第3話 初契約への挑戦
その朝は、いつもより早く目が覚めた。
アラームより前に起きたのなんて、入社初日以来だ。布団の中で天井を見上げながら、胸の奥に残っている違和感の正体を探る。怖さと、期待。三か月分の失敗の重さと、昨日の気づきが拮抗して、心臓の鼓動だけが妙に忙しい。
鏡の前でネクタイを締め直す。
――車を売るんじゃない。自分を売るんだ。
セリア店長の言葉を、胸ポケットの内側に縫い付けるように念じて家を出た。
開店準備のショールームは、いつも通りの喧騒だ。スケルトン整備班が無言で工具を並べ、奥田先輩が声量MAXで朝の冗談を飛ばし(サキバ――いや、先葉先輩に「声が大きい」と眉を寄せられていた)、鬼山課長は来店予定のカルテを無言で捌いている。
俺はデスクに座り、今日のターゲットをリストでなぞる。
中村さん。
見積もりを二度お出しして、そのまま。釣りが趣味で、道具の話になると饒舌になる。俺は電話を取り、深呼吸一つ。
「もしもし、中村さん。ディアブロ・モータースの佐藤です。突然すみません。今週末、もし時間があれば……釣りのお話、もう少し聞かせていただけませんか」
一拍の沈黙の後、低く笑う声が返ってきた。
「営業から釣りの話とは珍しいな。――いいよ、日曜の午後行く」
受話器を置いた瞬間、背中を軽く叩かれた。振り向くと、鬼山課長が仁王立ち。
「アポは“行く理由”を作れ。今のは悪くない」
「ありがとうございます」
「ただし、雑談で終わるな。相手の大事にしてるものを一つ見つけろ。そこだけは外すな」
相手の、大事にしているもの。
頭の中で太字になって残る。
日曜。昼下がりのショールームは家族連れでほどよく賑わっていた。自動ドアが開き、帽子を被った中村さんが入ってくる。今日は釣り仲間らしき男性が一緒だ。
俺は立ち上がって、笑顔を作る。
「こんにちは。お待ちしていました。中村さん、そして……」
「釣り仲間の藤井だ。こいつが“例の営業”、って言うから冷やかしに来た」
「ようこそ。冷やかし大歓迎です。釣りの話を肴に、コーヒーくらいご馳走します」
藤井さんが「口の利き方は合格」と肩を揺らして笑った。
商談ブースへ案内し、湯気の立つ紙コップを置く。すぐにカタログを開きたい指を、意識してテーブルの下で握り締めた。
「この間の写真、見せていただけます?」
中村さんの表情がゆるむ。スマホの中には、朝焼けの湖面と、銀色に光る魚と、ドヤ顔の中村さん。
俺は写真を褒めるだけでなく、撮ったときの空気を聞くことにした。
「どの瞬間が一番気持ちいいですか? 糸を垂らして待つ時間? 引いた瞬間? それとも、帰りのラーメン?」
「はは、分かってるじゃないか。帰りのラーメンは別腹だな。……でも一番は、夜明け前の静けさだ。誰もいない岸辺で、最初の一投。あの空気はたまらん」
言葉の温度が一段上がる。
俺は頷きながら、彼の“好き”の輪郭を頭の中に描いていく。静けさ、朝焼け、最初の一投。大事にしてるのは、瞬間の“余白”だ。
「じゃあ、荷物の話に行ってもいいですか。竿は何本、クーラーボックスは何リットル、いつもは何人で?」
俺はメモ帳を横に置き、指折り数えながら聞き取る。藤井さんも身を乗り出して、釣れた日の武勇伝を重ねてくる。笑いが三回起きたところで、タイミングを見計らって、ようやく車に触れた。
「今回見ていただいてるミニバンなら、竿ケースは斜め積みで二本までいけます。後席を片側だけ倒す“片側フラット”ができるので、釣行帰りに人を乗せるときも楽です。で――」
俺は言葉を区切り、窓の外の空を指した。
冬の陽がガラスに反射し、整備ブースの奥へ伸びている。
「夜明け前の静けさ、分かります。僕もドライブで朝焼けを見るのが好きで。あの、世界が自分だけのものみたいに思える感じ。……中村さんが好きな“余白”って、車の中にも作れると思うんです」
「余白?」
「この車は、走行音が静かで、巡航時は荒れた路面でもビリつかない。夜明けに湖へ向かう道で、窓の向こうが薄青く変わっていくのを、エンジン音に邪魔されずに眺められるはずです。釣れた帰りに、助手席で藤井さんが爆睡してても、きっと、怒らないくらい静かです」
「おい、俺は寝ないぞ」
「いや、あなた絶対寝ますよね」
三人で笑う。
中村さんの目元の皺が、さっきより柔らかい。
「それと、もう一つ。臭いの話をしていいですか」
「おや、急に現実的だな」
「釣行後の車内って、どうしても匂いが残ります。だから、シートの表皮が拭き取りやすいタイプを選んだ方がいい。“好き”を長く好きでいるための仕様を考えたくて」
俺はサンプル生地と簡易クリーナーを持ってきて、コーヒーを一滴垂らし、拭き取りの実演までした。
藤井さんが「芸が細けえ」と笑い、中村さんは「なるほど」と腕を組む。
会話は自然に一時間を超えていた。
カタログは、半分も開いていない。
でも、今日の俺は不安じゃなかった。相手の顔が見えていたからだ。釣りの朝焼けを語る顔、ドヤ顔、友だちを茶化す顔。車のスペックに頷く顔。それらが少しずつ同じ場所に収束していくのを感じていた。
――今、言っていい。
胸の中で、見えない旗が上がる。
「では、中村さん。お見積りはこれまでの内容で一つ。もう一つは、今日話した“余白仕様”で――静粛性重視のタイヤと、拭き取りやすいシート、ラゲッジマットは縁高のタイプ。二案並べます」
「二案?」
「“どれにしますか”より、“どちらにしますか”。釣り人に“行く/行かない”を聞くのは失礼ですから」
言ってから、自分で少し照れた。藤井さんが腹を抱えて笑う。
「こいつ、面白いな」
プリンターが低く唸り、紙が吐き出される。俺は二部の見積もりを横に並べ、ポイントだけ端的に説明する。値引きの話が出る前に、俺は一呼吸置いて、最後のひと言を選んだ。
「――中村さん。車のことは、正直どこで買っても大差ありません。だからこそ言います。僕は、中村さんの“好き”を長持ちさせたい。そのために今日の仕様にしました。よければ、僕に任せてもらえませんか」
沈黙。
ショールームのざわめきが遠のく。壁時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。掌が汗ばむ。喉がからからだ。三か月分の失敗が、喉の奥で鈍くうねった。
中村さんは、見積もりの二枚をゆっくり見比べ、そして俺の顔をじっと見た。
その視線の重さに逃げず、受け止める。
「……佐藤くん」
「はい」
「君から買うよ」
胸の底に、熱が灯る音がした。
紙とペンがこすれる音。署名の文字が伸び、止まる。何度も頭の中で練習した手続きの説明が、今日は妙に遠く感じた。視界の端で、鬼山課長がこっちを一瞥して、小さく親指を立てたのが見えた。
先葉先輩は遠くのブースで微笑んで、軽く会釈。奥田先輩は――でかい背中で「やったな!」と口だけ動かしたあと、なぜか一瞬だけオネエの拍手をして、慌てて拳を握った。
必要書類の確認、下取りの案内、納期の目安。
事務的な説明を一つずつ丁寧にこなして、最後に深く頭を下げる。
「本日は、ありがとうございます」
「こちらこそ。――次は釣果を車で自慢しに来るよ」
「ぜひ。僕も、朝焼けの写真を一枚、ください」
笑い合い、二人を見送る。自動ドアが閉じる音が、やけに優しかった。
デスクに戻る途中、足取りがおぼつかないことに気づく。膝の裏が笑っている。
スケルトン整備班が奥から歩いてきて、骨の親指を立てた。カラカラ、カラカラ。骨同士がぶつかる音が、お祝いの拍手に聞こえた。
その時だ。背中に冷たい視線が刺さる。
「――佐藤」
セリア店長だ。
いつもの喫煙所の合図だ。俺はうなずき、裏口へ向かった。
薄暗い外灯。アルミの灰皿。夜の匂い。
店長は黙って煙草に火をつけ、一口、煙を吐く。白い煙がゆっくりほどけ、消えていく。
「報告」
「……売れました」
「見ていた。――三か月で初。数字は小さいが、意味は大きい」
店長の声は、いつも通り低く冷静だ。だけど、どこか柔らかい。
俺は堰を切ったように、今日の商談の流れを話した。雑談の入り、“余白”の言語化、二案の提示、最後のひと言。言いながら、また胸が熱くなる。
店長は黙って聞いていた。煙草の火だけが小さく明滅する。
「――一つ訂正だ」
「え?」
「数字は小さくない。お前にとっては最大だ。ゼロから一は、百万から百万一より重い」
一瞬、言葉が出なかった。
セリア店長は灰を落とし、わずかに目尻を和らげる。
「だが、浮かれるな。今日の“できた”は、明日の“できる”を保証しない。型にせず、原理を掴め。お前が今日やったのは、“中村という人間の大切を掴んだ”ことだ。次は別の人間だ。大切は変わる」
「……はい」
「もう一つ。売れた理由は、お前が“自分を出した”からだ。失敗を恐れて隠れていた顔が、今日はちゃんと見えた」
喉の奥が熱くなる。涙腺があやしい。――やめろ、ここは喫煙所だ。泣く場所じゃない。
店長は煙草をもみ消し、こちらを見ずに言った。
「目標を言え」
「……今月、あと二台。いえ、三台いきます」
「一週間で一台だ。達成のたびに、ここへ来い」
「はい」
店長が踵を返す。足が止まる。振り向かないまま、ほんの少しだけ声が柔らかくなった。
「――よくやった、佐藤」
風が、灰皿の灰をわずかに揺らした。
俺はしばらく、その灰が落ち着くのを見ていた。視界が滲む。鼻の奥が少し痛い。
ゼロから一。
たった一台。だけど、俺にとってはこの三か月で一番重い“数字”だ。
店に戻ると、鬼山課長が通路の真ん中で腕を組んで待っていた。
「ひとことだけ言っとく。――次もやれ」
「はい」
「それと、さっきの“余白”の話。悪くない。客の言葉を借りたのもいい。だが、お前の言葉も忘れるな。お前が見た朝焼けの話、次は最初にしろ」
「……はい」
先葉先輩は通りすがりに小声で「おめでとう」と言い、歩みを止めずにメモを一枚俺のデスクに置いた。
“初回の雑談で効く問い:『休日の朝、家にいる/外に出る?』”
隅に、小さくハート。(多分、からかいだ)
奥田先輩は遠くから両手で大きな○を作って見せ、一瞬オネエの所作で投げキッスを飛ばしかけ、咳払いして拳を突き上げた。
「お前、今日は男だったぜ!」
「いつも男です!」
二人で笑う。スケルトン達は骨の拍手。カラカラ、カラカラ。
ショールームの灯りが少し暖かく見えた。
閉店間際、デスクに座ってカルテを書きながら、俺はふと思う。
今日、俺は車を売ってない。
売ったのは、たぶん“俺”で、もっと言えば、“中村さんの朝焼け”だ。
それが、商売になる。そんな当たり前のことに、三か月も気づけなかった。
ペンを置き、背もたれに体重を預ける。天井の蛍光灯が、薄い輪郭でにじむ。
携帯のメモアプリに、新しいページを開いた。
今日の気づき:
・相手の“大事”に名前をつける(例:余白)
・“どちらにしますか”で迷いの幅を狭める
・自分の話を一つ入れる(朝焼け)
保存。
画面を閉じると、ショールームのガラスに自分の顔が映った。
やっと、スタートラインに立てた顔だ。
さて、次は――一週間以内に二台目だ。
俺は立ち上がり、明日の来店予定のカルテを手に取った。指先が、もう震えていない。
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