余白のある通信簿

最初の違和感は、朝礼のときの並び順だった。

身長順で二列。わたしの前に、絵里の黒い髪がある。光を飲むみたいに艶があって、襟足の小さなほくろまで、覚えのある形をしていた。


「三年二組、起立」


木の床が鳴り、スニーカーの底がいっせいに擦れる。絵里は振り返って、いつもの角度で笑った。犬歯が少し長い。そう、ここまではいつもどおり——のはず、なのに。


わたしは知っている。駅裏の遊歩道で、見知らぬ男に襲われ、乱暴されたあと、絵里が命を奪われたことを。

葬儀の斎場で、わたしは一礼して香を一つまみ、合掌。形だけを終えると、すぐに列へ戻った。白い菊の匂い。大人たちの喪服の黒い波の中で、わたしは自分の夏服の薄い襟の硬さを指先で確かめた。遺影にかかった黒いリボン。会葬礼状の紙の手ざわり。全部、確かにあった。


——なのに、誰も覚えていない。

担任は「明日の委員会、忘れないように」と言い、校内放送は「熱中症に注意」とだけ告げた。グループラインに訃報は一度も流れていない。校門脇に花束も、蝋の跡もない。

絵里は十三番で返事をし、配られたプリントを前から後ろへ回した。袖口が、ほんの少しだけ湿っている。晴れの日なのに、手首から消毒液のような匂いがした。


「——どうしたの、遥(はるか)。顔、こわい」


休み時間、絵里が机に顎をのせる。

言葉が喉の途中でつかえる。葬儀の映像を探して昨夜スマホを遡ったけれど、そこには花火の写真しか残っていなかった。代わりに、机の引き出しの奥の会葬礼状だけは、今も斜めの黒線を保っている。わたしにしか触れない硝子みたいに。


「夏休み、どこか行った?」と、わたしは無難な問いを出す。


「いつもどおり。家でだらだら。宿題は半分だけ」


いつもどおりの間。けれど、その“いつもどおり”は、縫い直しの目がひとつ飛んだまま続いているように見える。


放課後、二人で帰る道は、自然と駅裏の遊歩道へ曲がった。

何もなかったみたいに、植え込みは手入れされ、ベンチの塗装は新しく、注意喚起の張り紙は地域清掃の日程に置き換わっていた。わたしの中だけで、空気が冷たく沈む。


「ここ、前より明るくなったね」


絵里はベンチの背もたれに寄りかかる。布に、わずかな湿り気の輪が広がる。

わたしは植え込みの影を覗き込む。あの日の色は、どこにも残っていない。


「絵里」


呼ぶと、彼女は首を傾げる。

わたしは言うべきか迷い、言葉を選び直す。


「ここ、嫌じゃないの」


絵里は少し考えて、かすかに笑った。


「遥には、見えるんだね」


「なにが?」


「違和感。世界に残った、ほどけかけの縫い目」


その言い方に、胸の奥がざわめく。


「みんなは、見えないみたい。だから、いつもどおりでいられる。いられすぎるくらい。——それ、いいことなんだと思うよ。でも」


「でも?」


「誰か一人は、覚えていてくれないと。なかったことになるのは、なくなってしまうより、ずっと怖い」


わたしは息をのみ、視線を落とす。ベンチの足元に、透明な点がひとつ落ちて、すぐ乾いた。


「どうして——どうして、絵里はここにいるの」


問いは震える。

絵里は、遠くを見たまま答える。


「終わらないため。終わったことにされないため。

わたしが“いなかったこと”になっていく世界と、遥の“いた”のあいだで、ほどけかけの糸を指で押さえるみたいに、とどまってる」


「いつまで?」


「決めない。決めさせない」


わたしはうなずいた。合図のように、風が植え込みを鳴らす。

帰り際、コンビニでアイスを二本買うと、レジはピッと二回鳴った。店員さんは目を上げずに「ありがとうございました」。わたしの手の一本は、冷たい重みを保ったまま、いつのまにか半分だけ短くなった。


それからの日々、絵里はとどまった。

体育では見学届を出し、図書室では棚のいちばん下から埃っぽい全集を引き抜き、家庭科で針を指に刺しそうになって笑い、帰り道には「寄り道禁止ね」と言いながら、わたしを遊歩道へ誘う。

世界は彼女を生きている人として扱い続け、わたしだけが別の一枚を上から重ねて持っている感触に慣れていった。


ある晩、わたしは机の引き出しを開け、会葬礼状を取り出した。紙の角はひどく柔らかい。母に見せると、「それ、PTAの回覧?」と首をかしげた。母の目には、たぶんただの白紙に見えているのだ。

部屋に戻って、礼状の裏に小さく日付を書いた。八月某日。鉛筆で。消せるように。翌朝、出席簿の彼女の名前の横に、同じ日付を点のように打って、消しゴムでそっと曖昧にした。

“あった”を“あったかもしれない”にする。世界の濁りと同じ濃さに合わせる。


「ねえ、遥」


理科室の窓辺で、絵里が言う。アルコールの匂いが、風にほどける。


「このままでも、いい?」


「いいよ」


「いつまで?」


「決めない。決めさせない。——でしょ?」


絵里は笑う。目尻に、薄いひびのような光が走る。

痣はどこにも見えない。でも、消毒液の匂いだけは、日によって濃くなったり薄くなったりした。晴れの日に縫い目は目立ち、雨の日には目立たない。わたしたちは、見える日と見えない日を交互に歩いた。


九月。運動会の係分担が貼り出され、午前の空気が軽くなる。

出席簿の端の小さな点は、日に日に薄くなった。ある日、わたしはその上から、少し濃い鉛筆で「つづき」と書いて、すぐに消した。跡だけが、紙の凹みとして残る。


駅裏のベンチは新しい塗装の匂いがした。わたしたちはそこを通り抜けるたび、立ち止まらない。


「終わらせないって、こういうことだよ」と絵里が言う。


「うん」


「わたしがいないことに慣れる前に、わたしがいることを当たり前にするの。遥が見てくれるから、できる」


わたしはうなずく。見続けることは、勇気というより、呼吸に近い。

生きているあいだずっとやってきたことを、これからも続けるだけだ。笑って、だらだらして、くだらない話をして、宿題を半分残して。あの夜、見知らぬ男が触れた場所を、別の時間で上書きしない。ただ、別の線を少しずつ増やして、縫い目を強くする。


夜、スマホのメモ帳に「終わり」と打って、保存せずに画面を閉じた。代わりに新しいメモに「つづき」と一文字。

翌朝、角で待っていると、絵里が来た。髪は艶があり、犬歯は少し長く、手首は冷たかった。冷たいけれど、確かだった。


違和感は、生活の形になった。

わたしは毎朝、仮止めのクリップを増やすみたいに、絵里のいる一日をとめていく。世界の出席簿では、彼女は最初から出席の列にいる。

絵里は消えない。とどまる。わたしも、消さない。とどまらせる。


そして、明日もまた、二人で歩く。校門をくぐり、日直の字を見て、黒板の粉を払う。ほどけかけの縫い目を、指先でそっと押さえながら。

首筋にふれる夏服の薄い襟が、少しだけ心強かった。

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