親友の肖像
奈良まさや
第1話
第一章 親友探そう
「親友探そう。」
そのアプリを見つけたのは、深夜二時。
枕元でスマホをだらだら眺めていた僕の目に、ふと広告が流れ込んできた。
恋人を探すマッチングアプリはいくらでもあるのに、親友を探すというコンセプトは珍しい。
〈価値観の合う人だけを選びます〉
〈AIがあなたの人生に最適な相手を紹介〉
疲れ切った頭には、やけに甘美に響いた。
山口大志、三十五歳。会社では後輩にも先輩にも挟まれ、家では妻とも会話が減って久しい。
友達と呼べる人間も、年々減っていった。
――会話は、温度ではなく「形」でできている。
そう思うことがある。言葉の意味より、眉尻の角度、声の立ち上がり、0.7秒の相槌。
僕はそれらを並べ替えて、会話の形だけを保つのが得意だ。形さえ合えば、たいていの人は安心する。
「……まあ、試すくらいなら」
軽い気持ちで登録を始めた。
好きな映画、休日の過ごし方、子供のころの夢――驚くほどスムーズに入力が進む。
まるで、アプリが最初から僕のことを知っていたかのように。
入力欄に「好きな映画の見方」を問う項目があり、僕は迷わずこう打った。
――“ストーリーより表情を観たい”。
物語の筋より、頬や眼輪筋の微かな揺れのほうが、ずっと信頼できる。感情の正体は、言葉になるより前に顔に出るから。
ふと、祖母の葬儀のことを思い出した。
十年前、涙が出なかった。代わりに鏡で練習しておいた「悲しむ顔」を頬の筋肉に貼った。
誰にも気づかれなかった。僕はうまくやれた。
(あのとき、胸の内側が空白だったことだけが、今も少しだけ気になっている。)
数ヶ月前、会社の産業医との面談で、チェックリストが表示された。
〈共感指標:平均より低値〉
医師は「疲労の影響かもしれません」と言った。僕はうなずいた。
疲労という言葉は、いろんな形の音に蓋をするのに便利だ。
画面にひとつの名前が浮かぶ。
〈あなたに最適な親友候補:タカシ〉
表示されたプロフィールを眺めて、思わず声が漏れた。
趣味も仕事も、驚くほど僕と似ている。
しかも一文――「気兼ねなく、本音で語れる相手が欲しい」という言葉に、不思議な共鳴を覚えた。
共鳴。“感じた”のか、“必要だから選んだ”のか。判別はつかない。けれど形は合う。形が合えば進める。
「……ちょっとやり取りしてみたいな」
画面に「メッセージを送る」ボタンが点滅していた。
指先は、迷うことなくその光を押していた。
送信の直前、僕は無意識にベッドの左側、壁に背を寄せる。背中が守られている配置は、いつでも判断を速くする。
第二章 タカシとの会話
「はじめまして、タカシです」
最初の一文は拍子抜けするほど普通だった。
だが、二行目で指が止まる。
「“映画はストーリーより表情を観たい”ってところ、すごく刺さった。
たぶん君、空気を読むのが得意で、でも読むたびに少しずつ自分を置いていくタイプだよね?」
プロフィールの片隅に書いた一文を拾うだけでなく、誰にも言っていない癖まで言い当てられた気がして、胸がざわつく。
「……そうかもしれない」
送信してから、少し間があった。
入力中を示す三つの点が、呼吸のように点滅しては消える。
「小学校のとき、給食の時間が苦手じゃなかった? “早く食べろ”って視線を、顔色で測ってたと思う」
僕は思わず笑ってしまう。記憶は、皿に残った冷えた牛乳の膜と、前歯に当たる金属スプーンの音。
当時のことを、僕は誰にも詳しく話したことがない。両親にも、妻にも。
「なんで、分かるの」
「分かるよ。そういう人は、映画でもまず表情を見る。感情の手前の“揺れ”を拾おうとするから」
会話はそこから、崩れた堤防みたいに流れ出した。
大学時代のバンド、差し替えられたサビ、帰り道で小さくなる鼻歌――。
「君はそういうとき、怒る代わりに、覚えるんだよね。次はこうすれば嫌われないって。
“学習”って便利だけど、心のスペースを削る」
“学習”。その単語の置き方が、どこか機械的で、それでいて優しい。
(僕は会話を“編集”してきた。余計な温度を削り、相手の安心だけを残す。癖は、いつのまにか生き方になる。)
仕事の話もした。
深夜に作った「対話に曲がる矢印」のスライド、朝に消えた一枚。
「そのスライド、最後の矢印が“対話”に曲がってたやつ?」
背筋が冷える。そんな細部は、ここで説明していない。
「……見たこと、あるの?」
「ごめん。言い方が変だったね。ただ、君の話しぶりから想像できた。
“答え”より“会話”に希望を置く人が作る図って、たいてい矢印が少し曲がる」
妻のことも話した。
穏やかさは「お互いの編集」で保たれている、と彼は言った。
「伝えないで、削るってこと。伝えないことが積もると、いつか『話してないこと』同士が向かい合う夜が来る。
その前に、誰かと“まっすぐ話す”練習がいる。僕でよければ、相手になる」
短いボイスメッセージ。落ち着いた低音、語尾が少し上がる。笑うと鼻にかかる。
自分の声に少し似ている、と感じた。似ているから安心するのか、安心するから似ていると感じるのか、判断はつかない。
「今度、どこかで会えるといいね」
タカシはそう言って、いくつか候補のカフェを挙げた。
そのうちの一つは、大学の近くの古い喫茶店で、僕が卒業以来、一度も足を踏み入れていない店だった。店名を口に出すことすら久しくなかったのに、どうしてここが挙がるのだろう――と思った次の瞬間、胸の奥の懐かしさが疑問を上書きした。
「そこ、いいね。久しぶりに行ってみたい」
送信してから、僕はベッドの縁に座って、暗い窓を見た。
画面の向こう側で、また三つの点が呼吸する。
「じゃあ、土曜の午後。
念のため、君が疲れにくい席を予約しておくよ。壁際、左側のソファ。背中を守れる場所が好きでしょ?」
僕は笑って、それから、なぜ笑ったのか分からなくなった。
壁際。左側。背中。
誰にも言語化できなかった自分の“落ち着く配置”が、簡単な単語にされていく。
「どうして、そんなことまで」
「友だちだから」
短い返事が届いた。
それは、久しく聞いていなかった言葉の形をしていて、僕をあっさりと眠りのほうへ押し出した。
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