第三話 危険なチップ

 掲げたグラスを顔に近づける。

 ふわりと漂うのは、バニラを思わせる甘い香り──それに混じって、熟成樽の燻製香や、長い時間をかけて醸された深み。

 揺らすたび、ガラスの内側に光の筋が走り、琥珀の液体と溶け合う。境界線がゆらりと歪み、まるで夜と朝が入り混じる瞬間の空を閉じ込めたようだ。


 口元へ。

 一口、くいと含む。舌先に鋭い痺れが走り、その直後──爆ぜるように広がる甘苦い香りが鼻腔を突き抜ける。

 喉へ落とすとき、焼けつくような熱が一瞬だけ走り抜け、それからすっと消えていった。


「……ふぅ」


 息を整えるように、鼻から外気を取り込んで、口から静かに吐き出す。

 吐息に含まれるアルコールが、白く見えた気がする。


 うむ。度数は高い。だが旨い。

 やっぱ、こういうのはロックでちびちびやるもんだと思うんだがな……。

 苦笑混じりに独りごちる。

 まあいい。どうせタダ酒だ。


 ゴクリ。二口目を喉に流し込む。琥珀色の液体が体内を伝っていく感覚に、じわりと体温が上がった。


 ふと気づく。

 向かいに座るコルドーが、じっとこちらを見ていた。


「……何見てんだよ」


 グラスを置きながら睨み返す。

 男に見つめられて喜ぶ趣味はねぇぞ。


 コルドーはくくっと笑い、肩を揺らす。


「いやなに……思ってただけだ。おめえさんとも、もう結構長い付き合いになったな、ってな」


「……なんだよ、急に」


 気味が悪い。だが──言われてみれば確かにそうだ。

 こっちに来てから、なんやかんや世話になった相手でもある。

 気がつけばこうして顔を突き合わせ、酒を酌み交わすような間柄にまでなっていた。


「世の中、不思議なもんだな」


 俺は苦笑し、琥珀の残りを揺らしてみせる。


「──まぁ、そんなこたぁどうでもいい」


 コルドーが琥珀色の液体をあおり、ドンとグラスを机に置いた。


「ところで今日はあれか。こないだ頼んでた例のチップ、持ってきたんだろ?」


 ……お前が振った話題じゃねぇか、この筋肉達磨。

 喉まで出かかった悪態を飲み込み、代わりに無言で頷く。ジャケットの胸ポケットから、例のケースを取り出した。


「ほらよ。無事に直ったぜ」


 ケースをテーブルの上に滑らせる。すうっと木目を走り、コルドーの前でぴたりと止まった。

 あの巨体の男が、意外なほど丁寧な仕草で手を伸ばし、ケースを取る。パタンと蓋を開け、中を覗き込む。


「ふむ……見た目は、直っているように見える、な」


 低くつぶやき、指先でチップを持ち上げ、光にかざす。

 最初に持ち込まれたときは、焼け焦げてグズグズに崩れていた代物だ。それを今こうして“新品同然”に見せているのは、俺のスキルの成果に他ならない。


 やがてコルドーはチップをケースに戻し、パタンと閉じた。テーブル脇へ丁寧に置く。


「……中身の確認はしないのか?」


 俺が問いかけると、コルドーは肩をすくめ、口角を上げた。


「ちょいと危険なデータなんでな。きちんとしたところで確認したいのさ。ただ、報酬は払う。おめぇが変なことしないってのは、分かってるからよ」


 頭の上に浮かぶ吹き出しがちらりと見える。


《とはいえ、こっちも正確な情報までは掴み切れねぇ。ぶっ壊れちまった時点で途切れてたからな。どれだけヤバいかは、見てからのお楽しみだ》


 俺は片眉を上げて笑った。


「……なんだ、想像以上に面倒くさそうなブツじゃねぇか」


 端末を机に近づける。数秒後、入金を知らせるアナウンスが表示され、額面を確認する。


「……うむ。中々いい額だ」


 思わず口元が緩む。これでしばらくはダラダラ暮らせるな。

 コルドーは鼻で笑い、低い声で釘を刺してくる。


「ふん、どこまで知ってるんだか。……だがいいか、首を突っ込みすぎるなよ。流石にこいつはシャレにならん」


 その頭の上、また吹き出しが揺らめいた。


《相変わらず妙なところで情報通だな。探らせちゃいるが……こいつ、俺らと仕事はするが、入れ込んでる情報屋もいねぇ。……どこから嗅ぎつけやがる》


 まあな。探ってるのは分かってる。

 こっちの周囲で、妙に俺を気にしてる吹き出しが何度か見えたからな。


「わかったわかった。俺だって別に興味はねぇよ、こんなチップにな」


 そう言い捨て、残っていた琥珀色の液体を一気に煽る。

 喉を焼くようなアルコールが胃に落ちていく。だが、表情は微塵も崩さない。慣れというより、ただ崩す気がないだけだ。


 グラスをテーブルに戻し、ゆっくりと立ち上がる。


「さて……それじゃあ、ここいらでお暇するかね。また何かあれば連絡してくれ。気が向いたら仕事してやる」


 軽口とともに踵を返す。

 歩き出す直前、思い出したように振り返った。


「旨かったぜ。……次はチョコレートでも一緒に置いといてくれ」


 軽く笑って言い残し、扉へと向かう。


「おう、またな」


 短く、しかし確かな響きで返すコルドーの声。

 俺はそれ以上何も言わず、重い扉を押し開けた。


 廊下に出ると、控えていた部下どもが一斉に頭を下げてくる。俺は片手を軽く上げて挨拶を返し、そのまま歩き去った。

 階下に降り、カウンターに立つアンドロイドの女に「またな」と声を掛ければ、完璧にプログラムされた笑顔が返ってくる。……相変わらず不気味だ。


 外に出ると、雑踏のざわめきが一気に押し寄せてきた。

 煤けた空気、ネオンの瞬き、怒鳴り声や笑い声、路地の奥から漏れる妙な音楽──すべてがごちゃ混ぜになってこの街の呼吸を作っている。


 帰りに甘いもんでも買って帰るか──そう思いながら歩を進めたそのとき、背中にチクリとした感覚が走った。


「……ふむ」


 視線だ。へったくそな尾行。隠す気はあるんだろうが、逆に浮いてる。


 自然に近くの露店へと足を向け、並んでいる得体の知れない菓子を冷やかすふりをしながら後ろを盗み見る。

 距離があるせいで、吹き出しの内容までは読めない。だが、確かに“そこにある”のは見える。


 誰だ? どこの差し金だ?

 心の中でぼやく。

 今日一日、やたらと狙われてる気がする。……まあ、今さらだ。ここじゃ命の値段なんて安い。


 悪意があるなら、いずれは表に出る。

 そのとき振り払えばいいだけの話だ。


 そう割り切って、俺は再び歩き出す。

 雑踏のざわめきに紛れ、足音を落としながら。


「……さて、天然もんのタルトでも探して帰るとするか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る