない。変えられない。生きることは、反転できないからだ。できるのは、少し遅らせることだけ。遅延は技術の一種だ。技術は暴力になるが、遅延は暴力になりにくい。


 灰の主は、セレスの目の奥に小さな光の層が残るのを、横目で見たのかもしれない。彼女は指先で合図を送り、隅の柱の陰から別の影が出てきた。細身の男。灰の主の副手だ。彼は麻布の袋を提げ、その中から、木片と糸と、薄い金属板を取り出した。金属板には、罅(ひび)のように細い線。線の交差点に、微細な硝子の粒。粒は黒い。黒は、色ではない。吸収だ。


「“伝導盤”。王の側の儀法回路へ、音のない干渉を送り込む」


 副手は誇らしげに言った。誇りは、隙になるときがある。セレスは、その隙に呼吸の回数をひとつ増やし、喉で言葉を作った。言葉は出さない。出すのは、唇に触れない空気。空気のほうが、言葉より遠くへ届くことがある。


「——アレクシス」


 呼び名は出さない。名は鍵だ。鍵は今、彼女の胸から離れて、鉛の皿の上にある。鍵穴に合う鍵は、別にもある。それは、彼の骨の形。骨の形へ、彼女は空気を滑らせた。空気は神秘ではない。神秘でないもののほうが、時々、神秘を超える。


 遠くの鐘が、二度、三度。彼女の胸骨が、それに合わせて小さく鳴る。骨は、音に弱い。音に弱いから、人は歌を作った。歌は、戦に勝つためではなく、夜を越すためにある。


 灰の主の儀式は進む。指環の銀が、もう一段、暗い色を帯びる。銀が冷える。冷えた銀は、王の額に冷たい滴を送る。滴は思考を曇らせる。曇った思考は、刃の角度をずらす。ずれた刃は、人を殺さない。長く、鈍く、人を疲れさせる。


「あなたの王は、疲れる」灰の主が言った。「疲れて、間違える」


「間違えないよ」


「間違えさせる」


「間違えたぶん、余計に確かになる」


「あなたは、宗教向きじゃない」


「治癒師だから」


「治癒師だから、宗教に近い」


「近いけど、同じじゃない」


 言葉はどちらの刃も薄く、だが薄い刃は人の皮膚に入りやすい。灰の主はわずかに口角を下げ、儀式の速度を上げた。速度が上がると、隙が減る。隙が減ると、人は呼吸を減らす。呼吸を減らすと、恐怖が太る。


 セレスは、逆をした。呼吸を増やす。増やすと、恐怖が薄まる。薄まった恐怖は、今度は鎖の線の暴力を吸い込み、痛みを淡くする。淡くなった痛みは、技術の訓練場になる。訓練は、矜持の親戚だ。親戚は、血だけではできない。選び続けることで、できる。


 倉庫の外で、羽音。鴉が二羽、天窓の布に爪を立て、布がわずかに破れた。破れ目から、薄い光が一本、斜めに落ちる。光は線だ。線は傷の親戚だ。傷に線を重ねると、痛みは別の方向へ少しだけ逸れる。


 逸れる痛みの隙間に、セレスは、手ではなく、目を使った。灰の円。鎖の布。鉛の皿。伝導盤。副手の手の癖。灰の主の喉の動き。倉庫の梁の太さ。天窓の位置。逃げ道はない。今は、ない。だが、逃がす道なら作れる。誰を。自分を。違う。——“意味”を。


 意味を逃がす。物語を剥がされる前に、物語の種を握り、外へ投げる。投げる手はない。手は鎖だ。手がないときは、声だ。声が出せないときは、視線だ。視線は、意志だ。意志は、いつも最後に残る。


 彼女は、灰の主の目を正面から見た。見て、ほんの少し、微笑んだ。微笑みは挑発ではない。挑発は、相手に剣を与える。微笑みは、相手の剣の刃こぼれを見せる鏡だ。


「あなたは、わたしを“治せない者”にしたい」セレスは言った。「でも、わたしは“治ろうとする者”でいる」


「言葉遊び」


「遊びは、あなたの宗派がいちばん嫌うもの」


 灰の主の瞳孔が、薄く閉じた。彼女は、心のどこかで怒ったのかもしれない。怒ると、祈りは歪む。歪んだ祈りは、銀にうまく沈まない。沈まない分だけ、指環の色は濁り、儀式の効率が落ちる。落ちた効率は、時間を延ばす。時間が延びると、城が辿り着く。


 城は、辿り着く。


 遠くの鐘が、今度は四度。合図が変わった。ガルドが塔へ上がり、風の角度を読む。ルーメンが数字を縫い合わせ、過激派の猿真似の混じった手口の確率を左右に寄せる。アレクシスは城壁の上を歩き、視線だけで兵を動かす。橙が鈴を握り、鳴らさない音を中に流す。——みんなが、続けている。


 灰の主の副手が、伝導盤の硝子粒に火花を落とした。火花は音を持たず、光だけを吐き、消えた。消えたはずの光が、セレスの胸に小さな指でさわる。さわったのは、彼女の骨の上に刺繍のように残っている、ある夜の文字だ。——『ここにいる』。文字は、熱に弱いが、火には強い。なぜなら、火は、文字になるための最初の道具だったから。


 鎖が、セレスの手首に新しい痛みを寄越した。今度の痛みは、刃ではない。ねじりだ。ねじる痛みは、骨の形を覚えさせる。覚えさせるというのは、屈服の練習の裏で、抵抗の筋肉を鍛えることでもある。


 彼女は、囁いた。


「——アレクシス」


 名は鍵だ。鍵を呼ぶのは危うい。危ういから、そっと呼ぶ。呼ばれた鍵は、鍵穴に入らなくても、ポケットの内側で冷たさを少しだけ変える。変わる冷たさは、持ち主にだけわかる。


 倉庫の屋根に、足音。二つ。三つ。規則的。規則性は近衛の癖だ。次の瞬間、天窓の布が音を立てて裂け、昼の薄い光が、灰の円の中心に落ちた。灰の主が顔を上げ、「来た」と言わずに言う顔をした。副手が伝導盤を抱え、後ろへ下がる。下がるのが早すぎる。早すぎると、繋いでいた線が引き攣れて、鈴の音みたいな高い金属音が出る。


 その音が、合図になった。


 扉が蹴破られた。破片が床を滑り、灰の円の端を削り、灰が舞い上がる。灰は薬だ。薬は毒の親戚だ。親戚は、血だけではできない。選ぶことで、できる。選ぶ側が今、踏み込む。


 近衛が三人。ガルドの副官が先頭。目は平ら。平らな目は、感情を棚に置いてから来た目だ。棚は、戻るための目印でもある。副官は灰の主の脇へ回り、手首を狙う。灰の主は反時計回りに下がり、円を踏まない。踏めないのではない。踏まない。円は、彼女の側にも刃だから。


「セレス!」


 その声は、王の声ではなかった。王は、名前を、こういうふうには呼ばない。王は、合図を使う。今の声は、人の声だ。——アレクシスだ。彼は、王の外套を脱ぎ、普通の靴で、走ってきた。普通の靴は、石に音を残す。残された音は、誰かの盾になる。


「ここ!」


 セレスは、声を出した。出した声は、鎖に触れない。声は線ではない。波だ。波は、鎖の線をまたぐ。灰の主が顔だけで笑い、指環の皿に、最後の液を落とした。落とす前に、副手の手が、わずかに震えた。震えは、恐怖ではない。計算のほうだ。計算が、狂い始める。


 天窓から、もう一人、影が落ちた。ルーメンだ。彼は、落ちているあいだに息を整え、床を転がり、伝導盤とセレスの間に、布を投げ込んだ。布は、儀法を遮らない。遮らないが、薄い湿りを持っていて、硝子粒の熱を奪う。熱を奪われた硝子は、音を出す。音は、高い。高い音は、作業の手の細い神経を鈍らせる。


「数字の縫合は済んでいます」ルーメンが息の上に言葉を乗せる。「あなた方が二割しか“本物”でないことも、こちらの数字はもう知っている」


「毒舌」灰の主が冷たく言った。


「毒は薄めるのが私の仕事で」


「薄めた毒は、薬に似る」


「似て非なるものです」


 アレクシスはもう、セレスのところに来ていた。鎖の布を見て、手袋を外す。素手だ。素手で、布の下に指を滑らせる。指が線に触れた。触れた瞬間、彼の顔が、ごく軽く歪んだ。痛みが、彼にも返る。返るのは、彼が今、王ではなく、人であるからだ。


「触っちゃだめ」セレスが低く言う。「反治癒符。——痛みになる」


「知っている」


「やめて」


「やめない」


 短い応酬に、灰の主が、ほんの少しだけ眉を上げた。上げた眉は、侮蔑ではない。興味だ。興味は、油だ。火に近いところで使うと、音を立てる。


 ガルドの副官が灰の主へ一歩詰める。灰の主は、飛び退かない。退くとき、人は目を逸らす。彼女は逸らさない。その目の中に、灰の色がある。灰は残余だ。燃えた後に残るもの。残るということは、負けでもあるし、勝ちでもある。


「王よ」灰の主が、初めて敬称で呼んだ。「あなたは、どれだけ痛みを受け取れる」


「必要なだけ」


「必要は、拡張できる」


「俺の必要は、俺が決める」


 彼は、布の下の線を、一本ずつ、指で押さえ、押さえながら、セレスの手首の皮膚の温度を、自分の掌の温度で、ゆっくり上書きしていく。温度は線を壊さない。壊さないが、線の仕事を遅らせる。遅延。遅延は道だ。道は、時間の中にしか出現しない。


「痛い?」彼が問う。


「痛い」


「いつものように、数える」


「数えてる」


「俺も、数える」


 アレクシスは、声を低くし、彼自身の呼吸の数で、周囲の音を薄くした。薄くなった音の中で、ルーメンが伝導盤を足で遠ざけ、副手の手首に細い紐をかける。紐は、紐に見えない。見えないものは、時々、最もよく働く。


 灰の主は、その隙に、皿から指環を掴んだ。掴んで、口へ持っていく。銀は、唇の温度に敏感だ。温度を奪われると、銀は黙る。黙った銀は、言葉を返さない。言葉を返さない指環は、鍵穴を忘れる。


 セレスは、反射で叫んだ。「やめて!」


 叫ぶと、鎖の線が反応する。痛みが、背骨の節の合間に、針の頭ほどの点を作る。点は痛みの印。点が並ぶと、線になる。線は道になる。——違う。今は、違う。道にしない。点のまま、残す。残した点を、あとで縫う。


 ガルドの副官が動いた。動きは直線。直線は読みやすい。灰の主は読み、半歩だけ横へ滑る。滑る足が、灰の円の外側に、わずかに触れた。灰が舞う。舞った灰が、目に入る。目は、灰に弱い。灰は、目に、自分の正体を見せない。


 その一瞬。アレクシスの指が、布の下の線を、正確に、二本切った。切るのは、刃ではない。力の方向だ。方向を変えられるのは、人だけだ。線は、方向に弱い。方向を変えられると、線は意味を失い、ただの傷になる。


 鎖が、少しだけ軽くなった。軽さが、皮膚へ戻る。戻った皮膚が、彼女の手に「いま」を返す。返された「いま」は、逃げ道の代わりになる。逃げられないときに、「いま」を握る。握れば、次の呼吸が来る。


「——一」

「——二」

「——三」


 セレスは数え、彼は数える。数えることが、彼らの“誓いの途中”のやり方だ。誓いは未完でいい。未完のものは伸びる。伸びるものは、結べる。


 灰の主は、指環を唇から離し、わずかな血の色を唇に残した。彼女は、それを舌でぬぐい、微笑む代わりに、笑わなかった。笑わない人は、強いときがある。強い人は、長く生きるとは限らない。


「引け」彼女は副手に言った。


 副手が引いたのは、倉庫の梁に隠された縄だ。縄が落ち、煙玉が弾け、煙が、灰と薬草の匂いで満たされる。匂いは、恐怖を太らせる。だが、今は、恐怖は棚の隅に置かれている。棚の上には、彼女の呼吸の数が横に並び、その横に、アレクシスの低い声が座っている。


 灰の主は、布で顔を覆い、裏口へ向かった。裏口は、最初から開いていた。開いているものは、閉めにくい。閉めにくいものは、追いにくい。追いにくいときは、追わない。選ぶ。選び方は、夜ごとに変わる。


「追うか」副官が問う。


「追うな」アレクシスが言う。「セレスを外へ」


「王」セレスが遮る。「指環を」


 皿の上。銀は、まだ暗い色を纏いながら、そこにあった。灰の主は持ち去らなかった。持ち去らないというのは、優しさではない。儀式は、物を運ばずとも、残滓で続く。そして——続くことが、魔法のいちばん古い形式だ。


 ルーメンが手袋をはめ、銀を布に包む。「一度、冷水で洗います。次に、塩で。次に、湯で。次に——」


「湯は、私が」


 セレスは弱い声で言い、鎖が切れた手首を胸へ当てた。胸骨の下が、空いている。空いたところへ、彼女は指を当てた。指は、物の形を戻す。指は、意味の形を、戻す。


「戻る」


 囁きは、誰に向けたものか、いつも曖昧だ。自分に。指環に。王冠に。王に。夜に。全部だ。全部に向けると、声は薄まる。薄まって、長持ちする。


 外へ出ると、朝はもう、白かった。白は、始まりの色に似て、終わりの色にも似ている。倉庫の前の運河は、静かで、しかし水面の下で小さな流れがいくつも交差している。交差点は、危険だ。危険を、彼女はもう怖れない。怖れないのではなく、怖れ方を知っている。


 彼女は、自分の足で歩いた。抱き上げられても、歩く。抱き上げる手は、彼のものだ。彼は、支えるだけで、進行方向を押しつけない。押しつけない支えは、矛盾ではない。支えの正しい形式だ。


 城に戻る間、ルーメンが短く報告した。「“灰の主”。宗派の古い儀礼を改造して、反治癒符で治癒師を潰す。対象の矜持を剥ぐまでに、三夜。物語を作らないための三夜」


「三夜?」


「はい。三夜目に“治せない者”にする。治せない者は、治療の場にいられない。いられないと、物語が、あなたたちから離れる」


「離れない」セレスは強く言った。


「離れる可能性を、彼らは作る」


「可能性は、可能性のまま置く。——あの女は、そう言った」


 ルーメンが片眉を上げる。彼は賭けを好まない男だが、賭けの作法は知っている。賭けは、数字の上では敗北の連続だ。連続の中に、一度だけ勝つ。一度でいい。その一度を、延命に変え、延命を、走るに変える。


 城門が見えた。旗が、朝の風で腹をふくらませる。アレクシスは門の影で足を止め、セレスの額に手を当てた。体温は平常。呼吸は浅くない。皮膚は、反治癒符の線に触れたところだけ、うすい傷を持っている。うすい傷は、よく治る。よく治る傷ほど、痛みの記憶をよく残す。


「……悪かった」彼は低く言った。


「やめて」セレスが首を振る。「あなたが悪いことは、ひとつもない」


「俺が、王でいて、王でいなかった」


「あなたが、人でいて、人だった」


 彼は小さく笑い、セレスの掌に、布に包んだ指環を置いた。布の下で、銀が冷たい。冷たい銀に、彼女は息をかけた。息は、湯じゃない。湯にするための前置きの仕事だ。彼女は歩きながら、呼吸の回数を数えた。数えながら、心の机の上に、今日の印を並べる。


——奪われた指環。

——反治癒符の鎖。

——灰の主。

——三夜の猶予。

——鐘の合図。

——戻る。


 医務室に戻ると、湯釜はまだ、温もりを残していた。誰かが、火を落とす前に、釜の底に薄い布を敷いてくれたのだ。布の上に湯が残ると、次の火が早い。次の火が早いと、夜の冷えが深くなる前に、湯気が上がる。


 セレスは指環を、塩で擦り、冷水で洗い、湯で温めた。銀の暗い色は、少しずつ、戻りかけの青へと変わる。青は、確かさの色じゃない。青は、揺らぎの色だ。揺らぎを抱えたものだけが、長く残る。残るための技術を、彼女は持っている。呼吸の数だ。


 湯気が、指環の上で薄い橋になる。橋の上を、微細な祈りが渡る。祈りは宗教じゃない。祈りは、治癒師の技法を持たない人の“治ろうとする力”の別名だ。別名は、名前ほど強くないが、名前より広い。


 彼女は、銀を両手で包み、胸の上に置いた。胸骨の下で、穴だった場所が、ゆっくりと、布で覆われる。覆う布は薄いが、薄い布ほど、よく温まる。


 窓の外、鈴が鳴らない。鳴らない音が、部屋の隅を満たす。満たされた隅に、彼女は紙を置いた。短い字を書く。


——『恐怖は、呼吸の数で小さくできる』


 紙片を指環の箱の下に滑り込ませ、彼女は立ち上がった。アレクシスが、扉に寄りかかり、彼女を見ている。目は人の色で、王の色で、どちらでもあった。どちらでもあるのは、彼の長所で、弱点だ。弱点は、守る場所の別名だ。


「三夜だ」彼が言う。


「三夜もいらない」彼女は返す。「今夜、戻す」


「戻せるか」


「戻す。——戻せなくても、戻ろうとする」


 彼は頷いた。頷きは、短くない。短くない頷きは、決意ではなく、信頼のほうだ。信頼は、二人で持てる。持つためのやり方は、もう、彼らの胸の中にある。


 城の外では、朝が完全に広がり、鐘は、昼のための音階に移った。鈴はまだ鳴らない。鳴らない鈴を、誰かが掌で包む。包む掌の温度が、これから始まる仕事の温度であるように。指環は、その掌の中で、小さく、しかし確かに、音のない光を返した。


 奪われた指環は、取り戻された。

 取り戻されたのは、銀だけではない。

 呼吸の数。手の温度。未完の誓い。

 それらが、薄い湯気の上で、ふたたび結び直された。


 灰の主は逃げた。逃げたものは、追いかけるより、待つほうが、長く効く。待つ間に、彼女は、鎖に残った線を見た。線は、細く、厭らしく、しかし——綺麗だった。綺麗だ、と感じた自分を、彼女は嫌わなかった。綺麗なものは、どちらの陣営にもある。あるものを嫌い続けると、治癒師は、治せなくなる。


 だから、彼女は、線の綺麗さを認め、その上で、反転させるやり方を、机の上に広げた。広げた紙の端が、窓の風で、少し震える。震えは、恐怖ではない。未来だ。未来は、呼吸の数で、近づける。


 ——一。

 ——二。

 ——三。


 数えるたびに、恐怖は小さくなる。

 小さくなった恐怖の隣で、矜持が、少しだけ太る。

 太った矜持は、誇りに変わらない。

 誇りにしない。

 誇りは、刃だから。

 今日の彼女に必要なのは、布だ。

 布と、水と、名と、そして、呼吸の数。


 窓辺の湯は、また温かくなった。

 置き水は、夜の役目だけではない。

 昼のためにも、ここにある。

 彼女は茶碗を一つ、王のために。

 もう一つ、自分のために。

 静かに置いた。

 置く音は、短かった。

 短いものは、長く残る。

 そして、長く残るものだけが、夜を越す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る