今度こそ、母さんを笑顔にする

まめさん

プロローグ - 終わりの始まり


西暦2025年、東京。

午前2時をとうに過ぎた時刻。眠らない街の、その中心にそびえ立つ高層オフィスタワーの32階。フロアの明かりは、ほとんどが消えている。

そんな中で、一つのデスクだけが、ディスプレイの青白い光にぼんやりと照らし出されていた。

夏目蓮、34歳。

それが、俺の名前だった。

「……終わらねえ」

乾いた唇から漏れたのは、ため息ともつかない、ただの音だった。

目の前のモニターには、明日朝9時の役員会議で提出する資料が、まだ半分も終わらないまま広がっている。無機質な数字とグラフの羅列が、じわじわと目の奥を焼いていく。

ふと、思考の逃避のように、ブラウザのブックマークを開いた。

目に飛び込んできたのは、経済ニュースサイトのトップ記事。

『次世代の旗手、相沢陽斗。彼が創るAIは、世界をどう変えるのか』

記事の写真には、見慣れた、それでいてどこか遠い親友の顔が、自信に満ちた笑みで写っていた。ハル…。お前、そんなに凄いヤツになってたのか。

そして、その隣。少しだけ後ろに控えめに立ちながらも、ハルを誇らしげに見つめる、太陽みたいな笑顔。

ヒナ…。

その笑顔は、俺がよく知っている笑顔だった。

高校時代、俺たちが創ったくだらないゲームが完成した時。俺が書いた無茶苦茶な企画書を、ヒナが面白がってくれた時。

あの笑顔は、いつだって、俺に向けられていたはずだった。

「この三人なら、世界を変えられる」

本気で、そう思っていた。

大学の時、ハルとヒナは言った。「会社を創ろう。俺たちの“遊び”の続きを、本気でやろうぜ」と。

…そして俺は、逃げた。

就職活動に失敗し、プライドがズタズタになっていた俺は、二人の才能が眩しすぎた。

「俺なんかが、こいつらと一緒にいちゃいけない」

そう思い込んで、心を閉ざした。

「昔のレンに戻ってよ!」

そう言って泣きそうな顔で引き留めるヒナの手を、俺は振り払った。

「ガキみたいな遊びは終わりだ。俺は、大人になる」

そうして俺が選んだのは、「安定」という名の、退屈なレール。大企業に就職し、歯車になる道だった。

俺が全てを諦めたあの日から、俺たちの時間は、止まったままだ。

(何やってんだろ、俺)

ズキン、と。

まるで心臓を直接、巨大なペンチで握り潰されたかのような、激しい痛みが胸を貫いた。

「――っ、ぁ」

声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まる。

息が、できない。視界が急速に白んでいく。

(ああ、なんだ。俺、死ぬのか)

不思議と、恐怖はなかった。

ただ、圧倒的な後悔だけが、冷たい波のように全身を飲み込んでいく。

もっと、上手くやれたはずだ。

もっと、楽しい人生があったはずだ。

あの時、あいつらの手を、離さなければ。

薄れゆく意識の中、蓮はただ、願った。

(もし、もしも、もう一度だけ…あいつらと、“遊び”の続きが、できるなら…)

―――次の瞬間。

蓮の意識は、完全な暗闇に呑まれた。

次に目を開けた時、彼の目に飛び込んできたのは、見慣れたオフィスの天井ではなかった。

それは、子供の頃からずっと見てきた、自分の部屋の、木目の天井だった。

「……は?」

混乱する頭で、ゆっくりと身体を起こす。

カレンダーが、目に入った。

【 2005年 7月 】

「……嘘だろ」

壁にかかった鏡に映っていたのは、疲れ果てた34歳の社畜ではない。

まだ声変わりもしていない、14歳の、中学2年生の自分が、呆然とした顔で、こちらを見ていた。

階下から、懐かしい匂いがした。

母さんが作る、味噌汁の匂いだ。

夏目蓮の、二度目の人生が、今、始まった。

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