丘を超えて
増田朋美
丘を超えて
その日も、秋が近いと言っておきながら暑い日であった。そんな日は、テレビも新聞も信用できなくなって、見る気をなくしてしまうものであったが、にわか雨が降るとか盛んに言われていた。
その日も、また製鉄所を利用したいという女性がやってきた。最近、製鉄所の利用者の数が、うなぎ登りに増えている。短期で、試験勉強をしたいと言ってくる女性が多いが、今日の女性はそうではなく、自宅の家族が、仕事に出てしまうので、一人ぼっちになってしまうことから、しばらく居場所が見つかるまで利用させてもらえないかという内容であった。
「えーと、それではまずはお名前を教えてもらおうかな?」
杉ちゃんがそう言うと、
「平尾と申します。平尾なつみ。なつみはひらがなで書いてなつみ。よろしくお願いします。」
と、彼女は答える。
「で、病名は付いてるの?」
杉ちゃんがそう言うと、
「ええ、対人恐怖症なんです。」
となつみさんは答える。
「人に合うのが怖いってやつか。」
杉ちゃんがそう言うと、
「なにかきっかけはあるんでしょうか?例えば、すごい怖い人が身近にいたとか?」
水穂さんがなつみさんにお茶を渡しながら、そう聞いた。
「ええ、本当に些細なことなんですけど、私高校生の頃に、担任教師がすごく怖い人で。何でも、漢字の読み書きができないと廊下で立ってろとか、そういうことを言ったんです。だからそれ以降、中年の女性を見るたびに、パニックと言うか、怖くてわけがわからなくなってしまって。」
「はあ、そうですか。この施設でも、中年の女性はいっぱい通っているが、大丈夫かな?」
杉ちゃんは心配そうに聞いた。
「精神科とか、そういうところには通われていますか?」
水穂さんがそうきくと、
「ええ、薬を服用しています。今飲んでいるのはこちらです。」
と、彼女はカバンの中から薬の袋を取り出した。
「ああ、なるほどね。でも精神科の薬なんて、本当に役に立つのか立たないか、わからないものが多いわなあ。」
杉ちゃんがそう言うと、
「そうですね。そう見えてしまうのかもしれませんね。精神疾患ですから。」
と、水穂さんも言った。
「やっぱりだめですか?」
なつみさんが聞くと、
「いやあ、来てくれてもいいんだけどねえ。対人恐怖症となると、いろんな女性が色々来るんだから、難しいかもしれないなあ。」
と、杉ちゃんは、腕組みをした。
「でも、家にいたって、一人ぼっちで居場所がないのでしょう?」
水穂さんがそう言うと、なつみさんは黙って頷いた。
「まあ、多少症状は出てしまうだろうが、それでは、いさせてやろうかねえ。本当に行くところがなくなったら、返って精神疾患を悪化させてしまうかもしれないし。」
杉ちゃんがそう言うと、水穂さんもそうですねといった。
「じゃあ、今日から、利用してくれてもいいけど、大変だったら、ちゃんと言うんだよ。」
「わかりました。ありがとうございます。」
と、なつみさんは頭を下げた。
「じゃあ、まず製鉄所の中を案内するから、とりあえず応接室から出て見ようね。」
杉ちゃんに言われて、なつみさんは彼と一緒について行った。杉ちゃんが、ここはお台所、ここは浴室などと、製鉄所の部屋の一つ一つを説明した。食堂に行ってみると、二人の女性が、勉強をしていた。
「ここが食堂ね。みんなご飯はここで食べるんだ。そこにいるのは、西本さんと手越さん。」
と、杉ちゃんが説明すると、二人の女性は新しい利用者が入ってきたのに気が付き、
「よろしくお願いします。」
と、杉ちゃんたちに頭を下げるのだった。しかし、なつみさんは、つらそうな顔をする。
「どうしたんですか?」
と、手越さんが聞くと、
「怖い!やめて!」
と言ってしまう。
「あら、あたしの顔がそんなに怖かったかな?あたし、確かにここに来る前は、」
手越さんがそう言うと、
「お前さんの身の上話を聞いてるわけじゃない。彼女は、対人恐怖症なんだ。担任教師と似ている顔をしている女を怖がるという症状がある。」
と、杉ちゃんが説明した。
「そうなの!それは大変。あたしでできることがあったら何でもするから。相談にも乗るし、病院の紹介もするよ。あたし。こういうの調べるの得意だから任せといて。」
手越さんはそうにこやかに言ったが、なつみさんは、口裂け女が出たと言って、さらに泣き出してしまうのであった。
「そうか。わかったわかった。手越さんみたいに、目がでっかくてはっきりした顔の女を怖がるということだな。そういうことなら、ちょっと薬を飲んで落ち着いてもらおう。」
「でも、薬を飲みすぎるのは良くないと。」
杉ちゃんに言われて、そういうなつみさんだが、
「通じてないな。まず初めに落ち着くのは薬しかないじゃないか。必要があれば、布団貸してあげるから、そこで休んでもいいよ。」
「あたし、布団引いてきてあげる!」
西本さんが、そう言って、空き部屋に入り、すぐに布団を敷いてくれた。ホテルで働いているという西本さんは、そういうものであればお手の物であった。なつみさんは、薬を飲んで、布団に入ると、薬は眠気を催す成分があったか、眠くなって寝てしまった。
「これじゃあ、先が思いやられるな。手越さんみたいな顔の人を怖がるんじゃ、防ぎようがないよ。」
「そうですね。手越さんだって、ここに来なければならないでしょうし。」
杉ちゃんと水穂さんは、顔を見合わせた。一方その頃、手越さんと戻ってきた西本さんは、
「可哀想な女性だね。きっとよほどひどいことされたのよ。世の中には、にている顔の人が3人いるって言うけど、彼女は、その中で私にそっくりな、悪人にひどいことされちゃったんだわ。」
「本当に、世の中には悪い人がいるものね。」
と言い合っていた。
「あたし、できるだけ彼女には優しくしてあげようと思う。顔がにている女性を怖がるって言うけど、それを逆手に取って、顔はにててもいい人もいるんだってこともわかってもらわなくちゃ。そういうことで役に立てれば本望よ。まあ、過去にはあたしも、覚醒剤がどうのとかで、ひどい目にあったりしたんだけどさ。」
できるだけ明るい口調で手越さんがそういった。確かに、彼女は、前科があった。未成年だったので、服役したことはないが、女子少年院に通ったことはある。製鉄所を利用するのは、こういう前科者が利用することもあるのだ。
「でも手越さん、本当に彼女を変わらせて上げることなどできるのかしら?」
西本さんが不明な顔でそう言うと、
「ええ。だって誰かが変わって上げようっていうところに持っていかないと、変わりたくても変われないわよ。本当に全部がそうなっているのは、刑務所とか、そっちの方だけよ。現実世界でなんとかしようと思うんだったら、あたしたちが変わらなくちゃだめでしょ。」
と、手越さんはいうのであった。
そうこうしているうちに、お昼の時間になった。杉ちゃんがお昼だようとでかい声で言うと、利用者たちは食堂に集まってきた。先程の平尾なつみさんもやってきた。どんなに精神障害があったとしても、腹は減る。それに精神疾患に対応する薬は、食欲がます作用があることが多く、ふつうの人以上に食べてしまうことがある。
「はい、今日は、みんなの大好きな、チヂミだよ。しっかり食べろや。」
と、席についた利用者たちの前に、チヂミの皿が置かれた。チヂミとは、韓国のお好み焼きのことで、熱々でも冷めてもうまい料理だった。
「いただきまあす。」
利用者たちは、思い思いに挨拶して、チヂミを食べ始めた。一人で食べていたなつみさんの隣に手越さんが座った。
「あたし、手越浩子。サンズイにコクと書いて浩子よ。きっとあなたを苦しめた人に顔がにてるんだろうけど、ぜんぜん違うから、安心してね。これからは、なにか悩みでもあったら、何でも相談してね。」
こういうアプローチができるのは、前科者である彼女ならではかもしれなかった。積極的に話しかける人はいるかも知れないが、こうしてすぐに仲良くなろうと持っていける人はなかなかいない。
しかし、なつみさんは、手越さんがそう言ってくれたのに対して、あまりに怖かったのだろう。箸を落としてギャーッと叫んでしまった。
「大丈夫大丈夫。あたしは、あなたをひどい目に合わせた人とは違うから。泣かなくてもいいのよ。」
という手越さんであるが、なつみさんは泣くのをやめない。不意に、食堂の隣の部屋から水穂さんがやってきて、手越さんには、少し離れてもらうように指示を出し、
「どうされたんですか?」
と優しく言うのであった。こういうときは、できるだけ起こったことを、成文化させることが大事なのである。本人でさえ、なぜこんな恐怖に苛まされるのか、わからないで泣いていることも多いからである。
「なにか、あったのですか?教えていただくと、嬉しいのですが。」
水穂さんは、そう優しく聞く。ああ、あたしはおじゃま虫だから消えるわと手越さんがその場所を離れると、なつみさんは、涙を拭くこともできないまま、
「あの時の、あの時の、あの時の人と、顔がにているから。」
なつみさんはそういうのだった。
「とりあえず、薬飲んで落ち着いてもらいましょう。」
水穂さんがそう言うと、西本さんが、
「落ち着かないときはこれだよね。」
と言って、リスパダールと書いてある錠剤を一錠くれた。これは、暴れた人物を抑えるための薬で、興奮状態の人を抑える作用がある。なつみさんは、西本さんから薬を受け取ると、渡された水でがぶ飲みするように飲んだ。しばらく、ゼイゼイと肩で大きな息をしていたが、数分後には、息継ぎも落ち着いてくるようになった。
「ごめんなさい。私、どうしても、手越さんのことが怖くて。」
なつみさんは、泣きながら言う。
「それは、どうして怖かったんですか?先程、担任教師がひどいことをしたので、人が怖くなってしまったと聞きました。なにか、人が怖くなるようなきっかけがあったのですか?」
水穂さんができるだけ声の高さを変えないで言った。聞く側の聞き方も最新の注意を払って聞かないと、こういう患者は心をひらいてくれることはないが、水穂さんは、その技術も心得ていた。
「あたしが、漢字の宿題をやっていかなかったせいで。」
と、なつみさんは、そう話しだした。これが彼女の核となる部分だと、みんな身構えた。
「そんな悪気があったわけではないんです。あたしはただ、宿題をやっていかなかったのは、同級生が体調が悪くて、一緒に病院までついていかないと、可愛そうだと思ったからです。」
その同級生は誰なのか、聞き出したいところであるが、水穂さんはそれはしなかった。
「そうなんですね。それで、翌日に担任の先生に叱られたのですか?」
「ええ。だってしょうがないじゃないですか。居残り勉強していたときに、体調が悪くなったら、連れて帰るのが当たり前でしょう。だって、居残り勉強より体のほうが大事ですからね。あたしはそうしたんです。だけど、先生は、あたしが、同級生をたぶらかして、わざと帰らせたんだしか信じてくれなかった。」
なつみさんはそう話だした。まるでそのことが昨日のことのように鮮明に覚えているのが、精神疾患なのかもしれなかった。だからいつあったとか、何年も前じゃないかとか、そういう話はしないのである。
「そうなんですね。つまりあなたは、同級生が体調が悪そうだったので、居残り勉強をしないで自宅へ帰らせてあげたんですね。それを、担任の先生は、あなたが同級生に、居残り勉強をサボらせたと勘違いされたんですね。」
水穂さんの翻訳により、やっと周りの人達も何があったか理解できるのであった。こういう通訳ができる人は、精神疾患を患う患者さんにとって非常に重大な存在なのに、なかなかなり手が少ないのが困ったものである。
「そうなんです。だって、あたしは、彼女が体調が悪いから、もう帰らせてあげたほうが良いと思ったんです。だって、これだけ感染症とか、気をつけようって、散々言われている世の中なのにね。なんで先生は、ああして私を怒ったのでしょうか。」
「わかりました。確かに、感染症が多いということは、何年も言われています。それで、あなたは、同級生の方が体調が悪いので、自宅へ帰らせて上げたのであれば、あなたは間違いではありませんよ。下手をすると、感染症だって重症化する可能性だってあるわけでしょ。だったら、居残り勉強させるのはどうかと思いますよ。」
「本当にそう思いますか?あの時、ああして怒られたのは私の責任ではないと言ってくれますか?」
そういう水穂さんに、なつみさんは、そう確認するように言った。
「ええ。」
水穂さんははっきりと答えた。こういうときは、良いことが悪いことを含むような言い方をしてはいけないことも、水穂さんは知っていた。良いと思うというような言い回しではなく、断定的に良いと言わなければ納得しないのである。
「本当に?」
「ええ。」
水穂さんは再度言った。
「ここにいる人達は、あなたのことを悪いやつだと思う人はおりませんよ。西本さんにしろ手越さんにしろ、みんなあなたのことを心配して声をかけているのです。だから、それを忘れないであげて、頭の片隅にでも入れておいてくれると嬉しいです。」
「そうよ。あたしは、あなたのことがとても心配なの。悩んでいることを、放置していたら、私みたいに、前科者になってしまうかもしれない。だから、それをしないでほしいの。そのためには誰かに話すことが必要なの。そのために私を選んでくれたら、嬉しいことはないわ。」
水穂さんがそう言うと、手越さんが、そう彼女に語りかけた。
「ほら、そう言ってるじゃありませんか。もし、手越さんがあなたを苦しめた担任教師と同じくらい怖い人であったら、そのようなセリフを言ってくれるでしょうか?よく考えてください。そうすれば手越さんは怖い人ではないことがわかります。」
水穂さんがそう言うと、なつみさんは焦点の定まらない目で手越さんを見つめていたが、やがてその目も、少しずつ、鉄の色に光ってきて、なんとか平常な目に近づいてきた。手越さんの方は、静かにそうなっていく彼女をじっと見つめている。
「そうなんですね。」
なつみさんは、そういった。
「ごめんなさい手越さん。私、私にひどいことをしていた担任教師と顔がにているあなたを見て、思わず過去が蘇ってしまって、それで叫んでしまいました。ご迷惑かけてすみません。」
なつみさんは、そう手越さんに頭を下げる。
「良いのよ。」
手越さんは、そう彼女に言った。
「ここは、そういう人たちが集まってる施設だもん。みんなどっかで傷ついて、それでここへ来ているんだし。それを、やってはいけないとか、甘えてるとか、そういう人はいないから安心してね。」
「ごめんなさい。」
なつみさんは、また涙を流して、そう言ったのであった。今度は、ちゃんと涙を流したのを自覚してくれたようで、顔を顔拭きタオルできれいに拭いた。
「良いのよ。じゃあ、ご飯食べようね。」
と、手越さんがそういったのであるが、水穂さんがもう疲れ切ってしまったのか、床に座り込んで咳き込んでしまった。西本さんが慌てて駆け寄って、
「水穂さん大丈夫ですか?もう体が疲れているのでしょう。早く休んだほうが良いのでは?」
と声を掛けるが、水穂さんは咳き込んだままだった。なつみさんが、水穂さんには薬というものはないんですかと聞くと、
「水穂さんの部屋に、水のみがあるからそれもってきて!」
と、西本さんが水穂さんの背中をたたきながらそういった。それと同時に、水穂さんの口元から、朱肉のような赤い液体が溢れ出た。
「む、昔へ来ちゃったみたい!」
なつみさんが思わずそう言うと、
「馬鹿なこと言ってないでほら早く!」
西本さんはすぐに言った。すると、手越さんが、なつみさんの手を引っ張って、
「こっちよ!」
と言って、なつみさんを水穂さんの部屋へ連れて行った。なつみさんが部屋に入ると、せんべい布団の箸の方に小さなサイドテーブルがあって、その上に、水のみがあった。なつみさんはすぐにそれを取って、手越さんと一緒に食堂へ戻った。でも、その部屋に、なつみさんが知っているような医薬品は一つもなく、あるのは水のみだけであるのを、なつみさんは見てしまった。すぐに、座り込んでしまった水穂さんに、なつみさんは水のみの中身を飲ませると、数分で咳き込むのはおさまった。
「水穂さん疲れるんだったら部屋へ戻って休んでよう。」
と、西本さんが水穂さんに肩を貸した。
「どうもすみません。」
水穂さんはそう言って、西本さんに捕まって、部屋へ戻っていく。なつみさんは、水穂さんが無事に帰れるのか、心配でたまらなかったので、そのままついていってしまった。水穂さんは、西本さんに誘導してもらって、せんべい布団の上に横になった。
「でもどうして。」
なつみさんは思わず言ってしまう。
「この部屋には医薬品も何もないの?」
「それを言うのは可哀想よ。水穂さんのことを考えたら、あたしの口からはいえないなあ。」
と西本さんはわざととぼけるように言う。
「でも、あたしが、精神疾患があって医療を受けるのに不自由しているのとは理由が違うでしょ?」
と、なつみさんは聞いてしまった。
「まあ、そういう経験してるんだったら、水穂さんは日本の歴史的な事情といえば良いかな。でも、可哀想だから私の口からはいえない。でも、水穂さんみたいに、今だったら治る病気であっても、いろんな理由で医療を受けられない人もいるってことを、わかってあげてね。だから、水穂さんは、きっとあなたに優しくしてあげることができたのよ。」
西本さんは、水穂さんに布団をかけてやりながらそういうのであった。
「そうなんですか。」
なつみさんは、それしか言うことができなかった。
「さ、食堂へ戻りましょ。ご飯が冷めてるわ。しっかり食べないと、また、力つかないわよ。」
西本さんに言われて、なつみさんは、水穂さんが医療を受けられない理由を考えながら食堂へ戻った。答えはすぐに出なかったが、きっといつかわかる日が来るだろう。
丘を超えて 増田朋美 @masubuchi4996
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