そこにあったり、なかったり
@mzk0u0
そこにあったり、なかったり
からあげ食べたいな、なんか、とつぶやいたら、隣のあっちゃんが、あたしからあげだったらやわらかチキンゆずこしょう派なんだよね、と答えたので、交差点の向こうのコンビニに入ることにした。学校からの帰り道にコンビニはいくつかあるけれど、やわらかチキンシリーズが置いてある系列の店舗は、この辺りでは交差点向こうだけだ。お母さんにこんなことを言えば、みんなって誰々、と聞かれてすごく面倒なことになるだろうけれど。
コンビニ前の横断歩道のしましまはおととい塗りなおされて、周囲のぼんやりしたいろあいにはまだぜんぜん馴染んでいない。黒々とひかるアスファルトの上には白い線がくっきりと乗っかっていて、そこについたタイヤのあとが妙に目立って見える。タイヤのあとをみながら、しましまが塗り直されたのは本当におとといだったっけ、と思い出そうとする。月曜日渡った時にはまだ自転車用のラインがうっすらしていたと思うから、少なくとも火曜日以降のことなのだけれど、おとといときのう、このしましまが新しかったかどうかが、どうしても思い出せない。
「コンビニってさ、何であんながんがんあったかかったり涼しかったりするん」
あっちゃんがそう言うのと、あっちゃんの隣を自転車がさっと追い越したのとが同時だった。
「適当な温度にしといて節電すればいんじゃね」
「そういうジュヨウあるんだよ、多分、コンビニって」
あたしは返すくすんだ銀色の自転車はさあっと小さくなって、コンビニの向こうへ消えた。
「夏さあ、ぎんぎんに冷えてないコンビニって何よ、みたいなさあ」
「まあ、そうなんだろうけど」
あっちゃんがひくくうなった。
「それか、出入り激しいとか」
「あー人の出入り」
「涼しかったりあったかかったりするのが逃げてってるみたいな」
「ありそう、わかる」
信号はもう赤になっていたけれど、あっちゃんが急がないので、あたしは心もちのんびり歩いた。あたしたちは車の信号が青になるまでに渡り切る。
車の信号のことを、お母さんはよく、反対側の信号、と呼んでいて、気持ちは分からないでもないけれど、やっぱり車の信号、と言う方が、あたしはしっくりくるような気がする。だって、人の信号が青の時は確かに車のほうが赤だけれど、それって反対って言うのだろうか。言わないんじゃあないだろうか。
ダストボックスの隣では、スーツの人がふたり、たばこを吸っていた。おじさんだかお兄さんだかわからないそのふたりは、お揃いみたいな眼鏡をかけている。
あたしは引いていた自転車をコンビニの壁際へ寄せた。スーツの人たちとは、自動ドアを挟んで反対側の壁になる。反対、とは、こういうとき使うのではないだろうか。
自転車の鍵をスカートのポケットへしまいながら振り向くと、あっちゃんは自動ドアの前で煙たい顔をして待っていた。あたしはあっちゃんと自動ドアへ近づく。自動ドアのところには、ばけつに桜らしき枝をたくさん挿したものが置いてある。あたしはあっちゃんの横で立ち止まり、それらの枝を見る。それらの枝ってなんだか英語の訳みたい。わたしは立ち止まって、それらの枝を見ます。くすんだ青色のバケツには水が張ってあって、そこに枝が生けられている。これで飾っているつもりなのか、ちゃんと飾るつもりだけれどひとまず置いてあるものかは、よくわからない。
枝についた花は、開いているのも、とじたのも、蕾としてはふくらみすぎだけれど花としては開いていなさすぎる半端なものも、全部がそろっていた。
「これって何分咲きになるのかな」
あっちゃんがあたしのわきから桜を覗きこむ。
「七分咲き、かなあ」
あたしは予想で答える。
「さすが生物系」
「まだそこまで決まってないから」
「でもそれ系の学部行きたいんでしょ」
「そうだけど」
二年でコースを選ぶとき、あたしとあっちゃんは自然科学コースを専攻した。あっちゃんは工学系、あたしは生物系の学部のある大学を受けるつもりでいる。
「でもこれ、生物の知識とか全然使ってないし」
あたしは首を振る。
「え、じゃあ何知識」
「なんだろ。テレビで7分咲きっていう時って大体こういうやつのこと言うぽくない。知識とかじゃなくて」
「あーうん言う、けどこれ実際七分も咲いてるかな」
「実際でいうと六分咲きかな」
「やっぱり」
「けどテレビではこの位で七分って言ってる気いせん。毎年、えっこれ全然七部も咲いてないって思うもん。わからんけど」
「それ」
「じゃろ」
「けどさあこれが七分ってさあ、咲くの心待ちにしすぎじゃん日本人」
そう言いながら、あっちゃんの足はもう自動ドアへ向かっている。たばこを吸っていたおじさんだかお兄さんだかの、中でもまだ若く見える方が、こちらをちょっと見たけれど、あっちゃんは気付かずにコンビニのぴんぽーん♪ ぴんぽーん♪ をくぐって店内に入ってしまった。あたしは小走り気味にその後を追う。
もう春だったから、コンビニの中はがんがんに温かくも涼しくも無かった。
「からあげと言えば、お花見だよね、時期的にさ」
「お花見、する、あっちゃんち」
あたしたちの足は冷えた飲み物がある透明な扉の前で止まった。
「多分せんと思う。混んでるとこ嫌いなんよ、うちの親」
そう言いながら、あっちゃんは透明な扉の前で、中の飲み物を見つめる。見つめるけれど、あたしはあっちゃんが本当は扉を開けたくないと思っているのを知っている。あっちゃんは、冷蔵庫なんかをあけたとき、ぼんっとつめたい空気が膝下を撫でるのが嫌いなのだ。クーラーだと、そう嫌じゃないらしいけれど、わたしにはぜんぜん違いが分からない。桜の六分咲きと、七部咲きを見分けるくらい、難しい。わたしはあっちゃんが飲み物を選ぶふうを装っているのを少しだけ眺める。全体にすらっとしてて、あたまがちいさくて、このあいだ動画で見たしらうおみたい。
「開けていい」
あたしは聞く。あっちゃんがわざとらしく、扉の前からぴょんと退ける。
「おねがあい」
当たり前みたいな声で、そう言う。
「うんしゅうみかん、飲もう」
「あたし炭酸がいい。微炭酸じゃなくて、舌がびりびりするの」
「え、大げさじゃね」
「そんなことないよお」
あたしには全然その記憶がないので、あたしやあっちゃんのお母さんからの伝聞でしか知らないのだけれど、あたしとあっちゃんには、二歳で同じ託児所に預けられた時からの縁がある。そうして、成長するとそのまま隣接する保育園に預けられた。
保育園のことは、ふんわりとだけれど、思い出せる。他の子が泥団子作りに夢中になるのをよそに、ふたりでどんぐり集めや、化石っぽい石探しをしていたことを、覚えている。進学した小学校は別々で、けれど親同士の仲がよかったこともあり、あたしたちは引き続きよく遊んだ。お互いの家でお泊まりも、何度かした。中学で一度疎遠になった、と思ったら、高校で再会して、また仲良くなった。
再会場所は北館一階の廊下だった。ほかのクラスメイトと話している時に、なんだかすらっとした人があたしをまじまじ見ていた。なんだろう、と思って見つめ返したら、それがあっちゃんだった。あたしたちは少し見つめあって、それから高い声をあげ、きゃあきゃあ言いながら、ついついハグまでしてしまった。
それ以来、あたしたちは週に一回くらい、一緒に下校する。あっちゃんとわたしの家の方向は全然ちがうのだけれど、あっちゃんは時々おばあちゃんの家に泊まることがあって、あっちゃんのおばあちゃんの家は、わたしの通学路の途中にある。あっちゃんがあっちゃんの家に泊まる時だけは、ふたりで帰ることができる。そういうときは、事前にあっちゃんからメールが送られてくる。
あっちゃんは、SNSやメッセージアプリのたぐいはやらない主義だ。だから連絡は専らメールを使う。そういうのわずらわしい、というのが、手を出さない理由らしい。一緒に帰り始めて最初の頃にそう言っていた。一通り理由を述べた後、ふん、と鼻から息を吐き出していたのを、覚えている。その様子がやけに自慢げに見えて、少しだけ、うわあ、と思ったから。
あっちゃんはSNSがわずらわしいというけれど、あたしはときどき、あっちゃんへの返信がわずらわしい。他の子は全部ひとつのアプリでやりとりできるのに、あっちゃんの時だけメールアプリを起動しないといけないのは、絶妙に鬱陶しいのだ。
飲み物を買ってコンビニを出ると、スーツの人たちはいなくなっていた。歩きながら、あっちゃんは、あ、それでさ英語の先生がさ、と、唐突に話しはじめる。
「全然、それで、じゃねえよ」
あたしは笑う。頭の中に、反対、という言葉と、車の信号、という言葉が浮かぶ。ええ、そこつっこんじゃうんだ、と言って、あっちゃんも弾けたように笑う。
「そりゃ、つっこむよ」
「いやいや、ごめんごめん、それでさ」
「続けんのかよ」
「聞いてよ、あのね英語の先生がね、来月で辞めちゃうんだって」
「プリチャード先生だっけ」
あたしは通学鞄を右手から左手に持ち直しながら聞いた。
「そう」
あっちゃんは英語を習うために駅西口の福祉交流会館へ通っていて、今話しているのは、そこの英語の先生のことだ。学校にももちろん英語の先生がいて、あっちゃんはどちらの先生の話題なのか明言し忘れることがしょっちゅうだから、見極めがとても大切だ。けれども不思議と、あっちゃんがどっちの先生の話をしているか、だいたいわかる。うまく言えないけれど、多分、タイミングとかで。
「次に来るの、男の先生で」
「もう分かってるんだ」
「うん」
「名前は」
「アンソニー。苗字わすれた。アメリカ人だって」
「へえ」
「いやそれがさ、ジョセフ・ノーマンに似てるって」
「ガチで」
「わからんけど、ゆうに言わんとと思って」
あたしは、ジョセフ・ノーマンが好きだ。小三の頃、ジョセフが出演しているヒーローものの映画にハマって以来、ファンだ。ジョセフにはまりたての頃、あたしは結構真剣に、ジョセフのことめっちゃ好き、どうしよう、初恋かも、というような内容を綴った手紙をあっちゃんに送ったことがある。わざわざ便箋にボールペンで書いて、お母さんから切手をもらって。そうしなくては、ジョセフのことを思う真剣さが伝わらないような気がして。
あっちゃんから帰ってきた手紙には、アメリカに移住したら、生で見るのワンチャンあると思う、と具体的なアドバイスが書いてあった。アメリカに移住、までは考えていないけれど、ジョセフと聞くと、あたしの頭はいつもしゃきしゃきする。
「ジョセフ似とか、かなりハードル上がるよ、結構厳しいと思うあたし」
「結構どころじゃねーが、ゆうは。しかもプリチャード先生時々盛るから、ほんと似てるかどうかは怪しいよ」
「え、でも、写真とか見たみ」
「待ってろ」
「よろしく」
「でも、あたしジャッジでファンにお見せするほどじゃないですってなったら送らん」
「正解です。それで正解です」
「過激派しんどいわあ」
そう言って大げさに頭を抱えたあっちゃんの向こうを、真っ黒い路面電車が走ってゆく。気づくと、あたしたちはこばしを中ほどまで渡ってしまっている。
あたしたちの街には大きな川が一本流れている。その川の中に、小さな島が、ふたつある。学校側の岸から最初の島に渡る橋がこばし、最初の島から次の島へ渡る橋がなかばし、次の島から対岸へ渡る橋が京橋だ。学校側に位置する島に、あっちゃんのおばあちゃんのうちがあって、あたしたちはいつも、こばしを渡りきったところで別れる。
こばしはとても短くて小さな橋だ。車道は片側一車線ずつで、京橋みたいにきちんとした歩道なんてない。けれど、路面電車の線路が通っている。こばしを、学校側へ少しいったところには、その駅もある。路面電車はずっと昔から市内を走っているらしいので、きっとこばしも随分古くからあるのだろう。
そんなことを考えながらも、あたしとあっちゃんの会話は進んでいて、今はジョセフ・ノーマンの最新作を一緒に観に行く、という話題になっている。
「夏休みかな、やっぱ」
あたしは、島と川の境にある、茶色い石垣を見ながら言った。大きな用水路で見かけるような、コンクリートのきっちりした石垣ではなくて、本当に石が積んである、そうしてところどころ崩れそうな、昔ながらの石垣。コンクリートなのに石垣、と言うのも、昔のことなんて全然知らないあたしが昔ながらの石垣、と言うのも、なんだかねじ曲がっていておかしいけれど、でも、こういうことを、ほかになんと言ったらいいのか、あたしにはわからない。
「あたし、もしかしたら夏休みはあんまりいないかも」
あっちゃんがそう答えた。
「どっか行くの」
「わかんない。画策中」
あっちゃんの歯切れが急に悪くなる。あたしは少しだけ驚いて、島の石垣からあっちゃんへ顔を動かした。
「どこ行くの」
「や、まだ未定だからほんと」
あっちゃんがこんな風にもやもやした話し方をするのは珍しい。
「なにそれ」
「決まったら言うわ」
なにそれ。あたしはもう一度言った。あっちゃんは、うふふ、と笑って、けれども決して答えない。それで、あたしは続きを聞くのをやめてしまう。もったいぶった感じが面倒になってしまう。いちいちメールアプリを開く時みたいに、あっちゃんをわずらわしく思ってしまう。
見下ろした川の水面で、黒い鳥が浮いたり沈んだりしている。あたしは通学鞄を右手から左手に持ち直す。ごうごうとやかましい音が聞こえてくる。路面電車の音だ。顔をあげると、黒い路面電車があっちゃんの向こう側を通り過ぎて行く。
文芸部の部室にはいつも、なんともいえないにおいが充満している。甘ったるいような酸っぱいようなこなっぽいような。部室に入るときには確かに感じるのに、部室を出る頃には、全然感じなくなっている、あるんだかないんだかわからない匂い。
今日、部室にはゆきをとかなみがいた。窓は全開で、けれどもやっぱりその、なんとも言えないにおいは漂ってくる。おつかれさまでーす、と声をかけると、先にいた二人が、おつかれ、おつでーす、と、女の子の甘ったるい声で返してくる。特に何かに疲れているわけではないけれど、部室に入る時の挨拶は、おつかれさまです、に決まっているのです。あたしは入り口の扉を閉めて、窓ぎわに並べてある椅子のひとつに革鞄とサイドバッグを置いた。両側には、ゆきをとかなみの革鞄が並べてある。
革鞄とサイドバッグは学校指定のもので、それぞれ紺色と緋色、二色のバリエーションがある。みんなが好きな組み合わせでこれらの鞄を買う。あたしの革鞄は紺色で、サイドバッグは緋色だ。ゆきをたちは革鞄もサイドバッグも緋色なので、この二人の鞄に挟まれると、あたしの紺色の革鞄はやや居心地が悪そうに見える。
「もうさあ、インフェルノさあ、あれで折れちゃうっていうのが」
「ほんまそれ、なんなん、かっちんに信頼おきすぎ」
ゆきをとかなみはロボットアニメの話題で盛り上がっている。
「今週のサーガ?」
あたしはそう聞いてみる。
「そう。もーやばかった」
このふたりは、部室に女子しかいないときは大抵、先週のアニメの話とか、マンガの週刊雑誌の話をしている。あたしは、アニメはほとんど見ないし、マンガは単行本で読む方だから、こういう話の時にはそれらしい相槌をうつくらいのことしかできない。
「あたしが知ってるかつイン勢全員爆死してたわ」
「やべーわみんなの薄い本分厚くなっちゃう」
「分厚くしてください! もっと分厚くしてください!」
一応は話題に絡む義務を果たしたあたしは、「よかったじゃん」、と返して、あっちゃんに借りたスケート漫画を読み始める。本当は数学の課題をやりたかったのだけれど、シャーペンも消せるボールペンも家に忘れてきてしまったので、やめておく。数学の課題は、消せないボールペンで書くと、ノートがぐしゃぐしゃになってしまうから。
滅多に使わない紫色の蛍光ペンなどと違って、毎日出したりしまったりするシャーペン、消しゴム、消せるボールペンの三点は、頻繁にどこかへ行ってしまう。入れ違いになくなったり、同時になくなったりするけれど、みっつとも揃っていることは、滅多にない。消せるボールペンは昨日見かけたから確実にあると思うけれど、シャーペンはしばらく見当たらないので、もしかしたら、本格的に無くしてしまったかもしれない。もし見つからなかったら、新しいものを買わなければいけない。
「前の夜なにがあったんてゆうさあ」
「ていうかあれさあ部屋ベッド一つじゃん」
「は、え、うそ」
「ガチよコマ送りして調べた」
「おやおや」
「おやおやあ」
このふたりと、それからここにはいないけどあいなは、BLが好きだ。いつも、漫画やアニメに出てくる男の子たちをくっつけて楽しんでいる。そして、SNSに流れる二次創作BLの絵や漫画を見て盛り上がっている。
ふたりは新キャラの誰それが受だとか攻だとか、カップリングするなら誰だとか、そういう話で盛り上がりはじめた。こうなると、あたしは完全についていけなくなってしまう。文芸部には女子しかいないので、男子に聞かれるよ、と話題を変えてもらうこともできない。BLは、話を聞くぶんには面白いのだけれど、ゆきをたちの会話の温度が高すぎて、合わせるのがちょっとしんどいのだ。これがあっちゃんだったなら、あたしは無理に、会話の温度を高くも低くもしなくてすむのに、と思う。
スケート漫画の一巻目を読み終わるか、終わらないかというところで、かなみが突然、ミルクセーキ飲みたい、と言った。
「なんでミルクセーキ」
「や、なんか無性に甘ったるいのが飲みたくなって」
「なんかその響きすごい懐かしいんだけど」
「あたししばらく飲んでない」
「あたしも。いつから飲んでないかわからん」
あたしたちはばらばらと立ち上がり、各々財布を持って地下食堂の自販機へ向かった。文芸部の部室は北館四階のはしっこにある。正確にいうと、最上階である四階のフロアから、さらに階段を少し登った、四.二階くらいのところにある。
「遠いわ、うちらの部室から地下食」
「部室何であんな変なとこにあるん」
「四階とちょっと、って、ちょっとの部分ほんま余計」
ぐちぐち言いながら、部室を出る。
「思ったけど、あそこ物置かなんかじゃない、元は」
かなみがいう。
「くそ狭いし窓はいっこしかないし人間用の空間って感じ全然せんもん」
遠い、と口では言うけれど、実際のところ、しゃべっていると地下にはあっという間についてしまう。
地下食堂は放課後になるとほとんどの明かりが消されているので全体に薄暗いのだけれど、自販機だけには明かりがついていて、煌々としている。その、輝く自販機の前に、人影がふたつあって、近づいてみるとそれは高木くんと君島くんと小峠くんなのだった。
三人の男子はあたしたちと同じ二年だ。高木くんがあたしと同じ七組、君島くんと小峠くんは十一組に属している。三人ともブラスバンド部に入っているので、練習の合間に飲み物を買いに来たのだろうなと思う。
「お前ら大挙してどしたん」
君島くんがあたしたちに気がついて笑った。自販機に近い側の頰がてかてか光って、暗闇に浮かび上がっていた。
「いや三人だし」
「大挙してないし」
「そっちと変わらんし」
あたしたちが口ぐちにいうと、君島くんは、あ、はい、すみません、と謝って、なぜだか、「おいっ」と言いながら、高木くんに肩をぶつけた。後ろで小峠くんが、「おいっ」と、君島くんの真似をしている。
「ミルクセーキい」
かなみが、あたしたちと喋る時より少しだけ高い声を出しながら、自販機に引き寄せられていく。自販機の明かりの中に、かなみの形の影ができる。高木くんは笑いながら君島くんに肩をぶつけ返している。ゆきおがそれをみて、ちょっと吹き出す。
「ミルクセーキ、あった」
かなみの影に聞くと、あったあ、と声が返ってくる。例の、ちょっとだけ高いキイの声が。
三台あるうちの、一番右側の自販機に、ミルクセーキはあった。
「お前らすごいもん飲むね」
高木くんが君島くんのお腹を殴る真似をしながら言った。
「や、ミルクセーキ飲むのはかなみだけよ」
ゆきをが答える。
「だってなんか、飲みたくなったんだもん」
言いながら、自販機に小銭を入れるためにかなみが少し身を屈める。自販機の中の影が低くなる。その脇で、あたしは真ん中の自販機に近づく。真ん中の自販機にならんでいるのはあまり見たことがないジュースばかりだ。その中に、エネルギー系炭酸飲料らしき、茶色いボトルのジュースがあった。これにしようかな、と思っていると、隣でものすごい音がした。
「なに、今の」
ゆきをと高木くんと君島くんと一緒に、あたしは一番端の自販機に近づいた。
「すごい音したけど」
「やー、や、つら、つらい」
しゃがんで取り出し口を覗き込んでいたかなみが、BLの話をしているときぐらいのテンションで笑い出した。
「ミルクセーキめっちゃ出てきとるつらい」
「ちょ」
「ガチで」
あたしたちは取り出し口を覗き込み、ええ、だとか、うあ、だとか騒ぎながらミルクセーキの缶を次々と取り出した。ミルクセーキは五本出てきた。
「お前、どうすんのこれ」
君島くんが聞く。
「え、みんなもらってくれるんよな」
そう言ったかなみの手には三本のミルクセーキ缶がある。残りの二本は、高木くんが持っている。
「ええ、俺、甘いの苦手なんだけど」
高木くんがそう言ってミルクセーキをかなみに差し出す。
「いやいや、いけるいける」
かなみは差し出されたミルクセーキをやんわりと押し返す。
「いやいやいや、大丈夫五本くらい余裕しょ」
「いやいやいや」
「じゃあゆうちゃん」
高木くんの手が、あたしの方に回ってくる。
「いやいやいやいや」
あたしはかなみの腕の中からミルクセーキを二本取り出し、うち一本をゆきをに手渡した。
「こういうことで、ひとつ」
高木くんは両手にミルクセーキを持ったまま、マジかよお、と言う。
「あー、甘そう」
「あとでお茶でながそ」
「いやいや、味わってよ」
「じゃけ甘いの苦手なんだって」
口では嫌そうなことを言っているけれど、あたしたちはみんな、不思議とにやにやしている。高木くんと君島くんは、にやにやしたまま、また肩をぶつけ合う。そうして、ミルクセーキを持ったまま、地下食堂の階段を登っていく。
「よろしくう」
かなみが、やっぱりにやにやしながら、その背中に声をかけた。あたしたち三人しかいなくなった自販機前は、数秒の間しんとしたけれど、すぐにゆきをが笑い出したので、あたしとかなみもつられて笑った。笑いながら、ゆきをが、なあ変なこと言っていい、と聞く。
「BLネタだけど」
「うわ予想ついた」
かなみがますます笑う。
「ゆきをそれあかんやつ」
「あかんか」
二人はお腹を抱えている。わたしだけが、何も分からないままで、それでもさっきまでの流れで、笑いながら、
「え、何、何言うつもり」
と聞く。かなみが、ほらあ、と声を上げた。
「ゆうちゃんおるけえさあ」
「ごめん、ごめん」
ふたりはますます笑う。あはは、あはは。一方で、わたしの笑いは次第に曖昧になってしまう。
「ええ、何よ」
「あっ、あっ、何でもない、忘れて」
「あかんやつ、あかんやつ」
ふたりの笑い声がくらい地下食堂にけたたましく反響している。ふたりの声に取り囲まれて、あたしもまた、曖昧に笑い続ける。あたしたちはきらめく自動販売機の前で、ミルクセーキの缶を握りしめながら、笑い声を響かせた。
あっちゃんが見せてくれた写メの角度がよかったのかもしれないけれど、アンソニーさんは思ったよりもずっとジョセフに似ていた。
あっちゃんとの帰り道、あたしたちは商店街にある若者むけのカフェに寄った。そこで、アンソニーさんの写真を見せてもらったのだ。あたしは、見せてもらっていたスマホをあっちゃんに返してカフェモカを口に運んだ。それからうーんと唸った。
「なんか、ほんとに似ててちょっと悔しい」
アンソニーさんがジョセフに少し似ている、それを認めることが、妙に悔しい。
「悔しいんだ」
あっちゃんが意外そうな声を出すので、だんだんと、何が悔しいのだか、わからなくなってくる。そもそもあたしは悔しかったんだろうか。似ているのだから似ているで、いいのではないだろうか——それでも出した言葉を引っ込めづらくて、あたしは、
「なんか、悔しいんよ。ちょっとね」
と答えた。あっちゃんは、気のない感じで、ふうん、と、ため息みたいな相槌を打った。その相槌のせいで、あたしは落ち着いて座っているのが辛くなる。今、少し、意地を張った。意地を張ったと、自分で思う。なのにどうして、ごめんやっぱり今のなし、と、言えないんだろう。こんなところで意地を張る必要なんて全然ないのに。あっちゃんはあたしの友達なのに。
「アンソニーに、ジョセフに似てるって言われたことないか聞いてみたんだけど、そしたらアメリカで二回、日本で三回言われたって」
あっちゃんの手元には、カプチーノがある。スティックの砂糖を二本入れた、すごく甘いやつ。
「だろうね。正直、目元とか、身内レベルで似てると思う」
そう言った後で、アンソニーさん、ちょっと持ち上げすぎたかな、とあたしは後悔する。なんかちょっと、不自然だったな。さっき、似ているのが悔しい、と言ってしまったことが、持ち上げすぎにつながってしまったな。
あっちゃんはあたしのそういうずるさには全然気づかない顔で笑った。
「ファンがそう言ってたって伝えとく」
「英語で」
「うん」
「身内レベルってどう言うの」
「わかんないけど。リラティヴ・レヴェル、とか……」
あっちゃんがちょっと本気の発音でそう言う。わざとらしくも自慢げでもなくて、あくまで、「わかんないけど」というふうに、首を傾げながらだから、あたしは素直に驚ける。
「あっちゃん実はめっちゃ英語できるよね」
「めっちゃはできん。すごい頑張ったらニュアンス的なものは伝わる、くらいだし」
「ニュアンス伝わるのもすごいと思うけど」
「そうかな。ほとんど根性みたいな世界だけど」
「根性」
聞き返しながら、暖かいカフェモカのカップを両手で包む。そうしてカップの表面を、親指でなぞる。あったかくてかさかさした、紙のカップの感触。
「日本語だと、頑張らなくても伝わるから」
あっちゃんはカプチーノをひと口飲む。
「伝わってないなって思ってもさ、日本語の伝わってなさって英語の伝わってなさと比べたら全然、英語ってすごい頑張らないと伝わらないから、ガチで食いついてさあ、それでなんとか、でもだんだんそのガチなのが普通になってくるっていうか」
「よくわかんない」
今度はあたしが首を傾げた。あっちゃんの日本語が、伝わらない。英語の伝わらなさ、が、全然伝わらない。伝わってないなって思ってもさ、日本語の伝わってなさと比べたら全然。心がさざめく。不安、という文字が、ぼんやりと浮かぶ。
「一回、レッスン来てみたら」
あっちゃんが言う。今度はあたしのわかる言葉で。
「きたら、わかると思うし。それにゆう、英語の映画とかよくみてるから、もしかしたらあたしより上達するかも」
「字幕に頼ってるからほぼ聞いてないよ」
あたしは笑ってカップの中身を飲んだ。乳臭くて、もったりしていて、少し苦い。どうしてか、さっきまでとは違う味のように思ったけれど、そもそもさっきまでの味を、あたしはもう忘れてしまっている。
「スピードラーニングとかあるじゃん、あれと似た感じじゃないの」
「そんなじゃないと思うけど。わかんないけど」
会話は穏やかに進んでいって、あたしはだんだん、今飲んだカフェラテの味も忘れていく。
高木くんとつきあう事になった。中間試験の後、SNSで告白されて。取り立てて仲良くしていたつもりはなくて、せいぜいミルクセーキ事件の時に、ミルクセーキを押し付けあったくらいのものだったから、付き合うだとかは、想像していなかった。
高木くん。クラスの同じ班で班長をやっている。部活動はブラスバンド、楽器はティンパニー。好きな食べ物はみかんとチーズ。そういう、当たり障りのないことは、班でのグループワークの時なんかに話して知っていた。でも、それ以上のことは、よく、知らない。
その高木くんからメッセージが送られてきたのは、試験最終日の夜だった。これからお風呂に入ろうとしているところへ、不意打ちで送られてきた。
高木くんのメッセージは、なんというか、ものすごかった。最初の、話あるんだけど、と、いうメッセージがもう、すごい。がちがちに真剣すぎる。話あるんだけど、なんて。あんまり真剣そうだったので、あたしは最初、何か高木くんを怒らせることをしたのかもしれないと怯えたのだけれど、そんなのはほんの序の口だった。今から真剣な話するから、と、改めて真剣さを強調するメッセージがきた、と思ったら、最近好きな人がいます、と続き、その人は笑うところがかわいくて、ちょっと抜けてるとこが面白くて、と、好きな人、すなわちあたしのいいところの描写が進み、そんなゆうが、おれは好きです、とクライマックスを迎えた。
どんどんメッセージが送られてくるし、そのどれもが相当の熱量を帯びていて、あたしはびっくりしすぎて、高木くんが一通りの告白を終える間、うんともすんともメッセージを返せなかった。
そんなゆうちゃんが、おれは好きです、の所で、高木くんのメッセージはひとまず途切れた。あたしは回らない頭で、何か返さないと、と焦った。こういう場合、いきなりごめんなさい、とかいうのはまずいよな、でもそんな、付き合うとか、すぐに返事できないし、と、いろいろ考えて、びっくりした、と返した。高木くんからの返信はなかなか来なかった。あたしは、高木くんを傷つけてしまった可能性を考慮し、また少し悩んだ末、なんかありがとう、と送った。この一言が、余計だった。すぐさま返信がきた。よかった、嬉しい。
あれ、これ、思ってたのと違う、などと思っていたら、考える間も無く「明日、迎えに行っていい」だとかが送られてくるので、なんだかもう、付き合う流れになってしまった。本当は考えてから返事をしたかったのだけれど、今更ごめん、と断るのもやりづらかった。もう、いいかな。高木くんのことがすごく嫌いなわけではないし、その高木くんはすごく喜んでいるし。あたしも、付き合う、ということに興味がないこともないし。
それで、付き合うことになった。
「流されてない、それ」
一通り説明し終わると、あっちゃんは怪訝そうにそうコメントした。
高木くんとのことはその日のうちにあっちゃんへ報告していたのだけれど、詳しい話をするのは事件の二日後の今日が初めてだった。あたしたちは郵便局の前を通って、スクランブル交差点にたどり着く。この間まで枝ばかりだったように思うのに、街路樹にはもうふさふさと葉っぱが茂っている。
「そうだけど」
あたしは葉っぱがそよぐのを見ながら答える。
「なんかもう、流されてもいいかってなって」
葉っぱは気持ちよさそうに風に乗り、ひるがえっている。街路樹の向こうでは、銀のような青のような色をしたビルが太陽の光を反射している。ブランドの洋服やさんや雑貨屋さん、本屋さんなんかがたくさん入っている、二十階建てのビル。少し前までけっこう流行っていて、お母さんなんかと買い物をするときには大抵ここだった。
駅前に大型のショッピングモールができて、ちょっと取り残されてしまったそのビルの窓硝子は、どれも綺麗に磨かれてぴかぴか輝いている。そのぴかぴかは、あたしを寂しい気持ちにさせる。
「まあ、勢い大事とか、いうけどさ」
あっちゃんはそういいながらサイドバッグ(あっちゃんのサイドバッグは、緋色だ)からスマホを取り出す。ビートルズのなんとかという曲のジャケットが印刷してあるのだというスマホケースがあたしの視界の右目のあたりをかすめた。
「でさ、朝は一緒に登校することになったんだけど」
「待ってそれ親に即バレじゃん」
「そうなんよ朝すぐお母さんにばれて」
「うわあ」
あっちゃんがスマホを触っていた手を止めてあたしを見た。あたしはそれに気をよくして、やばかった、と、少しだけ大きな声をだす。
「昨日帰って、そしたらもーなんか、テンション高くて色々聞かれて」
仕事から帰ってきたお母さんが言ったことを、わたしはかなり正確に再現できる。ただいまあ、ゆうちゃんあれだれ、あれあれ、朝の男の子、迎えにきてたじゃん、彼氏、彼氏でしょ、同級生? この間言ってた子? ほらあの、隣のクラスの……ええー、じゃあ誰。紹介されたの。同じ学校の子。クラスの子。名前は誰くん。——あたしはその合間に、なるべくお母さんを刺激しないよう、別に、とか、まあ、とか、やや曖昧な言葉であいづちを打った。あまり何も聞かれたくなかったし、お母さんの甲高い声が耳に刺さって嫌だった。
「やっぱさあ親に聞かれたらさあ、そういうの恥ずかしいっていうか、なんていうか」
あたしたちは橋を渡り切って立ち止まった。橋のたもとには、赤い煉瓦が敷き詰められた、ちょっとした広場がある。あっちゃんとは、いつもここで別れるのだけれど、大抵は別れがたくて、この広場で少しの間立ち止まるのだ。少し向こうで、広場に植えられた木が、赤い煉瓦の上に木陰を落としていた。
「多分、イタタマレナイ」
あっちゃんがスマホをしまいながら言った。
「え?」
遠くの木陰を見ていたあたしはあっちゃんの方へ顔を向けた。
「恥ずかしいっていうか、なんていうか、わかんないやつのこと。それイタタマレナイってやつだよ」
イタタマレナイ。
わたしは声にだして呟いた。イタタマレナイ。声にだしてみると、なるほどたしかにしっくりくるような気もする。
あっちゃんは昔から、なんだかこういうことがうまい。定義する、と言えばいいのだろうか。保育園の頃も、より美しいどんぐりや、より化石らしい石の形をすいすいと決めていた。例えばこうだ。
「これ、ほそながいでしょ。ふつうこんな石ないからね、だからあたし、こういうのをね、化石のいしって言うことにしたの」
あれは確か秋で、ふうのきさんの一階でのことだった。
ふうのきさん、というのはあたしたちが通う保育園に生えていた木だ。保育園のお庭には、滑り台やら登り棒やら、いろいろなものがくっついた、秘密基地みたいなアスレチック遊具があった。その遊具のど真ん中を貫いて生えていたのがふうのきさんだ。多分あの遊具を作った人が、ふうのきさんを真ん中に置いてデザインしたのだと思うけれど、ともかくあたしたちは毎日その遊具にまぶりついたり、ふうのきさんが落とす木の実や三つ又の葉っぱを集めたりして遊んでいた。あたしたちは、木そのものをふうのきさん、と言ったり、木を含めた遊具全体をふうのきさん、と言ったりしていた。ふうのきさんの一階というのは、だから、遊具の一階、ということだ。まるたざかとロープのうみとふうのきさん——この場合は木のこと——の幹に囲まれたその空間を、あたしたちふたりは「一階」と呼んで重宝していた。あの狭い空間を利用する子はあたしたち以外にはあまりいなかったし、いつも薄暗く、静かなそこは秘密の話をするにはもってこいだったからだ。
あのときも、あたしたちは「一階」で、ひっそりとふうのきさんの幹に寄りかかっていた。他の子たちが騒ぐ声が少し遠くて、お尻の下の砂はひんやりとしていた。ポケットからそっとティッシュに包んだ石を出したあっちゃんが、小声で言ったのだ。これ、ほそながいでしょ。ふつうこんな石ないからね、だからあたし、こういうのをね、化石のいしって言うことにしたの。まるで大切な秘密を打ち明けるみたいに。化石のいし。その言葉には何かが宿っていた。少なくとも、あたしに対しては大変な力を発揮した。
あたしはあっちゃんの手のひらの上の石を見つめた。あっちゃんの手の中にあった、ただの細長い石はなくなって、代わりに化石のいしがそこにあった。ねえ、さわっていい。あたしは聞いた。ちょっとだけだから。あっちゃんは、こわれやすいから、だいじにするなら、いいよ、と言って、あたしが石に触るのを許してくれた。あたしは石を撫でてみた。石はなんだかがさがさしていた。たいそう壊れやすそうで、それがまた、はるか昔のもの、風化したもの、という感じをあたしにもたらした。
これが、化石のいしかあ。
あたしはそう言いながら、そのがさがさを、うっとりと撫で続けた。おやつの時間の鐘が鳴るまで、撫で続けた。
「花火、見に行かん」
高木くんが言った。駅の中にあるフードコートでたこ焼きをシェアしているときだった。
期末試験の一週間前になると、先生や保護者の目が厳しくなって、下校途中の寄り道がしづらくなる。その前に、ということで、付き合って一ヶ月の記念日をお祝いすることになった。それが今日だ。
高木くんとふたりきりで何かするのは、これで五回目だ。そのうち四回は今日みたいな下校途中の寄り道で、一回だけ、休みの日に出かけた。映画を観にいったのだ。漫画を実写化した日本の映画だった。本当はジョセフの出るアメコミヒーローものの新作も候補に上がっていたのだけれど、あっちゃんと先に約束していたから避けてもらったのだ。高木くんと観た映画は、地味なヒロインが全然タイプの違う二人の男の子から好きだと言われて戸惑う、よくある感じの恋愛ものだった。あたしには、ふうん、というくらいだったのだけれど、高木くんは少し泣いていた。バスケ部の方の男の子が骨の病気になってスポーツができなくなって、誰もいない体育館で泣き崩れているシーンだった。
「花火」
あたしは口の中に残ったたこを飲み込んでから、聞き返した。
「うん。笠岡のやつ」
「電車とかでいけるの」
「兄ちゃんと彼女が行くって言ってる。一緒に乗せてもらおうや」
あたしはその言葉に、少しひるむ。
高木くんのお兄さんは、話には聞いているけれど会ったことのない人だし、その彼女なんて、話題にものぼったことがない、ぜんぜん知らない人だ。初対面の人の、しかもデートに行く最中の車なんて、絶対に落ち着かない。
「いいよ。悪いよ」
「大丈夫よ。にいちゃんも一緒いこーって言っとるし」
「いやけどお兄さんのことも彼女さんのこともあたし全然知らんから」
「二人ともすげえいい人だから、いけるいける」
「いや、ほんと、なんか邪魔するみたいで気まずいし」
「いけるって。半分あっちから誘ってきたみたいなもんだし、とにかく八月一日、あけといて」
高木くんは、あたしの懸命の辞退を、ただの遠慮と取っているようだった。
「電車で行こうよ」
「電車だと会場から遠いし、座れないかもしれんけえ。にいちゃん安全運転する方だから」
これだけ説明しても、高木くんはびくともしない。なんで伝わんないんだろう。あたしは少し、うんざりしてくる。会場から遠いとか近いとか、運転が安全だとか危険だとか、そういうことではないのだ。
「なんか、別にいいよ、そこまでしていかなくても」
「たいしたことじゃないって。おれ去年行ってさあ、すげえ綺麗だって思ったから、ゆうにどうしても見せてえよ」
高木くんは、それを皮切りに花火大会の説明をし始めた。笠岡はさあ、今年は六千発だって、花火。去年五千発でもすごかったのに、それが六千発。これすげえって。ゆうも絶対感動する。てか、おれが感動させるから。
高木くんはそう力説するけれど、根本的なことが、わかっていない。あたしは花火には、そんなに興味がない、ということが。花火が何発あがるとか、だから絶対感動するんだとか、いくら説明されても、全然入ってこない。だいたい、絶対たのしいとか、絶対感動するとか言うけれど、その絶対って、どういう絶対よ。
けれど、そんなことを言って、熱く語っている高木くんの気分を壊すのはためらわれる。そもそも、今の高木くんに、あたしの言葉が通じるかどうかも、わからない。高木くんの話に生返事をしながら、あたしはむしょうにあっちゃんと喋りたくなる。
「ゆうってほんと人見知りよなあ」
うん、だとか、ううん、だとか曖昧に相槌を打っていたら、高木くんが急にそんなことを言うので、あたしはびっくりして我に返った。
「そんなこと、ないと思うけど」
あたしはまごまごしながら答えた。自分のことを、人見知りだと思ったことはない。お母さんにもお父さんにも、そんなことを言われたことはないと思う。
「にいちゃんと彼女さんには会いたくないんでしょ」
なのになんで、高木くんの中ではそういう風になってしまうんだろう。
「会うのは全然いいけど、あっちもデートじゃん。それで長時間同じ車でしょ。なんか、気まずいじゃん。そこまでしていきたいわけじゃないから」
「それが人見知りっぽいって。気まずくないが、全然」
「そういうことじゃなくて、二人で電車で行けばええが。なんでそんなに車で行きたいん」
「いや、逆になんで車で行きたくないの。楽じゃん」
「だからあ、どんな人かわからんし、邪魔してるみたいだし、何話していいかわかんないし、気まずいの」
「心配しすぎじゃろ。ふたりとも面白いよ」
「そういうことじゃないってゆってるじゃん」
「やっぱ、人見知りだな、ゆうは」
高木くんは笑いながら、話を元の地点へ戻してしまう。あたしが言いたいのはそういうことではないのに、高木くんはさらに、絶対いい思い出になるし、もっと前向きにたのしんでこうよ、と付け足す。まるで、車に乗りたくない、ということが、花火のことがそこまで好きなわけじゃない、と思うのが、後ろ向きなふうに言う。
中間が終わったあとの半日授業日に、あっちゃんと映画を観に行った。今度こそ、ジョセフ・ノーマン主演の新作だ。あたしたちはなかばしのたもとで路面電車に乗って、映画館が入っている駅前のショッピングモールへ向かった。空は濃い青で、そこから降ってくる鋭い日差しは歩道やアスファルトをがんがん焼き、あたしたちの口から、暑い、という言葉を何回も引き出した。路面電車の中は空調が効いていたけれど、あたしの汗は全然引かなくて、ひっきりなしにタオルハンカチをくびやひたいに当てていなければならなかった。
「汗だくじゃん」
隣に座ったあっちゃんが、あたしの方を見てそう言った。
「もう、言わんでよ。汗かきやすいんだって、あたし」
あたしは声を張る。路面電車は走っている時の音がものすごく大きいので、声を張らないととても聞こえづらい。
そういえば、制汗剤を学校のロッカーの中に忘れてきてしまった。持っていたとしても、路面電車の中では使えないのだけれど。
「昔からそうだっけ」
「覚えてないけど、小学校の時にはもうこんなだった」
一方のあっちゃんは少しも汗をかいていない。少なくとも、顔とか、腕とか、目に見える範囲には。
「あっちゃん羨ましいわ。あんまり汗出なくて」
「よくはないけど」
「なんで」
「だって、汗でないってことは体温調節できてないってことなんじゃないの」
それに、寝汗はめっちゃかく、と言って、あっちゃんはにやっと笑った。あたしもそれにつられて、笑ってしまう。
路面電車は大通りを通って駅へ滑り込んだ。座席から立ち上がって、汗のせいで太ももに張り付いていたスカートをなんとなく剥がしながら、路面電車を降りる。急に夏の日差しが戻ってきて、目がちくちくする。隣ではあっちゃんが日焼け止めをスプレーしている。
「スプレーのって、どうなん」
あたしは目を細めながら聞く。別に本当に気になっているわけではないのだけれど、何も喋らないでいるよりかはましだ。
「楽だけど、すぐ落ちる」
あっちゃんがスプレーをサイドバッグにしまう。
「ずっと外にいるときは塗るやつの方がいいと思う、やっぱり」
あたしたちは駅の地下に入った。ショッピングモールは駅と地下で繋がっていて、地上を行くよりもはるかに涼しくたどり着ける。エスカレーターを降りて本屋の前を通り過ぎ、ドラッグストアに少しだけ寄り道して、ショッピングモールへ入った。上映は二時からだったので、モールに入っているファストフード店で昼食にした。あたしはチーズバーガーのオニオンリングセット、あっちゃんはマスタードチキンバーガーのフライドポテトセットをトレーに乗せて、四人がけの席に着く。平日の昼間は空席が多いので、席を潤沢に使える。
「休みの日じゃなくてよかったね」
マスタードチキンバーガーの包みをあけながら、あっちゃんが言った。
「土日は戦争みたいだもんね」
あたしはバーガーより先にオニオンリングを口に運んで答えた。土日のファストフード店は、中高生でごった返している。席がなかなか取れないし、席を探したり、トイレに立ったりする人が多くて、店内を移動するのもおっくうだ。
「映画も席、空いてるかな」
「いけると思う。先々週から上映してるし、平日だし」
おしゃべりしながら、あたしたちはあっという間にバーガーを食べ終える。ハンバーガーはどうしてこんなにするすると体の中に収まってしまうのだろうと、いつも疑問に思う。そうめんだったら、わかる。ほとんど噛まずに飲み込めるし、さっぱりしているから。けれど、ハンバーガーという食べ物は、そうめんほど噛まなくてすむ食べ物ではないし、さっぱりもしていない。だというのに、いつも気がつくと包みの中からなくなっている。お腹に収まっている。
シネコンのロビーは土日よりもずっと人が少なかった。二十代くらいの男の人、友達同士らしきおばさんの三人組。それから、制服を着た子たちが何人か。その中に、あたしたちと同じ制服を着た子のグループもひとつあった。
高木くんとも、このシネコンで映画を観た。今の三倍は人がいて、ロビーは老若男女でごった返していた。高木くんとあたしははぐれないように手を繋いで、チケットやジュースやポップコーンを買った。
「とりあえずチケットいこ」
そういって、あっちゃんはすいすいと発券機へ近づいていく。あっちゃんは恋人ではないし、こんなに人が少ないので、はぐれる心配だってそもそもないのだけれど、あたしはあっちゃんの手首を掴む。ほそい手首は、少しひんやりとしている。あっちゃんがあたしの方を振り返って笑い、あたしが掴んだ側の手のひらを開いてみせた。あたしは手首を離して手のひらに手のひらを重ねた。あっちゃんのてのひらは、手首と同じくらいの温度をしている。汗をかかないわけだ。あっちゃんが歩く速度を緩めてあたしにくっついてくる。あたしたちはくっつきあって発券機へ向かっていく。
映画はアメコミヒーローシリーズものの四作目だ。太古の地球に、宇宙から隕石が降ってきて、それをジョセフの親友のお父さんが発掘するのだけれど、それは実は隕石にカモフラージュした宇宙船で、その宇宙船が運んできたのは高エネルギーを秘めた石だった。その石を、たまたま遺跡見学にきていた主人公——ジョセフ・ノーマンが演じている役だ——が拾ってしまった。石は主人公を宿主と認めて体に入り込み、主人公は石のエネルギーで超人的な能力を手にいれる。この主人公は、能力はあるけれどわがままで、皮肉屋で、最初は石の力を自分のために使っていたけれど、敵の宇宙人が放ったモンスターに立ち向かって死んだ父親の志を継いでヒーローになった。
今回の話は、イタリアと、メキシコ、ニューヨークでそれぞれ一体ずつ人型の怪物が出現する、という話だった。その怪物は、元々はジョセフに埋め込まれた石と同じ星からやってきて、地球の地殻の中に眠っていたのだけれど、黒幕の科学者によって蘇った。この科学者というのが、以前、他のヒーローものとのクロスオーバー作品で取り逃がした敵だった。
「ああいうのちょっとずるいよね」
あたしはバジルとモッツァレラチーズの石焼パスタを巻き取りながら不平不満を漏らす。
「クロスオーバーも全部見てないと話がわかんないのって」
あたしたちはさっき見た映画を議題に、フードコートで昼ごはんを食べている。
「まあ、不親切よな。クロスオーバーってなんだかんだ言って主役はメジャーなヒーローじゃん。好きなヒーローが扱い低かったら微妙だし、そもそも出てないヒーローもいるわけだし」
「そうほんまそれ」
クロスオーバーで色々なアメコミヒーローが出てくる映画も多いけれど、あたしもあっちゃんも、それほど好きではない。ヒーローがたくさんいると、人気のキャラが主人公になって、他のヒーローが脇役扱いになってしまう。どのヒーローも、それぞれの作品では、主人公なのに。
「今回の敵が出てたやつもさあ、ジョセフそもそも出てなかった」
「え、そうなん」
「最初から最後まで観たけど出てこなくて、はーもーくそがって思ったから覚えてる、間違いない」
「ないわ」
「じゃろ」
あっちゃんの同意を得て、あたしの声はつい上ずってしまう。
「や、わかるよ、全部繋げて、全部観せよう、っていうビジネスみたいなやつでしょ。わかるけど、それはさすがになくない」
「ない。全然わかってない。なにそれビジネス大好きおじさんが思いつきそうなつまんない発想」
あっちゃんが真面目な顔で、ビジネス大好きおじさん、などと言うので、いかっていたはずのあたしの方が少し笑ってしまう。
「ビジネス大好きおじさん、すごいわかる」
「キビシーよな、ビジネス大好きおじさんの発想」
「ほんま、キビシー。ジミントー的な感じ」
「わかる、ハコモノギョーセー」
「ジーディーピーガシンジユーシュギデ」
「ヘイキンカブカガア」
あたしたちはなんとなく聞き覚えがある、それでいてビジネス大好きおじさんめいていると思われる言葉を投げ合って、ばかみたいに笑った。笑いながら、石焼きパスタのお皿を空にした。
「あ、ねえ夏休みどうすんの」
ビジネス大好きおじさん、から、ジョセフの子どもがかわいい、という話題に移って、その話題も一段落したので、あたしは聞いてみた。
「なんか計画してるとか言ってなかった」
「あ、それで映画も夏休み外してもらったんだっけ」
「うん。結局何だったの」
「ホームステイ行こうと思ってて」
ホームステイ。あたしの声はまた上ずってしまった。
「え、外国、行くってこと」
どこか近くの席で赤ちゃんが泣き始めた。
「うん。カナダ」
「カナダ」
「ほんとはアメリカが良かったんだ。ワシントン。でも今有色人種は行かない方がいいって、親に止められて」
ワシントン。ワシントンって、どこだ。あたしの口元は笑いの形に歪んだ。別に何かが愉快な訳ではないのに。
「ていうか、なんでホームステイ。英語好きだから」
「や、英語は好きなんだけど、それは、手段、ていうか」
「留学とかしたいの」
「じゃ、ないんよ。えっと、宇宙飛行士になりたくて」
口から、え、とも、あ、とも取れない奇妙な声が出た。宇宙飛行士、という言葉と、なりたい、という言葉と、あっちゃんのみっつが、私の頭の中にばらばらに浮かんだ。
「宇宙飛行士って、ガチの」
あっちゃんはにこにこ頷いた。
「JAXAかNASAに入りたい。でもできたらNASAかなあ、やっぱ」
あたしは言葉を告げなくなった。宇宙飛行士。なりたい。あっちゃん。言葉は浮かんだまま、全然結びつかない。だってその三つは、ものすごく遠い。
「だから、英語」
「うん。いろんな人とコミュニケーション取らないといけないから、英語は必須なんだって」
「で、ホームステイてこと」
「そうそう。住むのが早いらしいから」
あっちゃんははきはき答えてお冷やを飲み干した。その様子が自慢げに見えたら、面倒くさいな、と思って、流すことができたかもしれないのに。そんな風に自然にされたら、あたしはもう、ただただへええ、と感心の声を出すことしかできなくなってしまう。
「なんか、決まってるんだね、色々と」
あたしの声が、ざわつくフードコートに溶けた。
「そんなことないよ。こないだまで本当に行くことになるかわかんなかったし」
「じゃなくて、こう、将来のこと、とか」
「でもさゆうちゃんだって、行きたい方面決まってるじゃん」
生物系でしょ。あっちゃんに、こともなげにそう言われて、あたしは左腕につけた腕時計の盤面を撫でた。それは高木くんが高木くんと映画を観た帰りに買ってくれた桃色の腕時計です。
生物だけは、なぜか成績いいのよねえ。先生にそう言われて、その気になった。あたしが生物系に行きたいのは本当にそれだけの理由で、ほかには何もない。なんとなく、成績がいい方へ行けば、あたしはそれでいい。けれども、それをあっちゃんの前で言うことがなぜか憚られた。フードコートのざわめきが、赤ちゃんの泣き声が、すーっと頭に入ってきた。
なんだっけ、これ、そう、イタタマレナイ。
不意に、あっちゃんの言葉を思い出す。
そう、すごく、イタタマレナイ。泣き声はますます激しくなって、あたしはうーん、と曖昧な声を出しながら、顔だけで笑っている。
夏の蝉の声はシャワーみたいだ。つよい日差しと一緒に、頭の上からまんべんなく降り注いでくる。まんべんなく、ということを考えると、家のシャワーではなくて、プールに入る前に浴びるシャワーの方がそれらしいけれど、それだとすごく冷たくなるので、つよい日差しと一緒に、という、暑さの感じからいうと、外れてしまう。
「お茶漬け、食べるの、食べないの」
お母さんが台所の引き出しを覗き込みながら聞いてきた。
「食べる」
あたしは温めた冷凍ごはんを電子レンジから取り出しながら答えた。さっき電気ケトルのスイッチを入れたから、お湯ももうすぐ沸くと思う。
「あっつい」
ぼやきながら、ごはんを包んでいるラップをはずしていると、お母さんがすかさず、
「ごはんが。夏が」
と聞いてくる。
「りょーほー」
ひらがなで答えて、ラップをはずしたごはんをお茶碗に入れる。それから、お母さんが出してくれたお茶漬けのもとの袋を破って、ご飯の上でひっくり返す。緑色のざらざらしたものとあられのつぶ、短冊の形をしたのりが湯気のたつご飯を覆い隠していく。お母さんはあたしの回答には特にコメントせず、
「かずま、お茶漬けは」
と、テーブルに着いたまま動かないかずくんをせっついている。
「いらん」
かずくんの低い声が聞こえる。
「おい、お湯は」
お父さんがお茶碗を持ったまま冷蔵庫のあたりでうろうろしている。
「かずま」
お母さんが、また聞く。
「お茶漬け。どっちなの」
かずくんはあたしの弟で、中学一年生だ。声変わりはまだしていないのだけれど、朝はいつも機嫌が悪くて、ぼそぼそ低い声で喋る。そのせいで、お母さんみたいに台所の奥に引っ込んでいると、声が全然聞こえないのだ。
「いらんって」
かずくんが声を張る。
「お湯」
「さっきからなに」
お母さんがお父さんにむかってちょっといかる。
「沸かしてないんか」
「沸いてるでしょ、自分で見て」
「待ってお父さんもお茶漬けするの」
テーブルの上から電気湯沸かし器を取り上げながら、あたしはお父さんを睨む。
「そんな沸かしてないんだけどお湯」
「ちょっとくれ」
「いや聞いてないんだけど」
「ちょっとでいいから」
「なんで沸かす先に言わんの」
「ちょっとだけ」
あたしとかずくん、四人家族のうちのふたりが夏休みだけれど、朝の食卓の忙しなさは不思議と半分にはならない。あたしはお茶碗を持ってテーブルに着くと、先に置いてあった麦茶を飲んだ。着替えたばかりなのに、もう背中が汗ばんでいる。お湯を入れたばかりのお茶漬けをスプーンですくって口に運んでみるけれど、まだまだ熱すぎて、かきこめそうにない。あたしの向かいでは、かずくんが卵かけご飯を食べている。その向こうで、ベランダに通じる硝子張りの引き戸が開かれているのが見える。網戸から、ぬるい風と蝉の声が一緒になって入ってくる。
「テレビ、音上げて」
お父さんがお茶漬けをすすりながらあたしに要求する。
「天気予報見んと」
「じぶんの方がリモコン近いが」
テレビとテレビのリモコンは引き戸のすぐそばに置いてあって、お父さんの席はかずくんの隣だから、リモコンに近い順は、かずくん、お父さん、あたし、お母さんだ。
「かずくん」
「……」
かずくんはむっつりと黙ったまま卵かけご飯を箸ですくっている。
「かずくん」
「自分でせえ」
「ゆうちゃん、お願い」
「なんでよ、もう」
あたしは席を立った。リモコンはテレビの向かい側に置いてあるソファに雑に放置されていた。音量を上げると、蝉の声の中から朝の情報番組のBGMが浮き出してきた。
「東京の今日の平均気温は三十度」
テレビの中のお姉さんが言う。東京の気温なんて聞いても仕方がないのに、どうしてあたしたちは毎朝真面目に一連のお天気ニュースを視聴してしまうのだろう。
席に戻って、まだ熱いお茶漬けをちょびちょびすすり始めると、お母さんが食パンが乗ったお皿とブルーベリージャムのびんを持ってきて、あたしの隣に座った。お父さんもかずくんもあたしも、朝はご飯の方が好きだけれど、お母さんだけはかたくなにパンを食べる。
「今日は何かするの」
「なんも」
「かずまは」
「なんも」
「なあにそれ、つまんないわねえ」
お父さんはもうお茶漬けを食べ終えてどこかへ行ってしまった。テレビの音量、あげさせといて、何それ、とぼやいていたら、かずくんが、お疲れ、と言ってくれた。
あたしが汗だくになってお茶漬けを食べおわるころには、食卓には誰もいなくなっていた。お母さんは仕事の鞄にスマホや車の鍵を詰めた後、
「食べたもの、食器洗い機に入れといてよ。かぴかぴにしないでよ」
と言いながら家を出て言った。お父さんは、いつのまにか出て行ったようで、お母さんが出かける少し前にはいなくなっていた。かずくんは卵かけごはんを食べたあと、さっさと部屋に戻ってしまった。
あたしは静かになったリビングでお茶漬けを食べ終わると、お茶碗とお箸、コップを流しで簡単にゆすいだ。キッチンに取り付けられた食器洗い機を引き出して、他の家族が入れた食器の間にお茶碗とお箸とコップを入れる。それから流しの下の引き出しから洗剤粉を取り出して、専用のスプーンで粉をふりかけ、食器洗い機を閉めて電源を入れる。緑色のランプが二つつく。ひとつは電源ランプで、もうひとつは食器洗いのメニューを選ぶためのランプだ。少なめ、とか、油もの、とか、いくつか選択肢がある中から「すくなめ」を選んで、開始ボタンを押すと、食器洗い機はすぐにごうん、ごうん、とうなり始めた。
洗剤をしまいながら、部屋に戻るかどうするか、考える。考えるあたしの耳には、食器洗い機の音と、朝の情報番組で女の人が喋る声が聞こえている。台所の小窓から見上げた空は綺麗に晴れていて、かといってまだそれほど暑くもない、ちょっと気持ちのいい朝だ。狭い自室にこもってしまうのは勿体無いような気がする。リビングにいようかな。あたしは思い、思いながらもう、部屋へ戻ってタオルケットを持ち出している。
夏の課題、という言葉が頭の隅にあるけれど、それほど主張してこないのをいいことに、あたしはタオルケットに包まり、ソファに寝そべった。それから動画配信サイトで無料の洋画を見始めたのだけれど、いつの間にか、寝入っていた。
目を開けると、薄い黄色と白色が見えた。黄色はタオルケットの色で、白はソファの色だ。タオルケットをはいで起き上がると、背中にびっしょり汗をかいていた。何か夢を見ていたはずだったけれど、すっかり忘れてしまった。
食器棚からコップを出し、冷蔵庫の麦茶を注いで飲みながら、一旦部屋に戻った。ベッドの横においていたスマホを取り上げると、メッセージ通知が来ている。また、高木くんだ。通知画面ではメッセージを全て読むことはできないけれど、一日、という文字が見えて、八月一日の花火大会の誘いであることがわかる。
高木くんは、最後のデートの日からこれまでに二回、花火大会にあたしを誘っている。あたしはその度に、やめとく、と言うのだけれど、高木くんは、なんで、絶対楽しいよ、遠慮しなくていいんだよ、と言ってくる。その相手をしているうちに、どうしてだか、あたしが高木くんの誘いを断ったという事実が、なかったことになってしまう。そのせいで、この頃、高木くんのメッセージを見ると、あたしは少し憂鬱になる。放置してしまいたい気にもなるけれど、仮にも高木くんはあたしの彼氏なのだし、なんども誘ってくれているのだし、八月一日は来週に迫っているから、返信、しないと悪いよな、やっぱり、と思ってアプリを起動する。
「何回も誘ってもらって悪いけど、今回はやめとく(青ざめた絵文字ひとつ)」
そう返信して、少し考えてから、
「ごめんね
誘ってもらえるのは嬉しい
また近場でデートしよ(笑顔の絵文字ひとつ、ハートの絵文字四つ)」
と続ける。すぐに既読がつかなかったので、ホーム画面に戻った。ホーム画面の右端には、10:38の表示があった。
リビングに戻って朝使ったコップに麦茶を注ぐと、あたしはソファに座りなおして、洋画を今度こそ、ちゃんと観た。軍規違反で軍に追われる主人公が、裏の世界で仕事をしたり、ホームレスの女の子と仲良くなったりするけれど、結局また軍に見つかってしまう話。軍から逃げるとき、主人公は女の子と待ち合わせをするのだけれど、その女の子は待ち合わせの場所には現れなかった。主人公は、駅の出入り口に座り込んで、夜から明け方まで女の人を待っていた。駅の前を通る人も、駅に出入りする人も、主人公なんて気にもとめずに、まるでそこに誰もいないみたいに、どんどん通り過ぎて行った。そのシーンが、奇妙にこびりついて離れないのだった。
かずくんが誕生日に犬島に行きたいと言うので、日帰りで家族旅行をすることになった。
あたし達はお父さんの運転で定期船の乗り場の手前まで行った。朝からいい天気で、空はやけに青く澄んでいた。車のエアコンの効きはすこぶる悪くて、あたしもかずくんもお父さんもひたいから背中から汗が吹き出て大変だったのだけれど、お母さんだけはあまり汗をかかず、さっぱりとした様子で助手席に座り、
「汗かきはお父さんの方の遺伝よ」
などと澄ましていた。
「お母さんの方が遺伝すればよかったのに」
あたしは首筋にタオルハンカチを当てながら言った。
「そればっかりはわたしたちにもどうしようもないわあ」
お母さんはそう言って笑った。
「お父さんからはろくな遺伝がこん」
かずくんがぼそっと呟いた。
「けどあんたらの二重はお父さんの遺伝よ」
「おまえ、一重だったっけ」
お父さんが久しぶりに喋る。
「おまえって誰のこと」
「母さんじゃろ」
「ないわ、結婚何年目だよ」
お母さんとかずくんとあたしが、順にそう言った。
「知らんかった」
お父さんの声はどこまでも飄々としている。
広い道をまっすぐ進んでいたあたしたちの車は次第に細道に入り、やがてフェリー乗り場の駐車場についた。
駐車場からフェリー乗り場まで少し距離があった。あたしたちはじりじり焼かれながら、乗り場まで歩いた。お父さんが青いクーラーバッグ、かずくんがビニールシートと浮き輪の入った大きな紙袋、お母さんと私が、水着だのタオルだのの細々したものの入ったふたつのトートバッグを、それぞれ持つことになった。
港までの坂道を下りながら、あたしは肩の出るワンピースを着てしまったことを、やや後悔する。夏休みに入る前に買ったストローハットは顔を守ってくれたけれど、肩から下を守ってはくれなかった。日焼け止めを塗ってはいても、きっと少しはやけてしまうだろう。前を歩くお父さんとかずくんが、暑い、暑いとしきりに繰り返している。お母さんが、こっちまで暑くなるからやめてよ、と抗議し、だってあちいし、と、かずくんが振り返って言い返す。まとまった木が見当たらないのに、ここでもくまぜみの声がどこかから湧き上がって一帯を包み込んでいる。
船着場では、すでに何組かの人たちが船を待っていた。うちと同じようなクーラーバッグを持った若い男の人と小さな男の子。かりゆしを着たおじいさんと、ひよこみたいな色のTシャツを着たおばあさん。がちゃがちゃした模様の青いワンピースを着た女の人。似たような短パンをはいて、似たような茶色いショートカットの髪の毛をしたひとまとまりの女の人たち。そんな人たちが、船着場の待合所に礼儀正しく並んでいる。待合所には壁がなくて、緑色をした、とたんの屋根だけがある。あたしたちもまた、屋根の下に入って最後尾に並んだ。コンクリートかなにかに波が当たる、たぶたぶという音が聞こえてくる。日向のコンクリートは真っ白に照り返して、その向こうの海の青緑を濃くしている。海の景色だ。その景色を見ながら、あたしはハンカチを顔から首にかけてのどこかに絶えず当てていなければならなかった。連絡船がやってくるまでの間、あたしたちの後ろには、さらに何組か、船待ちの人たちが並んだ。屋根が作る日陰に入れないグループも、いくつか出た。
連絡船は小さな船で、船内のいすはすぐにいっぱいになってしまった。あたしたち家族は空いている席にばらばらに座った。船のエンジンがかかると、その音の大きさにびっくりしたのか、どこかで赤ちゃんが泣き始めた。あたしはあっちゃんと映画を観に言った日のことを思い出す。あっちゃんは今、イギリスのなんとかという小さな町に、ホームステイしているところだ。SNSには毎日のように、おしゃれな街並みや、外国っぽい農村の写真がアップされている。あっちゃんのコメントも、アップの頻度も、いつもとは少し違って、そのことがあまり愉快な気がしないので、半分流しながら、でも無視もできなくて三回に一回ぐらいの割合で、いいね、をつけている。窓の外をに目をやると、かずくんが甲板をうろうろしているのが見えた。手を振ってみたけれど、かずくんはあたしには気付かず、窓の中からすーっといなくなってしまった。
赤ちゃんが泣き止まないまま、犬島が見えてきた。青い空に茶色の煙突が突き刺さっているのが見える、と思ったら、船はすぐに船着き場についた。スマホを見ると、さっきの小さな船着き場を出て、十分ほどしか経っていなかった。
かずくん、お母さん、あたし、お父さんの順で、波止場に降りた。かずくんとお母さん、お母さんとあたしの間には、おじいさんと若い女の人が入った。
「どうするんな」
お父さんが後ろからあたしに聞く。
「美術館、先に行くんか」
「かずくんに聞いてよ」
そう、振り向かず言う。
「行きたいって行ったの、かずくんだし」
あたしたちは、間にはさがっていた人たちを交わして、船着き場のトイレの前で集合した。なんだか静かだな、と思ったら、ここではくまぜみが鳴いていないのだった。
「とりあえず泳ぎたい」
とかずくんが言って、あたしたちは船着き場から海水浴場まで歩き始めた。トイレの隣にあった島の地図によると、船着き場から海水浴場までは、一本道で行けるようだった。
船着き場の周りには定食屋さんやカフェ、お土産やさん、現代アートっぽい、変ないろの犬のオブジェなんかがあったけれど、五分も歩くとあたりの景色は畑と石垣、人が住んでいるのかいないのかわからない民家ばかりになった。
家はあるのに人の気配のない道を、あたしたちはほとんど無言で歩いた。時々お父さんが、あつい、とか、まだ着かんのか、などと唸った。日に焼けたくなくて、道路の右側ばかりあるいていたけれど、やがて影が切れてしまった。がさがさ音がなって、石垣に生えている草がちょっと動いた。何か、動物の動いたような気配があったけれど、姿は見えなかった。途中、一件だけ、ラジオだかテレビだかの音が漏れてくる家があった。どこかのアナウンサーが午後のニュースを伝えている。玄関らしき場所の引き戸が開け放たれていたので、通りがかりにその奥をちらりと覗いたけれど、動くものは見当たらず、アナウンサーのおかたい声だけがそこに住人のいることを伝えていた。
さらに進むと、民家も畑も石垣も無くなって、両側に森が広がった。滑らかに揺れる木陰を歩くと、濃い草の匂いが汗と一緒になって肌にまつわりついた。顔に塗った日焼け止めはもうとっくに落ちてしまったように思われた。連絡船はあんなに満員だったのに、道を歩くのは相変わらずあたしたちの一家だけだった。お父さんとお母さんが、前の方を歩きながら何か話しているけれど、仕事の関係の話のようで、内容はよくわからない。どこかでつくつくほうしが思い出したように鳴き始めた。おーし、つくつく。おーし、つくつく。木陰が大きく揺れて、風が道を横切って行った。つくつくほうしの鳴き声のリズムはどんどん早くなり、やがてじじじじー、と、なんだかわけのわからない音に変貌して、止んだ。それが何度か繰り返されたあと、森が切れ、海水浴場に出た。
海岸には、見える範囲で二組の親子がいた。どちらの親子も、水着を着ているのは子どもだけで、両親らしき大人は普通の服を着ていた。あたしたちは砂浜の端にあるシャワー室で水着に着替えた。
足の裏を砂に焼かれながら波打ち際へ行くと、海の水は茶色く濁っていた。雨が降った次の日の川みたいな色。少しも海らしくない、茶色。あたしがその茶色い海に入るかどうするかためらっている隣で、かずくんは無言で海を見下ろしていた。
「どうする」
あたしはかずくんに声をかけた。
「海、入る」
こう尋ねると、かずくんは顔を上げ、あたしを一瞥した。それから無言で海に入って行った。けれど、その水面が膝のあたりに来たところで進入をやめてしまう。
「濁っとるな」
ただひとり、水着を持ってこなかったお父さんが、あたしたちの後ろから砂浜をくだって来た。
「だから海水浴客がいないんか」
お父さんはにやにや口元を歪めているしている。不愉快になる口元。あたしはお父さんから目をそらす。ちょうどそのとき、沖でざぶん、と音がした。見ると、かずくんが泳ぎだしたところだった。
かずくんは浮いたり沈んだりしながら沖へ進み、途中で折り返してまた岸の方へと近づいてきた。あたしたちが見守る中、途中で再び立ち上がり、二足歩行で波打ち際まで帰ってきたかずくんは頭の先まで濡れそぼって、満足そうに笑っていた。
「どうだった」
お父さんが聞いた。
「しょっぺかった」
かずくんはゴーグルを外した。
「味は、海だった」
こんなでも、味は海なのか。あたしはつま先へ迫る茶色と白の波を見つめた。
海岸には、一時間ほどいた。かずくんはひたすら泳ぎ、あたしはお母さんと一緒にひざ下くらいのところまで水に入ったり、海岸沿いを歩いたり、何本も立てられているパラソルうちの一つに入って日焼け止めを塗ったりした。お父さんは隣のパラソルの下で、トドみたいに転がって居眠りをしていた。
そのうち、そろそろ行きましょう、とお母さんが号令をかけたので、あたしたちは海岸から撤収することになった。シャワーを浴びて着替えた後、お昼をとることにして船着場のあたりまで戻った。船着場にはいくつか小さなお店があった。カフェ、といった風情のお店に入るか、和風の定食屋に入るかで、お母さんとかずくんの意見が割れたけれど、今日はかずくんの誕生日のお祝いも兼ねているのだし、かずくんの食べたい方を、ということで定食屋に入ることになった。
定食屋は古いおうちを使っていた。あたしにとっては、和風のおうちは武士の館、くらいの認識しかないけれど、古民家風のカフェだとか蕎麦屋を見ると、大人たちはこぞって、おしゃれ、という。武士じゃん、とは口を挟めない感じで。案の定、お母さんが、わあ、古民家風、と、きらきらした声を上げている。
「ほんとの古民家、見たことある」
かずくんがぼそっとあたしに聞く。その表情はいつもみたいにぼんやりしている。さっき海でみた笑顔の気配はどこにも残っていない、うちでのかずくんの表情。
「あるわけない」
あたしもぼそぼそ答えた。かずくんに合わせて、うちでのテンションで。
あたしたちは店員さんらしき女の人に促され、広い玄関でサンダルを脱いでお座敷に上がった。お座敷には、古民家風にありがちな、茶色くてつやつやした木のテーブルが六つ置いてあった。短足で天板がやけに分厚く、運ぶのに不便そうな、大げさなテーブル。それが、紫色の薄い座布団四つに取り囲まれている。
「お好きな席に座ってください」
玄関の方から店員さんが言い、誰からともなく。右側真ん中の席に集まる。
「昔の家ってなんであんな玄関広いん」
座布団に腰を下ろしながらながらかずくんが言った。聞いているとも、聞いていないとも取れる喋り方で。
「玄関って。三和土じゃろ」
お父さんはもうメニューを手に取っている。
「たたき」
あたしは鰹のたたきを思い出しながら呟いた。
「ばか、土間よ」
お父さんの隣に腰を下ろしたお母さんが、眉を潜めながら言う。
「たたきって、土間にしく土のことじゃない」
「俺の田舎では、たたきって言うけど」
「でもそれ正しくないわよ。あなた間違って覚えてるんじゃない」
「いや、母さんが言ってたし」
「変よ」
「どっちでもええわ」
「お父さんメニューみして」
「まだ選んでねえ」
「みんなで見ればいいじゃん」
定食屋のメニューはそれほど多くなかった。ラミネートされたお品書きには、たいのどんぶり定食、なめろう定食、魚の煮付け定食、焼き魚定食が大きく写真付きで乗っていた。
「海、意識しとるんかな」
「でも犬島ではとれんでしょ、魚」
あたしたちはささやき合いながらメニューを眺めた。座敷の奥では扇風機が回っていて、時々そよ風があたしの前髪を揺らした。
さっきの店員さんがお座敷に上がって、あたしたちのテーブルへやって来た。
「暑いですねえ」
多分四十代くらいの店員さんは、にこにこしながらあたしたち全員の前にお冷やを置き、黒いカフェエプロンのポケットからメモ帳を取り出した。
「いや、本当」
お父さんが、店員さんにつられるようににこにこする。
「でも、街の方と違ってこっちの暑さはさっぱりしてますね」
「そうですねえ、夜は過ごしやすいと思いますよ。湿度が高いですけど」
「ああ、そうか、海に囲まれてるから湿気が」
お母さんがそう相槌をうつ。あたしはなんだか、イタタマレナイ気分になって、卓の下に伸ばしていた足を畳んだ。
「お客さん、街の方からですか」
「街って言っても、県内のですけど」
「まあ、十分都会ですよ。大都会っていうじゃないですか」
「いやあれはいじられてるだけでしょう」
「あたしらから見たら十分大都会ですよ」
「島の生まれなんですか」
あたしは店員さんが注文を取り終わるまでの間、店員さんが島の生まれであること、九州の大学へ行っていたこと、などを一通り聞くことになった。かずくんは出されたお冷やをすっかり空にしてしまった。
注文から十分くらいで店員さんがお盆を運んできた。お盆の上にはひとりぶんの定食が並べられている。お盆を一つずつしか運べないので、店員さんが四往復したところで、家族全員の定食が揃った。
「島の人は田舎の街でも都会だと思うんかあ」
お父さんが煮魚をほぐしながら言った。
「ばか、お世辞よ」
お母さんがまた眉をひそめる。
「福岡だって言ってたじゃない。あっちの方がよっぽど都会でしょ」
「いやあ、それでもやっぱり、出身の島と比べとると思うで」
「そんなことないわよ」
「そうかなあ」
そうよ、真に受けてどうするのよ。お母さんは小鉢で卵の黄身とたれを混ぜ、たいのお刺身丼にかけた。たいのお刺身丼を頼んだのはあたしとお母さんだけれど、あたしの方は、卵の黄身を潰さずにどんぶりの中に落として、たれを回しかけた。
どんぶりに乗っている卵の黄身は、全体に薄く混ぜてしまうより、途中で潰して、しっかり絡めて食べる方が好きなのだ。
「お父さんって結構自意識過剰じゃね」
かずくんはそう言って、たいのあらのお味噌汁を啜った。お味噌汁は、たいのあらか、あおさか、どちらかが選べるようになっていて、あたしとかずくんがたいのあら、お母さんとお父さんがあおさを選んだ。
「別にそういうんじゃない」
お父さんはもうご飯を半分以上空にしている。煮魚はなんだかばらばらになってしまっている。
「ちょっと、綺麗に食べてよ」
お母さんがお父さんに言う。
「食べとる」
「食べてない。まだ煮魚にいっぱい身、残ってるじゃない。汚いわよ、食い散らかして」
「誰が食ってもこういう風になる」
「なりません」
かずくんが口に手を入れて、たいのあらについてたウロコを取り出して茶碗のふちになすりつけた。あたしはうなじに風を感じながら、たいのお刺身をごはんと一緒に箸ですくって口へ運んだ。
犬島から帰ってくると、あっちゃんからの手紙が届いていた。国際便の白い封筒は、英語の教科書で見たのと同じように、赤と青と白のしましまに縁取られている。そこに、地味だけれど、その地味さが外国のおしゃれなのよ、といった風情の切手が貼られていて、消印なんかも全て英語で、見た目の何もかもが外国を主張していた。封筒を見ているうちにごちゃごちゃした気持ちになったので、あたしは少しの間、そのエアメールを隣に置いて、国語の問題集を解いた。窓の外からはねっとりした風が吹き込んでいる。その温度と、今日かいた汗の感覚が層のようになってあたしを不快にさせた。せめてもっと涼しければいいのに、と思うけれど、クーラーを入れたら電気代にやかましいお母さんはきっと怒るだろう。そんなことを考えながら、いっぽうで、あたしは外国のあっちゃんのことを考えている。あっちゃんとあたしのあいだには、なにかが横たわっていて、あたしがこうしたざわざわとした気分になるのは、多分、そのなにかが原因なのだとあたしは推測します。なんだろうな、このざわざわ、こういうのも、イタタマレナイ、に、入るのかな。しかし、それを聞ける相手もまた、あっちゃんしかいない。
あわないのかもしれない。あたしは思った。あっちゃんとわたしは、ほんとうはぜんぜん、あわないのかもしれない。
それでも夏休み明けから学校に行き始めたらわたしは、またあっちゃんと一緒にあの通学路を帰ってゆくのだろう。そうでないあたし、というものが、あたしにはどうしても、想像できないから。
高木くんが、遠くに行こう、と言ったのは、八月最後の週の水曜日だった。夏休みに入って二回目のデートでのことだ。
前に会ったのは、地元の夏祭りの日だった。花火大会は断ったけれど、あたしたちは、電車を使わなくても行ける地元の夏祭りに行った。一応浴衣を着て行ったら、高木くんはとても喜んで、しきりにりんご飴を持たせたがった。
その高木くんが、カラオケからの帰り道に、遠くに行こう、と言った。運送会社の前にある自販機で飲み物を買っている時だった。
「とおく」
あたしはスポーツドリンクのボタンを押しながら、慎重に、繰り返した。
「とおくって、どこまで」
夕方の五時半だった。まだすごく明るくて、くまぜみの声もうるさいけれど、もう、五時半。今から遠くへ行ったら、帰ってくるのは何時になるだろう。がちゃん、と音がして、スポーツドリンクが取り出し口に落ちた。
「ゆう、いま何円もってる」
高木くんは、逆に聞いてきた。
「質問に質問で返さんで」
「ごめんごめん、で、何円持ってる」
ごめんごめん、の大変軽いことに言及しようか、どうしようか考えて、結局やめる。そういうところを追求すると、高木くんはすぐ、あたしの性格に話をそらす。今ここで、ちゃんと謝って、などと口にしても、ゆうってほんと細かいこと気にするよね、今そんな話しとらんでしょ、などといって謝ってはくれないだろう。それはそれで、相手をするのが面倒なのだ。
「三千円ちょい、くらい、もう少し少ないかも」
あたしは不自然でない程度、少なめに見積もって答えた。
「じゃあさ、千五百円で、いけるとこまで、行ってみん。電車で」
「え、なんで」
「夏休みも最後だし、なんか、思い出っていうか」
「カラオケ、行ったのに」
向かいから自転車に乗ったおばさんがやってきて、あたしと高木くんの間を遠慮なく通って行った。
「じゃなくて、もっと、バカみてえなことやったって思い出がさ」
高木くんが言うことは時々よくわからない。
「それに、ゆうとだったらどこに行っても楽しいと思うし」
あたしは唸った。高木くんは、ずるい。これであたしが断ったら、あたしが高木くんと同じ気持ち、すなわち、高木くんとならどこへ行っても楽しいという気持ちでない、ということになってしまう——実際、その通りなのだけれど。たとえ恋人の高木くんと一緒だとしても、あまりわけのわからないところへは行きたくない。しかしそれを公言してしまうのは、恋人らしくない。つまり、
「そんなに、行きたいん」
と、後ろ向きながら高木くんの希望を叶えるような言葉を返さざるを得なくなってしまう。
「ゆうがやだって言うんだったら無理にとはゆわんけど」
「……絶対いやってわけじゃない、けど」
やっぱり、高木くんは、ずるい。表向きはあたしに気を遣って譲る態度をとることによって、より一層、断ったらあたしが悪者になるように仕向けてくる。
「ほんと」
高木くんはあくまで下手に出る。
「じゃあ、行ってもいいの」
逆じゃないかな、こういうの。彼氏と彼女の立場が。あたしはこう思いながら、頷く。一般的には、女の子の方が立ち回りがうまくてずるいのではないか。かなみが、男子の前だと少しだけ高い声を出す、ああいうのと同じずるさ。そのずるさを、あたしではなく、高木くんが使っていることが、不思議だ。
思えば、高木くんにはずっと、ずるいところがあった。告白してきたときも、花火大会のときも。
「高木くんって、ちょっと女子みたいなとこあるよね」
駅の方へ足を向けながら、あたしは呟いた。東に行こうか、西に行こうか、というようなことをしゃべっていた高木くんが、ええ、なんで、と、笑いながらあたしを見下ろした。
「男としては言われると微妙しょ」
高木くんは口ではそう言って嫌がるけれど、相変わらずにこにこしていてまんざらでもなさそうだ。
「女心持ってんのかなあ、おれ」
高木くんは、すごいな。あたしは半ば呆れながらそう思う。あたしの性格が、悪いのかな。
京橋の信号は赤だ。首筋と背中が汗でべたべたしていて、けれども今は汗を拭き取るのも面倒で、ただ、暑いなあ、と声を出す。暑いねえ、と、高木くんが返事をする。
「なんだっけ、そういう短歌あったよね」
「あったっけ」
「あった。暑いとか言ったら返事をする人がいるなんとか、みたいな」
「全然わからんし」
「あ、冬だったかも」
「冬」
「寒いって言ったら寒いって返ってくる暖かさ、とかなんとか」
高木くんは、ふうん、とだけ答えた。あたしは足元の赤い煉瓦を見た。煉瓦はあたしの影で周りよりも随分と地味な色に落ち着いている。とてもあついので、今、冬の寒い話なんかしても、少しも臨場感がありません。
暑いなあ。あたしはもう一度呟く。高木くんは、もう、あついねえ、と答えてはくれなかった。顎をあげると、青い中に少し桃色がかった雲が浮かんでいる。駅まではあと十五分くらいかかる。
結局、姫路まで行った。乗った時にはまだ日が高かったのに、姫路駅に着いた頃には空は真っ暗になっていた。午後七時半だった。姫路駅はとても栄えている駅で、フードやファッション、お土産のお店がたくさんあった。あたしたちは改札を出て、時々お店を覗きながら歩いた。建物は大きな陸橋のようなところへつながっていて、そこから正面に、ライトアップされた白いお城が見えた。
「姫路城」
高木くんが急に大きな声を出し、陸橋の柵のところまで走って行った。あたしも、手を引かれて、一緒に走った。急に走らんで、止まって、と言ったのに、高木くんは柵のところへたどり着くまで、走るのをやめてくれなかった。
「おれ、姫路城、初めて見た」
あたしもだよ、と、言ってあげた方が親切なのだけれど、口を開くのが億劫で、うん、とだけ答える。頰に風を感じる。風はまだ昼の温度を残して暑く、けれども夜の気配で湿っている。ファストフード店の匂いが漂っている。暗い街の中で照らされたお城の白い肌、ビルだとかネオンサインだとかの星みたいな明かり、車のウインカー、そういう人工の光が目の中で滲み、染み込んでいくような気がした。
「遠くまで行けるもんじゃなあ」
高木くんが嬉しそうに言う。
「姫路って、もう近畿じゃろ。県内の辺鄙なとこまでしか行けんと思ってた」
「辺鄙なとこついても困るでしょ」
「やー、かもしれんけどそれはそれで面白くね」
高木くんはチケットを買うときにも、そんなことを言っていた。辺鄙なとこの方が燃えるだとか、面白いだとか。
「変なとこ行って終電無かったら困るって言ったじゃん」
あたしは、まだ辺鄙な駅、というものに未練を示す高木くんに少しいらいらする。
「わかってるって」
高木くんはあたしのいらいらを感じ取ったのか、少し声の調子を落とした。
お財布にはあまりお金が残っていなかったから、お土産を買うこともできずに改札をくぐった。ホームでコーラを買って、電車の中で飲みながら帰った。高木くんは、お土産買えなくてかわりにコーラ買うとか、おれたちバカみたいだね、というようなことを、ずっと喋っていた。ばかみたいだと、私も思う。けれど、そのばかを、高木くんのように取り扱う事はできなかった。三千円も使って、少しお城を見ただけで、帰り着いたらもう九時で、だいたいコーラがお土産のかわりになるなんてあたしは全然思っていないし、高木くんは目の前で目をぎらぎらさせているし、そういうことを思うと、あたしの体はひどく重たくなって、そのうち眠り込んでしまった。
新学期が始まっても、夏の暑さはしつこく纏わりついてくる。あたしはタオルハンカチで首筋の汗を拭いた。部室はよく日が当たるせいか、他の教室よりもだいぶ暖かくて、汗かきには少し辛い。
「ももはなさんの新作見た」
ゆきをが部室に入ってくるなり、かなみに言った。
「見た。あれ危険でしょ」
「それな、もう、なんていうかいとをかしだよ」
「わかる、いとあらまほし」
「それな」
「理想的だ。好ましい」
あたしは、あらまほし、の現代語訳を呟きながら英単語帳のページを繰った。百五ページから百十五ページまでが、明日の小テストの出題範囲だった。
「ゆうはブラマイ読んでないんだっけ」
かなみがゆきをと手を繋ぎながらこちらに振り向くので、あたしはシャーペンを問題集に挟む。
「まだないんよなあ」
以前のものは、何度か無くなったり出て来たりを繰り返した末、夏休みの間に完全に消えてしまったので、今は新しく買った、オレンジ色のシャーペンを使っている。 座っているかなみと、まだ荷物も下ろしていないゆきをの両手が恋人みたいに繋がれて、一定のリズムで振られている。
ゆきをが、ああー、と声をもらす。
「ばんっこ面白い同人あるけど原作見てないとわからんよなあ」
「ブラマイって確か長いんでしょ」
「このあいだ六十巻が出たとこだよお」
かなみがゆきをを膝に乗せながら言う。
「でしょ、集めるの大変そうで踏みとどまってて」
「え、じゃあ貸す、貸すから読んで」
ゆきをが身を乗り出した。
「すぐ読めないかもよ」
「大丈夫、あたし電子版も持ってるからしばらく貸せる」
「ありがと」
「いやいや、こっちこそ読んでもらえたら嬉しいから」
ゆきをがあたしの手をぎゅっと掴む。
「読んで。読んでくだしあ」
くだしあ、ってネットの言葉かな。あたしはゆきをの手を握り返し、
「読むよ。きっと読むよ」
と、なるべく真剣な感じで返す。かなみが、茶番、茶番、と言って笑った。
茶番を一通りやり終えたあたしたちは、それぞれの作業に戻る。ゆきをは壁際に並んだ椅子の上に鞄を置いた。かなみはやけに分厚い漫画雑誌の続きを読み始めた。あたしは英単語帳に取り掛かる。表紙と一ページ目の間に挟んであった赤いシートを取り出して、赤い字で書かれた英単語を隠すと、日本語を見ながら対応する英単語をノートに書き出していく。
シャーペンを買ったと思ったら、今日は消しゴムが行方不明になってしまっている。何度買い直してもどこかへ行ってしまうので、あたしは人生でまだ、消しゴムを最後まで使い切れたことがない。かといって、一度どこかへ行くと永久に消えてしまうわけでもなくて、買い直した後にぽろりと出てくることもある。新しい消しゴムと、前の消しゴム、使っているうちにふたつともにたような見た目になって、ひとつだけあったり、ふたつあったりを繰り返し、やがてふたつとも消えてしまうので、また新しい消しゴムを買う。そうして、だんだんと消しゴムが増えてゆくのだけれど、あたしの前にちゃんとある消しゴムは、不思議とふたつかみっつだけだ。
お疲れえ、と言いながら、みちるが部室に入ってくる。部室に、お疲れ、が呼応する。壁際の椅子の上に、みちるの荷物が並ぶ。かなみとゆきをは、自分たちが描いた二次創作、みんなが、肌色成分多めの絡み絵、と呼んでいるものをお互い見せ合ってきゃあきゃあ言っている。
「うわ。エロい」
みちるが二人の絵を覗き込んで笑う。
「今度は何描いたの」
あたしは単語帳を少し中断して、聞いてみる。
「カイアベ」
すぐに四文字の単語が帰ってくる。
「みちるちゃんアベカイもいける人だっけ」
「あたしはむしろアベカイ派かも」
「あっごめん」
「いやいや、両方いけるから大丈夫」
アベカイもカイアベも、カップリング名だ。攻めのキャラ名が最初、受けのキャラ名が後ろになる、と、文芸部に入ってから教えてもらった。アベカイとカイアベはつまり逆カプの関係に当たるのだけれど、逆カプ信奉者同士にはマリアナ海溝のように深く乗り越え難い溝があるためお互い気を遣うのがマナーなのです。
あたしは二人の絵を覗き込んだ。
「ゆきをのやつ筋肉すごいね」
そうコメントしてみると、ゆきをはありがとう、と甲高い声をあげた。
「おっぱいこだわったあ」
「こだわってんのわかるよお」
「ゆっきさあ、ちゃんとむきむきにできるのすごいよね」
「かなみのもシュッとしててかっこいいじゃん」
「どうしても細くなっちゃうんよ」
「えー、あたし逆に細い感じかけなくてどうしても盛っちゃうから羨ましい」
ゆきをたちが描く、肌色成分多めの絡み絵、なるものを、いつもみちるがすごく褒めるので、あたしも時々話に乗っかるのだけれど、本当は少しだけ苦手だ。顔は可愛いのに、首から下がなんだか生々しくて。もちろん、そんなことは言わないのだけれど。あっちゃんは知ってるかな、こういう絵のこと、と、頭のすみっこで思う。
夏休み明け、あっちゃんはばっさり髪を切ってベリーショートになっていた。あたしの知っているあっちゃんは少なくともセミロングくらいの髪の長さを保っていたから、はじめ、髪の短いあっちゃんをあっちゃんと認識するのに、少し苦労した。
そのせいというわけではないけれど、あっちゃんと、最近すこし疎遠になったように思う。廊下で顔を合わせた時に話すことはあるけれど、夏休み明けから二週間くらい、一緒に帰っていない。高校で再開してから今までの間に、こんなに長く一緒に帰らなかったのは初めてのことだ。けれども、それが単に錯覚である可能性も否めない。夏休みに入る前にも、二週間くらいは一緒に帰らない日が続くことはあったかもしれない。あたしとあっちゃんの関係も何も変わっていないかもしれない。合わない、と思ったときから、あたしの感覚だけが狂ってしまっているのかもしれない。かもしれないだらけで、つかみどころがない。
そう思いながらゆきをたちの会話に相槌を挟んでいると、ポケットの中でスマホが震えた。きっと高木くんだ。
高木くんのほうとも、少し、疎遠になっている。高木くんは最近ますます面倒になっている。面倒くささに磨きがかかったせいで、あたしは高木くんにメッセージを返せないことが多くなってしまった。さっききた、「修学旅行、北海道にしない? せっかくいくなら遠い方で(イ、の口で笑う顔の絵文字と、音符の絵文字)」というメッセージにも、まだ、返信できていない。だって当たり前みたいに、あたしが高木くんと同じ旅行先を選ぶと思っていることが、しんどい。あたしにも、人間関係というものがあって、高木くんのことばかり考えて決めるわけには行かなくて、例えば文芸部の仲間がみんな東京に行く、と言い始めたら、あたしだって東京に行かなければ、つまらない。高木くんは彼氏だけれども、友達と遊ぶのだって、同様に大事だ。と思うけれど、あたしの方が、むしろおかしいのかもしれない、とも思う。彼氏彼女というのは、同じ修学旅行先を選び、旅先では常に一緒にいるものなのかもしれな、と。そんなことを考えているとどんどん疲れてしまって、結局メッセージ画面を落としてしまう。
「みっちそれはやべーって」
「R指定、R指定」
「待って廊下に音漏れしてないよな」
話はどんどん盛り上がって、あたしたちの声もどんどん大きくなる。あたしは少しはらはらしながら、ちょっともう、音漏れとかシャレならんじゃん、男子通るよ、と言って笑う。
ゆきをたちと下校したあと部屋で爪を磨いていると、高木くんから電話がかかってきた。出たくない、と、出なければ、の間を二往復してからスマホをタップした。
「もしもし」
「メッセージ見とるじゃろ」
高木くんはいきなり切り出した。
「見たよ。けど、」
「なんで返さないの」
高木くんがあたしの言葉を遮る。
「まってたんよ」
高木くんの声はややとげとげしていた。
「ごめん、なんか、すぐ決めれんくて。他の子にも聞きたかったし」
「ならまだ決めれんって返してよ」
高木くんがしつこく言ってくるので、あたしはつい、
「や、返信ないってことは、返せないってことじゃん。わかるでしょ」
と言ってしまう。
「そんなん、わからんし」
高木くんの声がさらに荒れる。
「いやいや、わからんことないでしょ。すぐ返せるんだったら、返すでしょ」
「返さなかったことへの言い訳じゃろ、それ」
「言い訳って」
あたしの声も、だんだんととげとげしてくる。
「返信ないより、なんか一言でもあった方がいいに決まってるじゃん。ごめんすぐ決めれんって返してくれたら、おれだって時間かかるんだなって思えるのに」
「それは、そうだけど」
「じゃあそれがわかるのになんで返信ないんだから察してみたいなこと言うの。怒ってるのはおれなんだけど」
「や、でも返信ないときは返信できない時っていうのもわかるでしょ、普通」
「だからそれが言い訳だって。そういうとこ良くないよ。前から言おうと思ってたけど」
心臓のあたりがかっと熱くなった。その、熱いもの、が、顔のあたりまでせり上がってきた。腹が立っているのか、恥ずかしいのかわからないまま、あたしはほとんど自動的に、聞き返す。
「そういうとこって何」
「なんか、めんどくさがって返信しなかったりとか」
「……それは、ごめん」
「それでさ、おれが言及したらさ、ちょっと言い訳するじゃん。必ず」
「だからそういうつもりじゃないって」
「言い訳じゃん」
高木くんはとうとう大きな声を出した。それから、ごめん、と謝った。
「けどさあ謝らんといけんときは素直に謝った方がいいよ」
「……ごめん」
「いや、別にそこで謝らなくてもいいけど」
謝ってほしいくせに、と言ってやりたかったけれど、我慢した。高木くんがまた何か言い始めようとしたので、ごめん、ご飯の準備あるから、と言って電話を切った。それから、少し泣いた。高木くんはどうしていつも、高木くんが思う、あたしの「良くないところ」を指摘したがるのだろう。上から見下ろしたがるのだろう。あたしにだって、本当は言いたいことはたくさんあるということが、わからないのだろう。
その夜、お風呂から出てきたら高木くんからメッセージが入っていた。『さっきはいろいろいってごめん。けど、おれのきもちはいったとおり。おれにはゆうが色々めんどくさがってるみたいにみえて、そういうのってあんまりよくないと思う。けど、ゆうにはゆうの世界があるのも事実。おれがそばにいてあれこれいうことでゆうがつかれてしまうなら、おれたちはわかれたほうがいいと思う』、云々。こうした言葉が延々と画面に並んでいた。わたしはスマホを投げ出して、体もベッドに投げ出して、唸った。そしてそのまま眠ってしまった。
翌日は目覚ましが鳴る前に起きた。寝汗でパジャマ代わりにしているTシャツが湿っていた。Tシャツの中に手を突っ込んでみぞおちのあたりを触り、汗が皮膚を覆ってぬるぬるしているのを確かめる。確認下からどうということはないのだけれど、毎朝こうして、汗をかいていることを確かめてしまう。
寝返りをうち、枕元に置いているスマホの画面をつけた。
「うわっ」
声が漏れた。大量の通知がスマホの画面を埋め尽くしていた。その全てが高木くんのメッセージだった。あたしは寝転んだまま、そっとアプリを開いた。
『返事がないってことは、肯定ってことでいいのかな』
『もう寝たの』
『どう思う。わかれるってこと』
『もう一度話したい』
『ゆう』
『おーい』
『起きてる?』
『ねたふり?』
『ゆうもわかれたいっていうメッセージ、っていうことかな』
『もしちがったら返信して』
『わかった』
『そういうことなんだよね』
『わかれましょう』
『いままで楽しかった』
『こんな形で終わりたくないけど』
『もし起きてたら返事して』
メッセージはまだまだ続いていたけれど、あたしは読むのをあきらめて、『わかった。今までありがとう』とだけメッセージを返し、画面を落とした。
朝から、やけに疲れてしまった。スマホを投げ出して起き上がり、カーテンを開けた。街の上には雲三割、青七割の空が遠くまで広がっていた。少し目を細めた拍子に、ああ、あたしは高木くんと別れたのだ、と、胸に落ちた。ええ、あたしは高木くんと別れました。
悲しくはなかった。少しだけ寂しく、そして不思議と安心していた。
リビングに行くと、お母さんとお父さんがもう台所をうろうろしていた。弟はテレビの前のソファに陣取って、氷を入れたアイスコーヒーを飲んでいるところだった。ガラス戸は開け放たれて、暑いのだけれど、妙に爽やかな風が吹き込んでくる。
台所から現れたお母さんが、機嫌の良さそうな高い声で、
「今日は空気がからっとしてるでしょう」
と言った。手にはパンと卵焼きが乗ったお皿を持っている。
「秋よねえ、秋の風よお」
そしてなんの曲だかわからない鼻歌を歌い始める。あたしは返事をする代わりに、
「ごはん、ある」
と聞いた。
「冷やご飯なら少しある」
お父さんが答えた。あたしは冷やご飯をお茶碗によそってから電子レンジに入れて、スタートボタンを押した。昨日のお味噌汁を火にかけて温めていると、ねーちゃんスマホすげえ震えてるけど、と、かずくんがあたしを呼んだ。あたしはお味噌汁から少しだけ目を離して、テーブルの上に置いているスマホを見た。スマホの画面が光っている。
「別にいいから」
あたしは声を張った。お父さんが電気湯沸かし器でお湯を沸かす音、電子レンジがごはんを温める音、ガスの火が出る音、換気扇が空気を吸い込んでいく音、などが渾然一体となって響く台所から、リビングのソファのところまで、声が届くように。
電子レンジから温め終了の音が聞こえた。お茶碗からラップをとってテーブルに置いている間に、お味噌汁も湧いていた。味噌汁のお椀についで、ついでに冷蔵庫からたくあんを取り出してテーブルに着く。
朝ごはんを食べている間にも、スマホは震え続けた。高木くんから、どんどんメッセージが送られてくるのだった。
朝食のあとシャワーを浴びている間に、すごく長文のメッセージも届いた。全ては読まなかったけれど、かいつまんで読んだところによると、高木くんは、なぜあたしがすぐに諦めようとするのかについて、いろいろ懇切丁寧に説明し、別れる、と言ったあたしの言葉を翻すよう促しているらしかった。
そういうことがつらつらと書かれたメッセージを斜めに追っていると、そういうのほんとよくないところだと思う、とか、もっと真剣になってみようよ、という言葉が、高木くんの声音付きで頭の中で何度も再生されて、あたしはほんとに高木くんに似たようなことを言われ続けてきたんだなあ、と、われながら少し呆れてしまった。
メッセージの終わりは、
『学校で話そう』
だった。あたしは返事をしなかった。
登校して教室に入ると、高木くんはもう席に付いていた。あたしは高木くんの方を見ないようにしながら席について、鞄の中身を机に入れたけれど、高木くんは、昨日から今朝にかけての件を、そうしてあたしたちが付き合っていたという事実を、なかったことにはしてくれなかった。
「橋本」
あたしが朝の準備を終えたの同時くらいに、高木くんはあたしの机のところにやってきてあたしの名前を呼んだ。
「次の休み時間、二階と三の階の間の、踊り場な。教室から近いほう」
あたしはフローリングの板を見つめながら、小さく頷いた。校舎が古いので、板の木は木目のところででこぼこしているし、板と板の間には隙間が目立っている。小さなごみ、例えば消しゴムのかすなんかはこの隙間に落ちてどこかへ行ってしまうのだけれど、隙間はいつも真っ黒に塗りつぶされているので、ごみ一体どこまで落ちているのか、隙間にはどれほどのごみが溜まっているのかはわからない。
一時間目の社会科が終わったあと、言われた通り、三階の踊り場へ行って高木くんと話をした。話をした、と行っても、高木くんがひっきりなしにしゃべるので、あたしが意思を表明する暇はあまりなかった。
昨日のことはすごく悪かった、ゆうから返事がないからおれすげえ動揺して、勝手につっぱしって別れるとか行っちゃったけど、でもゆうから返信がきたあと、おれ考えてさあやっぱこれじゃだめだって思って、メッセージ見てくれた。いやそれは見てよ。見るべきでしょ。てか、いや、まあいいよそれは、今言うから。あのさここでゆうがおれと別れんのは簡単だけどさ、ゆうは本当にそれでいいの。だってそれって逃げじゃんおれとこんな感じで終わったらゆうは次恋愛したって絶対同じことになると、いやなるなる絶対なるってだって面倒臭いんだろゆうはその殻をさあ破ろうとせんわけじゃんそれってなんも解決してないじゃん、おれは、おれはそこ頑張りたいわけ、おれはゆうのことわかりたいしゆうにもおれのことわかってほしいっつーか、ゆうの殻破りたいんだよおれは、おれなら破れると思うから、真剣なんだよ、だからゆうにももっと真剣になってほしい、別れるんじゃなくて真剣になってほしいのがおれの本心なんだよお互い色々考えてさ喧嘩もするかもしれんけど二人で頑張ろうそれで少しずつ良くしていこうよ。
あたしは合間に、「ごめん読んでない」とか、「いやもういいから、別れるから」とか短く言うのだけれど、高木くんは聞いているのだかいないのだかわからない風に、自分の言いたいことをどんどんしゃべる。そのせいで、話は少しも前進しなかった。休み時間は十分しかないのに。あたしはだんだん疲れてきた。こんなことからは早く解放されたかった。教室に戻って後ろの席のさあやちゃんなんかと喋りたかった。それでつい、高木くんの話を遮る形で、
「別れるって言ってんのに今更ごちゃごちゃ言わんでよ」
と、大きな声を出してしまった。けれども、高木くんはあたしの声のボリュームに合わせて自分の口上の声を大きくして喋り続けた。全然、止まろうともしなかった。
なにそれ。
あたしの中で何かのスイッチが入った。こいつは自分の言ったことをあたしに押し付けるくせに、あたしの言ったことはなかったことにするのか。
「うるっさい」
あたしは怒鳴り、階段の手すりを平手で力一杯叩いていた。体が勝手にそう動いた。全然、止められなかった。子どもの頃、かずくんと喧嘩をした時みたいだと思った。
「いっつもあたしのためみたいなこと言ってさあ、あたしがいっつも間違ってるみたいなふうでさあ、なんで上からなんですか、あんたはそんなに完璧なんですか、おまえそういうとこがめんどくせんだよ」
あたしはばんばん手すりを叩いた。
「あたしはもう別れるって決めてるんだから、もうなに言っても、無駄だから、だから、黙れっ」
黙れ、と言う前から、高木くんは黙っていた。あたしが一通り言いたいことを言い終わってため息をついた後も、黙っていた。何秒か、踊り場は静かになった。高木くんがまた何か言い始める前に教室に戻りたかったので、あたしは、そういうことだから、と、ぼそぼそ言ってから踊り場を駆け上がって教室に飛び込んだ。少し息がきれていた。田中先生はもう教室にやってきて、黒板にxだとかyだとかを書き込んでいた。
チャイムが鳴った。日直が、規律、礼と言う。あたしたちはばらばらと立ち上がり、なんとなくおじぎをして、座った。みんなが座り終わる前に、高木くんが教室へ駆け込んできて、それからすーっと教室のみんなに馴染んで、高木くんだか別のクラスメイトだかわからない人になった。
『今日一緒に帰らん』
数学Iの授業がおわってスマホをチェックしていると、メッセージが入った。一瞬、高木くんの顔が浮かんだけれど、すぐに、あっちゃんだと気がついた。あたしはすぐにアプリを開いて、
『帰る』
と返した。あっちゃんに会いたい。あたしは思う。今すぐ廊下へ飛び出してあっちゃんの顔を見に行きたい。そうして高木くんのことをすっかり話してしまいたい。現実のあたしは太ももにかいた汗を不愉快に思いながらじっと椅子に座り続けている。
『ホームルームのあと廊下おるわ』
あっちゃんから、返信があった。朝から高木くんのぐちぐちしたメッセージばかりみていたせいで、あっちゃんのメールの簡潔さがすごく眩しい。合ってないかも、と思っていたけれど、それでもやっぱり、高木くんよりあっちゃんの方がずっといい。
ホームルーム後、教室を出るとあっちゃんが待っていた。
「なんか久しぶりよな」
あっちゃんはそう言ってほほ笑んだ。
「一緒に帰るの」
夏服のセーラー服は、ぜんたいが白い生地で、袖の折り返しとえりが明るい緑色になっている。その袖から、あっちゃんの長い手足が伸びている。
「それあたしも思った」
あたしは修学旅行の資料として配られた、北海道のパンフレットを思い出した。そこに載っていた白樺の写真を思い出した。草原にひと株生えている、白樺の樹。
「おばあちゃんち、しばらく行かなかったから」
「そっか」
あたしたちは階段を降りていった。すぐに、あの踊り場に出た。高木くんと話をした、あの、二階と三階の間の踊り場。
「あのさ」
あたしは階段の手すりに触れて立ち止まった。平手で叩いたあたりを親指で撫でる。
「高木くんと、別れた」
あっちゃんは、数段階段を降りてから立ち止まり、あたしの方を振り返った。踊り場の窓から差し込んだ光が、ちょうどあっちゃんの首すじにかかって、あっちゃんの涼しげなうなじを明るい金色で縁取っていた。
「そうなん」
あっちゃんは、少し黙ったあと、そう言った。ごく普通の調子で。それとも普通の調子を演じているのか、読み取れない。
「いつ別れたの」
あっちゃんもまた、手すりに触れた。
「今朝」
「そっか」
「うん」
あっちゃんは、短く唸って、それからあたしに、おつかれさま、と言った。おつかれさま、の、ま、の音が上がって、疑問形になった。そのさじ加減に、あっちゃんの面倒臭さに、奇妙な懐かしさを覚える。あたしは笑いながら、ありがとう、と言った。
「ほんと、すごく疲れたよ」
そして、階段をくだり始める。
「あんま驚かんね」
「まあね」
あたしたちは昇降口でばらばらになり、外履にはきかえて、校舎の出口で再び一緒になった。
「なんかさ、多分ね、気を悪くせんでね、ゆうと高木くん、温度差、あるっぽかったから、長くは続かないかもって思ってた」
並木道を通って校門を出る。日差しは強いけれど、真夏よりかは暑くない。午後になっても空気はからっとしていて、少し風が強い。
「温度差、あったかな」
あたしは黒い地面に落ちる木陰を見ながら聞いた。
「そう見えた」
夏にも、こんなことがあった気がする。地面で揺れる木陰を見ながら、隣にあっちゃんがいた、そんなことが。けれどもそれがいつのことで、あたしとあっちゃんが何を話していたか、うまく思い出せなかった。
「あたし、高木くんのこと、そんなに好きじゃなかったんかな」
木陰を踏みながら、また、聞く。
「そう、見えた」
あたしたちはマンションと、古い商店と、パン屋と駐車場に囲まれた小さな路地に出て、赤信号で立ち止まった。あたしたちの学校と同じ制服を着た女の子たちが、自転車に乗って角を曲がっていくのが見えた。
「そっか」
「うん」
「そっかあ……」
あたしは、高木くんのことを、そんなに好きではなかった。言葉に出してみたら、そうとしか思えなくなった。思えば、高木くんとはキスもしなかった。信号が青になる。
歩きながら、あっちゃんがイギリスの話をはじめたので、あたしは聞き手に回った。イギリス料理はおいしくない、と聞いてたけれど、ホームステイ先のお母さんが料理上手で、いつもおいしいものが食べられたこと。特に、スコーンがびっくりするくらいおいしかったこと。街中のイギリス人は歩くのが早いこと。英語で話しかけても、少し発音や文法が違うだけで、話を聞いてもらえないこと。みんな日向ぼっこが好きなこと。フィッシュアンドチップスが全然おいしくなかったこと。
あっちゃんの話のいくつかは、SNSで読んだのと同じ話だった。あっちゃんが撮ってアップした写真や、あっちゃんが送ってくれた絵葉書と同じ、おしゃれで外国じみたお話。あたしとは全然関係ないところで生きている、あっちゃんのお話。あたしは相槌を打ちながら、だんだんと寂しくなった。おれとこんな感じで終わったらゆうは次恋愛したって絶対同じことになる。高木くんの言葉が頭の中に響いた。あたしは、あっちゃんのことも、もしかしたらそんなに好きではないのかもしれない。もしかすると、それで寂しいのかもしれない。
話しているうちに、大きな道に出た。道を挟んだ向こう側には、コンビニがある。やわらかチキンが置いてある、あのコンビニだ。
「コンビニ、寄っていい」
横断歩道を渡りながらあっちゃんがあたしに聞いた。
「あたしも行きたい」
あっちゃんがやっとこちらへ戻ってきてくれたような気がして、あたしは二度頷いた。
「あたしも、寄りたい気がしてた」
コンビニの前は少したばこ臭く、けれども人はいなかった。自動ドアが開き、ぴんぽーん、ぴんぽーん、と音が鳴る。ひやっこい風がさっと体を走り抜ける。
「冷房、効きすぎじゃろ」
あっちゃんが店員さんに聞こえないくらいの声で言った。
「がんがん効いていらっしゃるね」
あたしは小声でそう返して、笑った。雑誌コーナーに少し寄り道して週刊の漫画雑誌を立ち読みしたあと、ペットボトルがぎっしり詰まった冷蔵庫の前へ移動した。今日買う飲み物を、ガラス戸のこちら側から、ふたりで選ぶ。選びながら、あっちゃんが、ゆうちゃんは、と切り出した。
ゆうちゃん。いつも、ゆう、と、呼び捨てにしているのに、あっちゃんは時々、保育園の時みたいに、あたしのことを、ゆうちゃん、と呼ぶ。
「ゆうちゃんは、発展させるの、うまかったじゃん」
例えば、ほそながい石は足の化石で、ひらぺったくてひび割れた感じの断面をもつ石は、頭の化石の一部、とか言ってさ。急に昔の話が始まったので、あたしは不思議に思いながら、そうだっけ、と相槌を打った。
「そうだったよ」
「それ、あたしが言ったんだっけ」
「うん」
「あっちゃんじゃなかったっけ」
「や、ゆうちゃんだよ。覚えてるもん」
でも、と言って、あっちゃんはガラス戸を開けた。足の間がすーっと冷たくなる。
「でも、ゆうちゃん高木くんとは、そんな感じじゃなかった」
あたしは、あっちゃんがあたしと高木くんとの話をしていることにようやく気がつく。あっちゃんが話題を変えるタイミングは、やっぱり、少しもわからない。あっちゃんの手が、黄色い液体の炭酸ジュースに伸びた。
「なんか全然、発展しなさそうな感じだったんよ」
だから驚かんよ、別れても、とあっちゃんは言った。
「よくわかんない」
「あたしもどう言ったらいいかわかんない」
あっちゃんは唸りながらガラス戸を閉めた。ガラス戸は店内の湿気で白っぽく濁ってしまった。
「なんだろ、ゆうちゃんて興味のあるなし、結構はっきりしてる、みたいな話」
「そんな話なの」
「そうだよ」
「あたし、興味のあるなし、はっきりしてるの」
「そう見えるよ」
「そうかなあ」
あたしは首をひねりながら、ガラス戸を開ける。赤色、青色、オレンジ色、黄色、緑色。たくさんのペットボトルの中から、白っぽいラベルの、味付きミネラルウォーターを取り出す。それから、ふと思い出して、聞いてみる。
「あの時のいし、どうしたか覚えてる」
「あの時のいし」
あっちゃんが繰り返した。
「化石のいし」
「ああ、さっきの話の」
「うん。最初あっちゃんが言い始めたじゃん。化石のいしだって。あれ、あの後、どうなったんだっけ」
「全然覚えてない。化石のいしだって言って、ティッシュに包んでしばらむ持ってたのは覚えてるんだけど」
でも多分、すぐどっか行っちゃったんじゃないかなあ。あっちゃんはそう言いながら、つま先をレジに向けた。向けた、と思ったら、すーっと遠ざかる。あたしは慌ててガラス戸に背を向け、あっちゃんを追う。
「あっちゃん、ずっと一緒にいてよ。どっか行っちゃわないでさ」
「むりだよ。あたしは宇宙に行っちゃうんだよお」
あっちゃんが振り向いて、冗談めかして言う。
「そういうことじゃなくてさあ」
「じゃあ、ずっ友、て意味」
「それも、ちょっと違う」
「どういうこと」
「うまく言えないけど、でも、そんな、むりだよとか言われたらさ、なんか、寂しいよ」
「ジンルイはみんな、寂しいんだよ」
あっちゃんが、また、冗談めかして言った。その言葉に、あたしの胸が泡立つ。
「なにそれ。ジンルイ、とか言っちゃって」
「寂しいんだよお」
「適当なこと、言わないでよ」
あっちゃんが笑いながら、また前を向く。途端に、あっちゃんの姿はぐんぐん遠ざかる。なにそれ。あたしはあっちゃんを追って走り出す。あっちゃんはもっともらしいことを言うけれど、それってほんとにいろいろ考えて言ってるの。あっちゃんも、ほんとうは寂しいの。
コンビニのエアコンは効き過ぎで、わたしの手足はどんどん冷たくなって、そうしているうちに、コンビニが長く伸びて、後ろへ遠ざかりながら消えていく。お惣菜が消え、パンが消え、棚が消え、店員がレジカウンターごときえる。さいごにはお店もなくなってしまって、わたしはせみのなきごえを思い出す。風の音を思い出す。ひと気のない家のおくの、ラジオの声を思い出す。
「わたしも」
あっちゃんが急にあたしを振り返って、あたしたちの距離が急速に縮まる。わたしも、寂しいんだよ。
あっちゃんは、控えめにわたしの腰に触れた。
途端に、あたしたちは砂浜に立っている。波が寄せて返す、どどう、という音が聞こえる。あっちゃんと、あたしと、あたしたちが手に持ったペットボトルと鞄、それ以外のものは全部後ろに吹き飛んで、あたしの足元には、麦わら帽子が落ちている。
寂しい。ジンルイはみんな、寂しい。あたしは、あっちゃんの腰に触れ返した。
ぴんぽーん、ぴんぽーん。コンビニの出入り口でチャイムがなって、あたしたちはそのとたん、もう、元のとおりにコンビニにいるのだった。あっちゃんは肩で息をしているあたしの隣で、レジいこ、と言って、ベリーショートを揺らした。
「そういえば、修学旅行、行き先決めた?」
修学旅行は、結局、北海道に行った。あたしに近しい人たちのうち、あっちゃんとゆきをとみちるが北海道を選んだ。あっちゃんとみちる以外はお互い面識があったので、あたしたちは四人で行動班を作り、ジャガイモを食べたり、羊を見に行ったりした。ゆきをもみちるも、あっちゃんの前ではBLのことを話さなかったけれど、好きな漫画の布教は忘れなかったようで、あっちゃんは修学旅行明けからブラマイを読み始めた。
修学旅行が終わるとすぐ、志望大学のヒアリングがあって、あたしは名古屋の大学を第一志望にした。あっちゃんはアメリカのどこかの大学へ進学する、らしい。何度聞いても覚えられない、耳馴染みのない大学名だった。やっぱり、外国めいた名前だった。それだけを覚えている。
大通りの信号は赤だった。自転車を止めて足を着く。目の前には真っ白になった建物が見える。元、コンビニだったその建物の中で、灰色の作業服を着た男の人たちがうろうろしているのが見えた。
あのコンビニが無くなったのは冬休み明けのことだった。正確には、あたしがそのことを知ったのが、冬休み明けだった。あっちゃんと下校した時、コンビニがあったところに、空っぽの白い建物だけが残されていたのだった。
その頃から、あっちゃんはまた髪を伸ばし始めた。そうして三月、春休みが始まると、二度目のホームステイへ行った。今度はアメリカだそうだ。
「短期だから、手紙書く暇ないかも」
あっちゃんは中橋で路面電車とすれ違いながらそう断った。
「でも万が一ジョセフに会ったら絶対教えるから」
男の人たちは、うす緑色のテープで、ビニールのようなものを貼っている。来月、別のコンビニがオープンするらしいことを、さっき学校で、みちるから聞いた。希望者だけでやる春休みの模擬試験に、あたしもみちるも参加したのだ。
新しいコンビニは、どの唐揚げがあるチェーンだろう。そう思いながら、あたしは地面を見ます。横断歩道の白線はすっかりあたりに馴染んでしまって、もうどこが新しいのだかわからない。きっと、気にする人もいない。ラインが引き直されたことを知らないままの通行人だって、いるに違いない。
あたしもそのうち、白線のことなんてすっかり忘れてしまうだろう。忘れられて、なかったことになって、それでも毎日、ラインはどこかで引き直されているのだろう。
顔を上げるのと同時に信号が青になったので、あたしは自転車のペダルに足を乗せ、横断歩道を渡り始めた。
そこにあったり、なかったり @mzk0u0
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