第二幕 パンのかけら
夜は冷たく、石畳の隙間から吹き抜ける風が笛のように鳴っていた。
その風は少年の痩せた足をすくむようにまとわりつき、走るたびに衣の裾を荒々しくはためかせた。
けれど彼は止まらなかった。胸に抱えているのは、わずかなパンのかけら。
硬く乾き、口に含んでも満たされることのない小さな塊。
それなのに彼は、それを握りしめて離せなかった。
自分の空腹を満たすためではない。
理由はわからぬまま、ただ「渡さなければならない」という衝動だけが胸の奥で燃えていた。
屋敷の門の影に、少女はいた。
鉄の鎖に繋がれ、膝を抱えて小さく身を縮めている。
月明かりが雲間からこぼれ、その髪に淡い光を落とす。
冷たい石畳に背を預けた姿は、まるで闇と光の境界に取り残されているかのようだった。
少年は足を止め、しばしその場に立ち尽くした。
声をかけようと唇を開きかけたが、乾いた喉からは何の音も出なかった。
代わりに聞こえてくるのは、自分の荒い呼吸と胸の奥で乱暴に暴れる鼓動の音。
意を決し、彼は一歩、また一歩と近づく。
震える指先で、パンのかけらを差し出した。
少女の瞳がかすかに揺れた。
怯えと戸惑いの影を宿した瞳。だが、その奥でほんの一瞬、星のような光がきらめいた。
細い手がためらいながらも伸ばされ、震えつつもパンを受け取る。
小さくちぎったかけらを唇に運ぶと、少女の頬にわずかな赤みが差した。
やがて唇の端がかすかに震え、微笑みの形を結ぶ。
――笑った。
その笑みは、夜風に消えてしまいそうなほど儚かった。
けれど、確かにそこにあった。
その瞬間、少年の胸を強く、鋭く打ち抜いた。
これまで生きるために繰り返してきた盗み。
それが初めて「誰かのため」に変わったことを、彼はその胸の熱で悟った。
小さなかけらを差し出すことが、これほどまでに心を震わせるのだと。
逃げるように背を向けたときも、耳の奥にはまだ、少女がかすかにパンを噛む音が残っていた。
それは冷たい夜に溶けることなく、少年にとって祈りにも似た響きとなった。
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