見えない乗客
終電間際、ガラガラの各駅停車に乗り込んだ。
車内にいたのは、くたびれたスーツ姿のサラリーマンと、制服のまま居眠りしている女子高生、そして俺の三人だけだった。
座席に腰を下ろすと、車内は妙に湿った空気に包まれていることに気づいた。夏の終わりの夜だというのに、窓ガラスは白く曇っている。冷房が効いているはずなのに、どこか生ぬるい。
発車してしばらくすると、ドアが「カチリ」と鳴った。
駅でもない、線路の真ん中で。反射的に視線を向けたが、ドアは閉じたまま動いていない。けれど、その直後だった。
網棚が、ゆっくり沈んだ。
まるで重たい荷物を置かれたように。
サラリーマンは気づいているはずなのに、わざとスマホを見続けている。女子高生は、眠ったふりをやめて、ぎゅっと目を閉じていた。つまり、二人とも「それ」が何かを知っているのだ。
車両は終点に向かって進む。
やがてアナウンスが流れた。「次は、終点です」
その瞬間、網棚が大きく沈み込み、天井の注意ステッカーがぴしりと裂けた。
見えない何かが立ち上がったのだ。
背後に圧迫感が広がる。座席の隙間から、冷たい指先のようなものが足首をかすめた。思わず身を縮めた俺の耳に、ささやき声が届いた。
「……降りるの?」
振り向けば、声の主を見てしまうと直感した。
電車が停まり、ドアが開く。女子高生が俺の袖をつかみ、小声で言った。
「降りたら絶対に振り返らないで。誰も降りてないはずだから」
俺たちは三人並んでホームへ出た。だが背中に、ぎゅうぎゅうと人の肩がぶつかってくる感触が続いた。
ガラガラのはずの車両から、無数の見えない人影が押し出されてくるように。
改札までの通路で、サラリーマンが小さく呟いた。
「……あいつらは、この終電にしか乗らないんだよ」
振り返る勇気はなかった。
ただ一つ確かに分かっているのは――俺の肩を押していたのは、人間の温かさではなく、氷のように冷えた存在だった、ということだけだ。
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