酩酊

@mzk0u0

酩酊

 酩酊はおさまる気配がない。自転車を倒して腰をおろすと、アスファルトは生暖かく僕の尻を迎えた。冬のウォシュレット・トイレを彷彿とさせるぬるい温度はしかし、この湿度と絡まって少し鬱陶しい。

 片側二車線の国道を、車やバイクがぱらぱら走ってくる。そのいく台かを見送っているうちに、単調な虫の声が聞こえていることに気づいた。周囲に公園などはないはずだ。植え込みにでも生息しているのだろうか。そもそも、この初夏に鳴く虫などいただろうか。せみだってまだ鳴いていない時期だった。すぐそこ、というわけでもなく、ものすごく遠いわけでもない、そういう距離で鳴いているであろう、複数の、しかしおそらく同種の虫たちのこえを聞いているうちに、かえって心がしんと静まり返ってくる。僕はいつしか目を瞑っていて、暗闇のに赤やあおの薄ぼんやりとした光が回った。

 季節外れの歓送迎会だった。チームの五人だけで、万時さんを送り出し、金岡さんを迎え入れた。金岡さ

んは四月の異動でやってきたのだが、新型コロナの件で会社がうるさかったせいもあって、万時さんが異動す

る段になって、合わせて歓迎しようということになったのだった。

会社での飲み会は数年ぶりで、ほどほどにしたつもりなのに今は明らかに飲みすぎたことを自覚している。緊張して

いたのだろうか。けれどもその必要はないはずだ。万時さんも、金岡さんも、他のメンバーも悪い人たちではない。仕事はうまく、とは言えないかもしれないが、それなりに回せているし、合間の雑談——芸能人の話から時事のニュースまで——についても、ちゃんと話ができている。できている、はずだ。そういうことがうまくできなかった、前の会社とは違って。

 臼井部長を思い出す。事務所でも飲み会でも、誰かに話すふりをして、僕に聞こえるように、僕がいかに仕事ができないかを語っていた人。それから出島主任。その日僕が起こしたミスを全部記録して終礼の時に伝えてきた先輩で、飲み会のたびに猥談を持ちかけては「ああ、増田君ってそういうの苦手だったよね。ホント、キレイだよねえ」と半笑いしていた。

 十年以上前の話だ。なのにまだ名前も顔も、忘れられずにいる。ほどほどにしようと思うのに、会社の飲み会となるといつも飲みすぎてしまうことと関係があるのかないのかは、わからない。今の職場では皆、僕が冗談を言えば笑ってくれるし、何も言わなくても、優しく接してくれる。けれども、優しく接してくれた人たちの顔は、こんな時意外なほどに思い出せないのだ。

「大丈夫ですか」

 背中から声が聞こえた。振り返ると、男が自転車に乗ったまま僕を見下ろしている。暗くて顔は判然としないが、声からすると学生だろうか——ああ、大丈夫です、大丈夫です——僕の口からは当たり障りのない言葉が漏れ出て、気がつくと尻はぬるいアスファルトから離れている。ちょっと飲みすぎちゃって。はは。意味のない笑い声が漏れて、その笑い声の野暮ったさに微笑みながら絶望する。若い男は僕の様子にやや逡巡のそぶりを見せたが、あ、じゃあ、と頭を下げて、自転車のペダルを漕ぎ始めた。そのことにまた少し絶望する。若い男は振り向くこともなく、そのまままっすぐ交差点をわたり、さらに先へ進んで行く。

 そのさまをぼんやり見送り、倒したままの自転車を起こした。相変わらずの湿気と単調な虫の声が僕の顔だの腕だのにまつわりついて、トラックがまた一台、国道を通り過ぎる。僕は澱んだ空気の底で唸りながら天を仰いだ。空を見上げても星は見えないのに、目は回るばかりだった。

 星の光が見えたなら、きっと惑星のように行ったりきたりしただろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

酩酊 @mzk0u0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る