七輪の煙
秋の夕暮れ、狭いアパートのベランダに七輪を置き、男はサンマを焼いていた。
網の上で脂がはじけ、煙が濃い灰色になって上がっていく。
その匂いは、遠い田舎での家族の団らんを思い出させた。父も母もまだ若く、笑い声が絶えなかった頃のことを。
けれど実家はもうなく、両親もとっくにこの世にはいない。
煙に目を細めながら男は、ふと気づいた。
ベランダの柵越しに、誰かがこちらを見ている。
隣室のはずれ、暗い影の中に顔が浮かんでいた。
見覚えのない隣人――いや、それは父に似ていた。
慌てて目をこすった瞬間、影は消えた。
だが、七輪の火は妙に勢いを増し、サンマの腹からは白い煙が絶え間なく立ち上っている。
その煙はただの匂いではなかった。
甘く焦げた脂のにおいに混じって、誰かの声がする。
耳を澄ますと、それは母の囁きだった。
「……食べなさい。冷めないうちに……」
思わずベランダの床に手をついた。指先に冷たい湿り気を感じる。見下ろすと、コンクリートは水ではなく、灰色のすすで濡れていた。
いつのまにか煙が床に溜まり、薄い水面のように波打っている。
背後で物音がした。部屋の中だ。
振り返ると、窓を閉めていたはずなのに、白いもやが部屋の奥にまで流れ込んでいた。
壁に掛けた時計がくぐもった音を立て、針が震えて止まっている。
「ただいま……」
声がした。
父の声だった。確かに聞き覚えがある。
だが姿は見えない。煙の向こうで、人影がゆっくりと立ち上がる。
七輪の上を見下ろすと、網の上にはサンマではなく、黒く焼け焦げた何かが並んでいた。
それは人の手であり、顔であり、笑っている口だった。
脂がしたたり、じゅうじゅうと音を立てる。
「……おかえり」
今度は母の声が、煙に包まれた部屋の隅から響いた。
男は立ち上がろうとしたが、膝が動かない。
胸いっぱいに煙を吸い込み、視界が滲んでいく。
――ああ、あの頃の食卓に戻れるのかもしれない。
朦朧とする意識の中で、そう思った瞬間、網の上から黒い手が伸び、男の腕をつかんだ。
七輪の火は赤々と燃え盛り、煙は部屋中を埋め尽くした。
翌朝、隣人がベランダを見上げると、そこには冷めきった七輪だけが残されていた。
網の上には、焦げついたサンマの骨――そして、見慣れない指輪をはめた白い指が一本、灰の中に紛れ込んでいた。
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