第一話 - 二度目の朝
階下から漂ってくる、母さんが作る味噌汁の匂い。
そのあまりに懐かしい香りに、俺――夏目蓮は、意識が浮上した。
(夢、か…)
12年間、社畜として生きてきた俺の人生で、この匂いを嗅ぐことは、もう二度となかったはずだ。
重いまぶたをこじ開ける。
目に飛び込んできたのは、見慣れたオフィスの天井ではなかった。
それは、子供の頃からずっと見てきた、自分の部屋の、木目の天井だった。
「……は?」
混乱する頭で、ゆっくりと身体を起こす。
カレンダーが、目に入った。
【 2005年 7月 】
「……嘘だろ」
壁にかかった鏡に映っていたのは、疲れ果てた34歳の社畜ではない。
まだ声変わりもしていない、14歳の、中学2年生の自分が、呆然とした顔で、こちらを見ていた。
(戻って、きたのか…?)
一度目の人生で、全てを手放した、あの夏に。
ハルと、ヒナと、最高の仲間たちと、まだ笑い合えていた、最後の季節に。
その事実を認識した瞬間、俺の身体は、意思とは関係なく、勝手に動き出していた。
軋む階段を、転がるように駆け下りる。
リビングのドアを開けると、懐かしい味噌汁の香りが、さっきよりも強く胸を満たした。
そこに、母さんがいた。
キッチンに立つ、母さんの後ろ姿。
記憶の中の、疲れ果てて小さくなった背中じゃない。まだ、若くて、力強い。
俺が、守れなかった背中だ。
「あら、蓮。おはよう。もう起きたの?朝ごはん、もうすぐ…」
振り返った母さんの顔。俺が忘れていた、本当の笑顔。
その笑顔を見た瞬間、34年分の後悔と愛情と、言葉にならない全ての感情が、決壊した。
違う。
笑顔じゃない。
その目元に刻まれた、うっすらとした隈。
水仕事で、少しだけ荒れた、指先。
(ああ、そうか…)
俺が死ぬまでの20年間。母さんは、ずっと、ここから戦い続けていたんだ。
俺一人のために。
「…れ、ん?」
俺は、数歩駆け寄ると、何も言わずに、母さんの前に崩れ落ちるように膝をつき、その腰に、子供のように、ただ、すがりついた。
「――えっ!?」
母さんの身体が、驚きで硬直するのがわかった。
「ちょ、蓮!?どうしたの、急に!どこか痛いの!?」
違う。痛いのは、身体じゃない。魂だ。
顔を上げることもできず、母さんのエプロンに顔をうずめたまま、俺は、声を殺して泣いた。
「…ごめん」
声が、震える。視界が、滲む。涙が、止まらない。
「ごめんな、母さん…。俺、おれ…」
ありがとう、も。
会いたかった、も。
ごめん、も。
全ての感情が、嗚咽に変わって、言葉にならない。
「ちょ、ちょっと、蓮!?本当にどうしたの!?」
母さんは、いつもの日常が壊れたことに、完全に戸惑っていた。俺の肩を掴んで、必死に顔を覗き込もうとする。その声が、心配で震えている。
ああ、ダメだ。
また、心配かけてる。
俺は、いつもそうだ。
俺は、しゃくりあげながら、必死で顔を上げた。
そして、戸惑う母さんの目を、真っ直ぐに見つめて、言った。
それは、34歳の男が、20年越しに伝える、たった一つの真実だった。
「…ただいま、母さん」
その一言に、母さんの戸惑いは、頂点に達した。
そして、次の瞬間。
「ただいま…って。ふふっ」
母さんは、困ったように、でも少しだけおかしそうに、呆れたように笑った。
「あなた、ずっと家にいたじゃない。…もしかして、熱でもあるの?」
そう言いながら、心配そうに俺の額に手を当てる。
その、呆れと、優しさと、心配が全部ごちゃ混ぜになった、いつもの母さんの顔。
その温かい手の感触に、俺はもう一度、涙がこぼれそうになった。
「う、うん…。なんでも、ないんだ。へへ…」
力なく笑おうとして、ひどく不格好に顔が歪んだ。涙でぐしゃぐしゃのままの、ひきつった笑顔。
それを見た瞬間、母さんの、呆れたような笑みが、すっと消える。
そして、俺の瞳の奥を、射抜くように、真っ直ぐに見つめてきた。
彼女は、俺が未来から来たなんて、知る由もない。
彼女が感じ取っているのは、そんな超常現象ではない。
ただ一つ。
目の前で無理に笑ってみせる息子の瞳が、昨日までの、自分の知っている14歳の少年のそれではなかった、ということ。
そして、その瞳の奥にある痛みが、悪夢や反抗期などという言葉では片付けられない、本物の、魂の叫びであるということだけだった。
理由はわからない。
でも、この子が今、魂の底から救いを求めていることだけは、痛いほど伝わってきた。
母さんは、もう何も聞かなかった。
ただ、優しく、震える俺の身体を、力強く抱きしめ返してくれた。
その腕の温かさは、俺が忘れていた、世界の全てだった。
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