深夜零時の公衆電話

 深夜、都心から外れた住宅街の一角に、誰も使わなくなった公衆電話がひっそりと立っている。緑色のボックス型。曇りガラスは内側から拭かれることもなく、外灯の光を受けて白く濁った四角い箱のように浮かんでいた。携帯電話が普及して久しい今、その存在はただの時代遅れの残骸にしか見えないはずだった。


 だが、そこには妙な噂が絶えなかった。


 夜の零時を過ぎると、受話器が勝手に外れている。通りがかった者が耳を寄せると、雑音混じりの「声」が聞こえてくるという。それは誰に宛てられたものかわからず、男とも女ともつかぬ低い囁きで、時にははっきりと人の名前を呼ぶらしい。しかもその名前は、聞いている本人の知人のものなのだという。もしそのまま受話器を置かずにいると、次は自分の名前が呼ばれる。そして翌日、必ず不幸が訪れる──そんな怪談めいた話だ。


 大学三年の夏。

 地方から上京して一人暮らしをしていた俺は、ゼミ仲間と飲んだ帰りにその電話ボックスを見つけた。住宅街へ抜ける道の角に、場違いなほど古びて残っている。時刻は午前一時を回っていた。


「ここがそうらしいぞ」


 一緒にいたのは友人の田口だ。彼は怪談好きで、肝試しの類をやたらと提案してくる。酔いも手伝い、俺たちはその電話ボックスの前に立っていた。


 曇りガラス越しに、中の受話器が床に垂れているのが見えた。まるで誰かがついさっきまで使っていたかのように。


「……マジかよ」


 俺は鳥肌が立った。偶然かもしれないが、深夜に公衆電話の受話器が外れている光景は異様だ。だが田口は楽しげに笑い、先にドアを開けて中に入った。湿った空気が吐き出される。


「ほら、噂どおりだな。ちょっと聞いてみろよ」


 彼は受話器を持ち上げ、耳に当てた。しばらく黙っていたが、次の瞬間、顔色を変えて俺を見た。


「……お前の名前、呼ばれたぞ」


「嘘つけ」


「いや、本当だ。今、確かに『ユウスケ』って──」


 俺の名を口にした瞬間、受話器から「ジリッ」というノイズが響いた。田口は慌てて受話器をフックに戻した。だが、置いたはずなのに受話器は勝手に外れて床に落ちた。ドサリという重い音。俺は背筋を凍らせた。


 酔いも吹き飛び、二人とも顔を見合わせる。冗談にしては出来すぎている。俺は無理やり笑おうとしたが、口元が引きつるだけだった。


「帰ろう」


 それだけ言い捨てて、その場を立ち去った。


 翌日、大学へ行く途中、俺は奇妙な違和感に襲われた。視線を感じるのだ。人通りの多い駅のホームでも、講義室でも。背後から誰かにじっと見られているような感覚が離れない。気のせいだと自分に言い聞かせながらも、首筋の産毛が逆立って仕方がなかった。


 夜、アパートに帰るとポストに白い封筒が入っていた。宛名も差出人もない。開けてみると、中にはただ一枚の紙切れ。


《次はお前の番だ》


 黒いボールペンで乱雑に書かれた文字。手が震えた。田口の悪ふざけだろうか。だが、俺が住所を教えた覚えはない。大学の名簿を調べればわかるかもしれないが、こんな陰湿な真似をするだろうか?


 胸騒ぎを覚えながら、俺は紙を引き裂きゴミ箱に投げ捨てた。


 三日後、田口が事故に遭った。


 ゼミが終わったあと、駅の階段から転落したのだ。幸い命に別状はなかったが、足を複雑骨折し、全治数か月の大怪我だった。ニュースを聞いたとき、あの電話ボックスでの出来事が蘇った。俺の名前が呼ばれたのに、なぜ田口が──?


 病室を訪ねると、田口は青ざめた顔で呟いた。


「俺……あの日、聞いたんだよ。お前の名前の後に、もう一人呼ばれてた」


「誰を?」


「……俺だ」


 全身に寒気が走った。

 じゃあ次は、やはり俺の番なのか。


 それからの日々、俺は恐怖に苛まれた。何をしていても落ち着かない。夜になると必ず夢にあの電話ボックスが現れる。曇ったガラス越しに、受話器がぶら下がって揺れている。耳に当てると、誰かの呻くような声がする。目を覚ますと汗で全身が濡れている。心臓は暴れ、眠ることができなくなった。


 限界を感じた俺は、直接確かめるしかないと決めた。あの電話ボックスに、もう一度行くしかない。そうでなければこの呪縛から逃れられない。


 深夜零時を過ぎ、俺はひとりで電話ボックスに向かった。人気のない路地は不気味なほど静まり返っている。遠くで犬の遠吠えが聞こえた。ボックスは以前と変わらず、そこにあった。受話器はやはり外れて床に垂れている。


 震える手でドアを開け、中に入った。埃と鉄の匂い。受話器を拾い上げ、耳に当てた。


 ザー……ザー……と、ノイズが鳴る。心臓が跳ねる。次の瞬間、耳元に低い声が響いた。


「……ユウスケ……」


 俺の名前だ。息が詰まる。さらに続いて別の声が重なる。


「……お前の後ろだ……」


 反射的に振り返った。ガラスの外には誰もいない。だが受話器から、笑い声が漏れた。男女の区別もつかない、くぐもった笑い。


 その瞬間、背後から冷たい手が肩に触れた。悲鳴を上げて振り返る。しかし誰もいない。恐怖に駆られ、受話器を放り投げて外に飛び出した。


 翌日から、俺の身の回りで奇妙な出来事が続いた。

 目覚まし時計が午前0時ちょうどに止まる。机の上に置いたはずのノートが消え、ゴミ箱から破かれたページが見つかる。夜、携帯に非通知の着信が何度もあり、出ても無言。耳を澄ますと、かすかにザー……という音が聞こえる。


 そして決定的だったのは、大学からの帰り道。すれ違った見知らぬ中年男が、俺をじっと見ながら囁いたのだ。


「次はお前の番だ」


 言葉を失い、振り返ったが男の姿はもうなかった。


 俺は追い詰められていった。食事ものどを通らず、夜も眠れない。誰かに相談しようにも、信じてもらえないだろう。田口ですら事故に遭った今、頼れる人間はいない。


 ある晩、意を決して図書館で都市伝説や民俗学の本を漁った。そこで見つけたのは「死者の呼び声」と呼ばれる民間伝承だった。古くから、境界に立つ電話や鐘、あるいは鏡の中から死者が名を呼ぶという話が各地に残っている。名を呼ばれ応じてしまうと、命を奪われるのだという。


 公衆電話は、今や使われなくなった「死の器」だ。誰も使わぬ回線は虚空へと繋がり、そこから呼び声が響いてくる──そんな解釈が書かれていた。読み進めるほどに、俺の身に起きた出来事と重なっていった。


 そして八月の終わり。

 俺は決意した。逃げても無駄だ。ならば向き合うしかない。呼ばれる前に、自分から答えてやるのだ。そうすれば呪縛が解けるのではないか。狂気じみた考えだと自分でも思う。それでも、もはや選択肢はそれしかなかった。


 深夜、再び電話ボックスに入る。受話器を掴み、強く耳に押し当てた。


「聞こえるか。俺だ。ユウスケだ」


 しばし沈黙が続いた。やがてノイズの奥から、複数の声が重なって囁いた。


「……ようこそ……こちらへ……」


 足元から冷気が這い上がる。ガラスの外の街灯が一瞬、暗くなった。受話器を通じて、無数の手が俺を引きずり込もうとしているような感覚。必死で抗おうとしたが、体は凍りついたように動かなかった。


 最後に聞こえたのは、自分自身の声だった。


「次はお前の番だ」


 そこで、意識が途切れた。


 翌朝、通勤途中のサラリーマンがその電話ボックスを通りかかった。受話器は床に落ち、ガラスは内側からびっしりと曇っている。だが誰もいない。ボックスの中には、落ちているはずのない学生証だけが残されていた。


 名前欄には、はっきりと「森田悠介」と記されていた。


 その日を境に、再び噂が広まった。

 ──あの電話ボックスの受話器を耳に当てると、見知らぬ学生の声でこう囁かれるのだという。


「次は、お前の番だ」

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