母の糸
母と二人、坂道を登っていた。
その坂は不自然に長く、どれほど歩いても頂が見えなかった。黙々と前を歩く母の背中を追いながら、私は自分の呼吸の荒さばかりを気にしていた。
母は、私の結婚相手を嫌っている。頑ななまでに、認めようとしない。理由を問えば「直感」と答えるだけだ。根拠のない拒絶。それでも母の声には、妙に抗えない力があった。
子どもの頃からそうだった。
——母は器用な人だった。
寒い冬の日、母の編んでくれた桃色のマフラーを巻いて登校したことを覚えている。学校でからかわれたが、母が自分のために時間をかけて編んでくれたことが、ただ嬉しかった。あのときの首元の温かさは、いまも記憶に残っている。
だが、成長するにつれ、その毛糸のような温もりは、次第に窮屈な縄に変わった。
門限を破れば叱責され、交友関係を詮索され、将来の選択にも口を出された。「お前のためを思って」という言葉は、首にかけられた柔らかな輪と同じだった。見た目は優しいが、息を詰まらせるほどにきつく結ばれていた。
だから、母が彼を否定したときも、私は反射的に反抗したのだ。
「彼は私を大切にしてくれる」と。
しかし母は首を横に振り、静かに告げた。「あの人と一緒になれば、不幸になる」と。
その声は、未来を予言する呪文のようで、心に棘を残した。
そんな母と、今こうして並んで坂を登っている。理由はわからない。ただ、歩かされているような感覚だけがあった。
やがて、鬱蒼とした茂みにたどり着いた。空気が変わった。そこだけ、音がなく、風もなく、世界から切り離されたような沈黙に満ちていた。
枝から白いものが吊るされている。
近づくと、それが六匹のミンクだとわかった。
息をのむ。
毛並みは雪のように白く、その首には桃色の毛糸が巻かれていた。編み目の粗い輪が、首を食い込み、命を奪っている。五匹はすでにぐったりと力を失い、ただの白い塊となって風に揺れていた。
ただ、一匹だけ。
まだ生きていた。胸がわずかに上下している。
目にした瞬間、心臓が冷たくつかまれたように縮んだ。
私は、あのマフラーを思い出した。母の指先が毛糸を編み込んでいく光景。膝に毛玉を抱え、無言で編み針を動かす背中。そこには確かに「愛」があった。だが同時に、それは私を縛る「呪い」でもあった。
ミンクの首に食い込む毛糸は、その愛と呪いの二重写しに見えた。
——この獣たちは、母に愛された私自身なのではないか。
そんな思いが、ぞわりと背筋を走った。
私は衝動のように、その一匹へ手を伸ばした。毛糸に指が触れたとたん、ぬくもりが蘇る。やさしさに似た温かさ。だが同時に、喉を締めつける圧迫感。矛盾する感覚が指先に絡みつき、吐き気に似た感情が込み上げた。
——愛している。だが、憎んでもいる。
母に向けた思いそのものが、この毛糸に編み込まれている。
震える手でほどくと、輪はするりと解け、地面に落ちた。
するとどうだろう。桃色の毛糸は黒ずみ、まるで血を吸ったようにじわじわと染みを広げていった。
解放されたミンクは、ひゅう、と弱い息を吐いた。瞳が濁りながらも、かすかに光を宿してこちらを見た。それは感謝にも怨嗟にも見えた。
そのとき、背後で母の声がした。
「助けてはいけないものを、助けたのよ」
振り返ることはできなかった。
視界の端で、地面に落ちた毛糸がわずかに震えている。心臓の鼓動に合わせて脈打つように。
気づけば、その毛糸は私の足首に結ばれていた。
見覚えのある結び目。幼いころ、母がマフラーの端を結んでくれたときと同じ結び方だった。
呼吸が止まった。
愛は温もりだった。けれど、愛は縄でもあった。
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