第18話 未完の誓いと月下の口づけ

 朝は川面の皺を指でなでるように静かで、日差しは刃ではなく布のふちのようにやわらかく城下へ降りていた。橋の庭——共同療養所の看板には、昨夜の露が残っている。露の丸い粒は、昨夜の不穏と今朝の期待の両方を小さく閉じこめ、誰が触れても、どちらか一方だけが零れ落ちるように思えた。


 開院式に集った群衆の輪は、いつもの市より密度がある。魔界の看護人たちが列を整え、人界の看護師たちが名札の位置を直す。人界から派遣された若い医師イーアンは、髪の生え際に見えない汗をにじませ、いつもより言葉数を減らしていた。アグリは背筋を伸ばし、左右の柱頭の彫り物を一度だけ確認してから、鈴の角度を調整する。ガルドは広場の四隅に目を配り、近衛の立ち位置を半歩ずつずらす。ルーメンは人界の使節が持参した書簡の封緘(ふうかん)に目を通しながら、開院式の順序を短く吟味した。吟味する、というより毒の中和剤の分量を測っている顔で。


 セレスは白衣に薄い外套を重ね、看板の下で片膝をついた。釘が一本、わずかに浮いている。浮きの程度を指で確かめ、木槌で穏やかに叩く。木が低く鳴り、看板が呼吸を揃える。彼女は立ち上がり、庭の真ん中に置いた小さな台へ上がった。台の上に置かれたのは、湯の入った茶碗、印章カードの束、そして誰でも指差せる絵の板。「痛い」「水」「寒い」「家族」「怖い」「もう少し」「ありがとう」。


 最初の挨拶は、魔界側の代表——老練な医律官が言葉を選び上げるように話し、人界側の代表——アストラムの公使が朗々とした声で応じた。人界の風は修辞を好み、魔界の風は余白を好む。普段なら相殺しあう二つの風が、今日は涼しい陰を作っていた。


「本日、ここに人魔共同の療養所を仮ではあるが開く。名を呼ぶための場所であり、返事を待つための場所である」


 王の声が、群衆の背中へ静かに落ちる。アレクシスは紋章入りの外套を肩にかけていたが、襟元は固く結ばず、胸元の布をわずかに開けている。人として息をするために。彼の両脇にルーメンとガルド、後方に小柄な記録官と、療養所の手伝いに来た孤児の少年少女たちが並ぶ。橙(本名で呼べるようになったあの少年)も、緊張で耳を赤くしながら鈴の紐を握りしめていた。


「この鈴は、恐怖を呼ばない。手当てを呼ぶ。——最初の合図を」


 橙が合図通りに鈴を鳴らす。鈴の音は、鐘楼の音と異なり、腹に落ちずに胸の上でひろがる。その胸の上に、誰かの手がそっと置かれる感覚。人はそれを「安心」と呼ぶ。


 セレスは台から降り、看板の前へ歩いた。人界代表の公使が一歩進み、魔界の医律官が半歩進む。二人のあいだに、短い距離が残る。距離は刃と同じで、詰めすぎても開けすぎても血が出る。セレスはその距離を測るために、掌に小さな丸い石を隠し持っている。緊張した手の中の石は、余計な筋肉を黙らせる。


「私、セレス。《橋の庭》の治癒師です。ここでは、国籍や種族より前に、痛みの種類を訊きます。——“患者側”というのは、そういうことです」


 公使は口角に形のよい笑みを置き、医律官はそれを見て、頷いた。二人の手が、互いへ差し出される。握手。握手は、互いの骨の位置を確かめる儀式でもある。骨が痛んでいるかどうかは、握る側にも握られる側にもわかる。


 掌が重なる。群衆の空気が一回、深く吸う。この瞬間、街のどこかで誰かが、失われた名前を思い出したかもしれない。診療所の奥では、絵の板の「ありがとう」のところに、誰かの指が触れたかもしれない。


 握手の写真を描く記録官の筆が軽く跳ね、アレクシスが一歩前へ出た。「ここに誓う。剣より先に布を。布より先に名を。名より先に、手を。——この場所を守る」


 彼の言葉のあと、誰も喝采しなかった。喝采のかわりに、息がそろった。そろう息は約束の音階だ。人は約束を歌いながら歩く。


 式は滞りなく終わった。終わりは、終わりに過ぎない。だが人は終わりに安心する。安心が先に来ると、次の始まりが壊れにくい。人界側の使節は記念の献花を残し、魔界側の看護人は花の水を換え、孤児たちは残ったパンの端を集めた。イーアンは一度だけセレスを振り返り、先生、と呼びかける癖を喉の奥で飲み込み、名前で呼んだ。「セレス、午後のカンファレンスの議題、書き出しておきます」。セレスは親指を立てて応えた。


 午後、城へ戻る道は陽射しが少し強くなって、建物の影は濃く、旗は風に力なく揺れた。誰もが疲れているのに、歩く足取りはそれを隠した。隠すのは悪徳ではない。隠すから前へ進めることもある。ガルドは上空の鷹を一度見上げ、視線だけで兵へ合図を送る。ルーメンは手帳に短く符号を刻み、内通者の動線を頭の隅でなぞる。黒檀の短剣はまだ見つからない。見つからないこと自体が刃になる。


 夕刻、城の庭は水を含んだ草の匂いを立てていて、石の椅子は昼の熱を半分だけ覚えていた。薄い雲が月を覆い、覆われるたびに庭の輪郭がひとつ、ゆっくり消えては戻る。職人が剪定したばかりの糸杉の枝が、夜の準備をしている。


 庭の端、古い泉のそばで、アレクシスが待っていた。胸元は昼より閉じ、外套は肩から滑りやすい位置に。彼の影は長く、だが濃すぎない。影が濃すぎる夜は警戒すべきだが、今夜は濃淡がいい。濃淡のある影は、人の顔の形を残す。


 セレスは泉の縁に手を置き、冷たさで自分の掌の意志を確かめてから、彼の前に立った。石に触れていた手はもう温かくなっている。温度の移り変わりの速さは、彼女の仕事の速度とよく似ている。


「呼んだ?」


「呼んだ」


「どの呼び方」


「人の呼び方」


 アレクシスはそこまで言うと、言葉の刃を鞘に戻すように、ゆっくり息を吐いた。吐く息は、昼の残りを夜へ渡す橋になる。


「おまえを選んだ理由を、言葉にする」


 セレスは首を傾けた。彼が理由を言葉にするとき、彼の肩は少し下がり、顎はわずかに上がる。高い場所から言うのではなく、同じ高さから言うために。彼は続ける。


「私の王冠を支える唯一の“確かさ”だから」


 庭の空気が、いちどだけ音を失った。音が失われる瞬間、人の体は未来のほうへ足を出したがる。セレスは足を出さず、代わりに手を出した。指先で自分の頬の下の涙を、意識的に拭う。涙は、拭わないときに真実になることがある。拭うと、約束になることがある。今は後者を選んだ。


「なら、私はあなたの王冠が落ちないよう手を添える」


 言葉は短い。短いものは長く残る。残るものは、弱点にならない。印だ。印は道標になる。アレクシスの目が少しだけ光を帯び、彼の首筋の脈が、庭の水音と歩調を合わせた。二人の距離が、考えではなく足の運動で縮む。夜の濃淡が二人の間に何本も細い梯子を渡し、梯子の一段目が、ほとんど音を立てずに踏まれた。


「……未完の誓い」セレスが小さく言う。「昨日、あなたは泣いた。人として。今日、あなたは言った。王として。どちらも、途中だよ」


「途中でいい」


「途中が好き」


 彼は笑った。笑い方を忘れない王は、王でいられる。笑いの後、月が雲から出る。出た月が、泉の水面を薄く切る。水面が切れると、二人の影が揺れ、一瞬だけ重なる。重なる影は、約束の飾り紐のようで、均一ではなく、結び目に余白がある。


 その結び目の上で、二人は口づけた。月下の口づけは、詩文に書かれ過ぎていて、陳腐になりやすい。だが、陳腐になるのは「他人の口づけ」で、自分たちの口づけは初めてだ。初めては、陳腐にならない。セレスは相手の呼吸の速さの違いを、口の温度で読み、アレクシスは相手の肩の筋肉の強張り方が今朝より柔らいでいることを、掌で知る。掌は舌より正確だ。


 口づけは長くなかった。長さが必要ではない。さっきと同じ。必要なのは、音ではなく、熱だ。熱は、王冠の重みを支える指先の温度へ移る。王冠は金属だ。金属は冷えやすい。冷えた金属を落とさないように、人の温度を添える。


 セレスが息を吸い、言葉を取ろうとしたとき——城の一角が、爆ぜた。


 爆ぜる前に空気が一度だけ凹み、凹みが戻る勢いで音が走る。音は、庭の樹々を背から押し、泉の水面に斜めの皺を走らせ、月の光を千切る。千切れた光の破片の中で、鳥が一羽、方向を失い、夜の向きを再確認するまで翼を打った。


 爆炎は高くなかった。だが、長持ちした。一般の爆薬ではない。混ぜ物。ルーメンの眉が遠くで跳ねるのが見える。爆心地に黒い煙が立ち上がり、その煙の縁に、黒檀色の紋章が浮かぶ。紋章は刃の形に似て、刃ではない。象徴。黒檀の短剣の紋章——内通者が動いた合図。


「人払い!」ガルドの声が庭の四方に打たれ、近衛が交差する。庭の扉が半分閉じ、半分は開く。閉じすぎないのは、逃げ道を確保するため。開けすぎないのは、侵入を防ぐため。兵の足音が柄の揃った刃のようにそろい、ルーメンが一歩こちらに寄り、「陛下」と短く呼ぶ。呼び方は仕事の呼び方だ。夜の呼び方ではない。


 甘い一幕は破られた。破られた布の端は、繕えるかもしれない。だが今は、繕わない。破れ目が風を通す。風が報(しら)せを運ぶ。セレスは手の甲で口元を拭い、「行って」と言った。アレクシスは頷き、彼女の肩を一度だけ掴む。その掴み方が、先ほどの口づけより短く強く、人の約束より王の約束に近かった。


「安全区画へ」


「行かない。医務室に戻る」


「命令だ」


「正しいなら従う。今は、違う」


 ふたりの間の短い応酬に、ガルドの口角がわずかに動いた。彼はセレスの選び方をよく知っている。選び方は戦い方と同じで、毎回、同じではない。違うやり方を選べる人は長く立つ。


「ルーメン、寝所の周囲、封鎖優先。象徴は無効化する。——ガルド、爆心と逆側から回り込め。発火点は一カ所じゃない。紋章の出方が“合図”だ」


 アレクシスの命は短く、しかし布地の目が詰まっている。ルーメンは「御意」と一言だけ置き、走る。走りながら、毒の瓶の相性を頭の中で並べ替える。ガルドは二手に合図を送り、兵の半分を通路の影へ、半分を屋根の縁へ。狙撃の角度は低い。低い角度は内通者の好むやり方だ。仲間を巻き込まない。巻き込んでも、巻き込んだと見せない。


 セレスは庭の反対側、木陰の通路を走る。外套は脱ぎ、白衣の裾を手で抑え、靴の踵の釘が石の目地を数える。医務室へ向かう途中、彼女は出会う人の肩を押し、腕を引き、方向を言葉少なに示す。「北へ」「西は閉鎖」「水を」。声は短いが、指示は長く残る。受け取った者の背中の筋肉が、それぞれ別の角度で固まる。


 医務室の扉は、半分開いている。開け放っていないのは、外の風を全部入れないため。中にいる者の呼吸で風の質が変わる。扉をくぐると、薬棚の瓶は朝の位置のまま、寝台は二つ空き、湯はぬるい。誰かが、ここを出る前に一度だけ火を止めたのだ。賢い手。


 最初に運び込まれたのは、屋根の縁で落ちた兵だった。背中に擦過傷、耳鳴り、肺に薄い煤。セレスは肺の音を聞き、薄い板を当て、薄荷と蜂蜜湯を用意する。蜂蜜は喉の仕事もする。次に、爆心地近くから男女が運ばれる。皮膚に火泡、髪に煤、目に痛み。人界から来た看護師二人が両脇に入り、魔界の看護人が火泡の処置を手早くする。言葉は混ざるが、手は混ざらない。混ざらない手が同じ方向を向いていれば、結果は混ざる。


 扉がもう一度開き、ルーメンの部下が駆け込む。「黒檀の紋章の刻印、壁の煤に浮かびました。加熱で出る型。彫りではなく、薬の反応」


「反応剤は?」セレスが顔を上げる。


「樹脂と植物油に金属粉。夜目で黒く見えます」


「過激派の手口と一致?」


「どちらとも言い難い。両陣営の猿真似の可能性が高い」


 セレスは頷き、部下に布を渡す。「目の洗浄、三回。間に休み——息の深さを見て」


 医務室の窓の外で、別の爆ぜる音がした。遠い。遠くて低い。意図的な「連鎖の間引き」。本気で城を落とす気ではなく、物語を入れるための爆破。物語は風に乗って広がる。今夜の風向きは北西。北西は、城下の貧民区へ抜ける。そこに火の噂が落ちると、家々の噂と混ざり、鈴の音さえ恐怖に変えうる。


 セレスは窓を一度だけ半分閉め、内側の空気の脈拍に耳を澄ます。脈拍は早すぎず、遅すぎず。中にいる者たちが、外の音に紛れずに、自分の息を確かめられる速度。彼女は自分の胸にも手を置き、そこで未完の誓いが、今しがた破られた布の端で風に鳴るのを感じた。鳴る、と言っても音はない。鳴るのは振動だけ。振動は、次に縫うための合図でもある。


 扉のそばに、少年——橙が立っていた。鈴を握っていない手が、落ち着きなく袖の裾を触る。


「怖い?」セレスが問う。


「すこし」


「鈴は鳴らさない」


「わかってる。鳴らすと、噂が走る」


「そう。今は、中に置く」


 橙は頷き、鈴を棚にそっと置いた。鈴は、小さく揺れ、鳴らない音を出す。鳴らない音は、時に最も役立つ。


 彼女が次の患者へ向かおうとしたとき、影が扉にさした。アレクシスだ。息は整っている。整っているけれど、瞳に薄い赤が混じる。怒りではない。焦りでもない。目印。王の目にだけ出る、仕事の目印だ。


「被害は抑え込み中。内通者は“合図を撒いた手”と“爆ぜる位置を選んだ手”に別れている。黒檀は——」


「象徴は、まだ見つからない」


「ああ。だが、象徴が先に動いた。刃は、象徴の後から来る」


「来る前に、縫う」


「縫う?」


「噂を」


 ルーメンがちょうど背後から現れ、セレスの言葉に微笑んだ。「噂の縫合は、治癒師の手技のうち、もっとも政治的でございますね。素材は言葉。縫い糸は誰の口にも入る話。針は——鈴」


 セレスは橙を見る。橙はうなずき、鈴を手に取った。「外じゃなく、中に鳴らす」


「三回。短く」セレスが言う。橙が鳴らす。医務室の中にだけ響く合図——「手当て」「呼吸」「ここにいる」。その三つが、外の爆ぜる音より先に患者の耳に届く。


 彼女はアレクシスに向き直った。「さっきの言葉、聞いたよ」


「どの言葉」


「“確かさ”。——ありがとう」


 アレクシスは頷いた。頷きは揺らがない。揺らがない頷きは、王冠の下の首に負担がかかる。負担を半分にするのが、彼女の役目だ。彼は言う。「甘い一幕は破れた」


「うん」


「だが破れ目から風が入る。冷やし過ぎないように」


「湯を沸かす」


 短い会話ののち、彼は踵を返した。「寝所に戻らない。今夜は、城壁の上に立つ。黒檀の象徴を、壁の外から見ている目がある」


「気をつけて」


「おまえも」


 扉が閉じる。閉まる寸前、彼の掌が扉の縁を一瞬だけ押す。押す力は弱い。弱いのは、強さの証であることを、彼は今朝学んだ。


 夜更け。爆ぜる音は二度、三度と間引かれ、やがて遠くの鴉の声と区別がつかないほど小さくなった。黒檀の紋章は二面で確認され、一面は雨に薄められ、一面は兵の縄に踏まれて歪んだ。物語の刃は、今日だけは鈍った。鈍った刃は、明日また研がれるかもしれない。だが、今日の鈍さが、誰かの命を滑らせた。


 医務室の床は、割れた瓶の破片がない。学習の成果だ。割らないで済ませる片付け方を、皆が覚えた。湯はぬるく、置き水は二杯分、窓辺に置かれている。外の風は冷えて、窓は半分だけ開いている。半分というのは、夜のやり方をよく知っている数字だ。


 ふっと、扉の下を紙片が滑った。拾い上げると、ルーメンの細い字。「『黒檀の紋章、偽装の手口八割。両陣営の過激派二割。混ぜ物。明朝、数字と噂の縫合を』」。セレスは小さく笑い、紙片を『橋の庭』の草案の末尾に挟む。ルーメンは毒を薄めながら、噂をも薄める術を覚えた。


 深夜。人の流れは細くなり、寝台の呼吸は深くなり、窓の外で旗が一度、乾いた音を立てる。セレスは机の前に座り、名簿のページをめくる。今日一日で仮名が二つ、本名が一つ、帰らぬ名が一つ。帰らぬ名の欄には、小さな点。点は終わりの印ではない。痛みの印。点が並べば線になる。線は道になる。——未完の誓いが、道の上で待っている。


 月が雲の薄いところを通り、医務室の床に四角い白を落とす。白の中に、二人の影が半分入る。半分だけ。さっきの庭の影の続きだ。続きが、ここに流れ込んできた。セレスは指でその影の端をなぞり、声に出さずに言う——「続ける」。続けるために、未完のままでいる誓いがある。完璧な誓いは、折れる。未完の誓いは、伸びる。伸びるものは、結べる。


 扉の外、城壁の上で、アレクシスは風の匂いを確かめていた。黒檀の象徴は、物語のための灯りに過ぎない。灯りの向こうに人がいる。人の向こうに息がある。息の向こうに名がある。——彼は外套の襟を指で弾き、ポケットの内側に滑り込ませた紙片を確かめる。「『あの夜の治癒師へ ありがとう。あの夜の俺へ 戻ってこい』」。紙片はまだ温かい。温かい紙は、夜の間に冷える。それでいい。朝にまた温め直す。


 東の空が少しだけ白むころ、爆ぜる音は完全に止み、黒檀の紋章は雨に薄まって地の色へ戻った。戻った色は、のちの誰かが上から別の色を塗るだろう。塗り重ねた色の下に、今夜の記憶が残る。残る記憶は、いつかの誓いの布に縫いこまれる。


 セレスは最後の巡回を終えて、窓辺の置き水を見た。湯気は薄く、それでも消えてはいない。彼女は茶碗を両手で包み、窓の外の半分の月に、小さく頭を下げた。月は返事をしない。返事をしないものに、頭を下げるのが、人の儀式だ。


 甘い一幕は破られた。それでも甘さは残った。舌には残らず、骨に残った。骨に残る甘さは、朝の歩幅を半分だけ広げる。広げられた半分の歩幅が、今日という日の最初の救いになる。救いは大きくなくていい。小さくて、長持ちするほうがいい。


 第一幕の到達点は“未完の誓い”として胸に残る。

 未完の誓いは、次の夜へ渡すための糸になる。

 糸は細い。だが、細い糸ほど、深く縫える。


 そして、二人はまた歩き出す。

 王冠は重く、指は温かく、鈴は鳴らず、湯は湧き、噂は薄まり、名は呼ばれ、返事は時に遅れ、時に早い。

 どちらでも、いい。

 未完である限り、続けられる。

 続けられる限り、救いになる。

 救いがある限り、黒檀の刃は、象徴でしかない。


 夜の終わり、城の旗が一度だけ高く鳴った。鳴り終わるまでの短い時間、風は王冠の上を通り、白衣の裾を撫で、看板の油に光を返した。看板の端がごくわずかに浮き、釘がそれを受け止める。釘は古いが、抜けない。抜けないのは、昨日、彼女が指で確かめ、軽く叩いたからだ。今日も、それを繰り返す。繰り返すことが、誓いを日常へ移す唯一のやり方だから。


 月はまだ半分。半分で十分。

 半分の光で、半分の影を、二人は分け合う。

 残りの半分は、明日に預ける。

 預ける、というのは、信じるの親戚だ。

 親戚は、血だけではできない。

 選ぶと、できる。


 未完の誓いは、選び続けるためにある。

 未完である限り、ふたりは、王と治癒師であり続ける。

 そして、時々——ただの人になる。

 それで、いい。

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