台所の皮
夜、歯を磨いて寝室へ戻ろうとしたとき、ふと台所から水音がした。ぽたり、ぽたり、と雫が落ちるような響き。誰もいないはずの家で、蛇口を閉め忘れたのかと立ち寄った。だが水滴は落ちていない。シンクは乾いていた。
背筋に、妙な冷気が這い上がった。だがそのときは、ただの勘違いだと片づけて布団に潜り込んだ。
翌晩も同じだった。
夜更け、寝返りを打つと、また耳に「ちょろ、ちょろ」と流れるような音が忍び込んでくる。確かめに行くと、水は止まっている。蛇口をひねっても一滴も出ない。
ただ、床に何か落ちていた。白っぽい、薄い、ぬめりのあるもの。拾い上げてみると──それは鶏肉の皮だった。夕食に使ったはずのもの。確かにまな板で切り落とし、生ゴミに捨てたはずだった。
なのにどうして、台所ではなく、畳の上にあるのか。
喉の奥がひりついた。自分で落としたのか、ゴミ袋からこぼれたのか。考えれば説明できそうで、しかし説明のつかない違和感が残る。仕方なくビニール袋に入れて処分し、再び寝室に戻った。
だが、その夜は眠れなかった。
「夜、台所から水の音がする。
家には自分しかいないのに、誰かがゆっくりと手を洗っている。
蛇口を閉めると、すぐ背後で『ぬるり』と濡れた手のひらが畳を這う。
振り返ると、何もいない。
ただ、そこに落ちているのは、自分が夕食に使ったはずの鶏肉の皮。
どうして皿ではなく、畳の上に──。
その夜から、眠るたびに『皮』が増えていった。
自分の体から剥がされたような、見覚えのある色と匂いで。
朝になると、台所の隅で小さな声が囁く。
『まだ残ってる、まだ残ってる』」
これは夢だったのか、現実だったのか。
気づけば朝になっていて、私は汗でぐっしょり濡れていた。布団に染みた汗は、ただの水分ではなかった。脂の匂いがした。鶏皮を焼いたときに漂う、あの匂いだ。
恐る恐る掛け布団をめくると、胸のあたりに透明な薄皮が張り付いていた。ぺたりと、まるで誰かが貼りつけたかのように。
それからの日々は、説明のつかない不快な出来事が重なった。
冷蔵庫を開ければ、保存容器の中に皮ばかりが増えている。料理をしても、肉が消えて皮だけ残る。まな板の上、排水口、食器棚の隅、どこを探しても同じものが落ちている。
ある晩、我慢できずに声をあげた。
「やめろ!」
誰に向けたのか、自分でもわからなかった。ただ叫んだ。
その瞬間、背後からぞわりと気配が寄せてきた。畳を這う湿った音、ぬらりとした質感。振り返る勇気はなかった。
翌朝、部屋の隅には山のように皮が積もっていた。色はさまざま、白っぽいもの、黄ばんだもの、赤黒いもの。そのどれもが生ぬるく、しめった匂いを放っている。私は吐き気を堪えながらゴミ袋に詰め込んだ。袋は三つになった。
ゴミ収集車が持っていったあとも、台所には脂の匂いが残っていた。
ある夜、夢を見た。
台所で水音がして、私は足を引きずるように向かう。暗がりの中、流しの前に人影が立っている。痩せ細った背中、ぶよぶよに垂れ下がった皮膚。誰かが皮を剥ぎ取られたまま立っているのだと直感した。
振り向いた顔は、私自身だった。
皮のない顔で、口を動かし、囁く。
「まだ残ってる、まだ残ってる」
飛び起きたとき、布団の上に自分の手の皮が一枚落ちていた。小指から甲にかけて、すっかり剥がれていた。痛みはなかった。ただ生々しい空気がまとわりついて離れなかった。
それから私は眠らなくなった。眠れば皮を奪われる気がした。
だが人間は眠気には勝てない。数日後、ついに意識を手放した。
目を覚ますと、台所に立っていた。水道から水を出し、両手をゆっくりと洗っていた。蛇口を閉めると、畳の上に「ぬるり」と濡れたものが落ちた。
振り返ると、誰もいない。
ただ、自分の足元に重なり合う皮。白いもの、黄色いもの、赤黒いもの。
その中に、見覚えのある顔の皮があった。鏡で毎日見ていた顔だった。
私は喉を震わせた。声にならなかった。ただ、どこからか小さな声が響いた。
──「もう残ってない、もう残ってない」
そこで意識は途切れた。
今、これを書いているのが夢か現実か、わからない。
キーボードを打つ指が、皮の下でぬめりを帯びているのを感じる。指先にまとわりつく感覚。
もしあなたがこの文章を読んでいるなら、忠告しておきたい。
夜中に台所から水音が聞こえたら、決して確かめてはいけない。
──なぜなら、次はあなたの皮が「まだ残っている」からだ。
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