第28話 裂け目の竜

### 第28話「裂け目の竜」


 広場を覆う赤黒い光は、夏の蜃気楼のように滲み、しかし決して揺らがなかった。空は裂け、糸状の亀裂が幾重にも織り重なって、一枚の巨大な膜を形成している。市民にはただの光の加減に見えるのか、笑い声と呼び込みの声が続く。だが境界守には、その膜の向こうに“こちらではない別の圧”が押し寄せているのが分かった。


 最奥から、竜が降りてきた。塔ほどの体躯、鉱石の刃のような鱗、胸腔の奥で灼けた心臓が脈打つたび、赤黒い光が鱗の間を走る。吐息は灰を孕み、地面を白く枯らす。篠森蓮はその第一歩を、耳ではなく骨で聞いた。


 ――我が子よ。


 囁きが、体内のどこかに直接触れる。蓮は歯を食いしばり、ユリスの前に符を展開した。薄膜のような蒼白の面が立ち上がり、竜の熱風を斜めに受け流す。石畳の目地が焼け、黒くひび割れた。


「蓮、息を合わせて!」


 ユリスが右手で合図を切る。蓮は呼吸を三つ数え、波動をわずかに緩めた。赤黒い奔流が胸の内で暴れる。解き放てば、竜の顎ひとつ砕ける。その確信が甘く舌を痺れさせる。


 ――使え。救える。


 声は慈愛を装っていた。蓮は首を振り、蒼白の刃を作る。刃は風を裂き、竜の前腕に軌跡を残した。火花ひとつ上がらない。鱗が音もなく盛り上がり、斬撃を飲み込んだ。


 ガランが側面から飛ぶ。巨刃が膝裏を打ち、重い金属音が空気を揺らした。竜の尾が回転し、石の柱を折りながら掃討する。アルマの結界が瞬時に生まれ、市民の輪郭から衝撃を剝がす。笑い声は寸分も乱れない。表の世界は、きれいに保たれた。


 セラは街角で膝をつき、修復の糸を張る。薄い光が路地を縫い、崩れかけた壁を仮止めするたびに、彼女の指先から体温が奪われる。息が白く、夏なのに白く見えた。


「崩れないで……お願い……」


 祈りは小さく、だが確かに効いていた。倒れかけたバルコニーが元の位置に戻り、粉々の煉瓦が“昨日”の誤差で組み直される。イオの符が頭上で旋回し、波形が連続画のように結晶へ吸い込まれていく。


「主系成分、上昇。境界面、圧壊の前兆……」


 報告は冷静だが、声の奥で紙が破れるような不吉な音がした。蓮は竜の眼に引き寄せられる。深紅の瞳孔が、蓮の心臓の拍と同じリズムで収縮する。


「俺は——」


 言葉が砂を噛む。足元の石畳が拍動し、世界そのものが竜の胸腔と共鳴している錯覚。ユリスが肩を叩く。


「ここにいて。あなたは、ここ」


 その一言が座標を与えた。蓮は膝を落とし、接地感を取り戻す。蒼白の刃をもう一度、今度は軌道を変えて放つ。竜の喉頸——鱗の継ぎ目。薄い火が散り、竜が初めてわずかに身を引いた。


 怒号のような無音の咆哮。聞こえないはずの音が耳朶を震わせ、景色の端をめくれあがらせる。露店の天幕が風に揺れ、市民は「今日は風が強いね」と笑っている。


 尾が来る。ガランが間に合わない。アルマの結界でも角度が悪い。蓮は一歩踏み出し、赤黒い波を押し潰す形で蒼白を前へ突き出した。二色の光が衝突し、鈍い破裂音が内側で起きる。胸骨が軋み、血の味が口に溢れた。


「蓮!」


 ユリスの声が揺れる。蓮は首を横に振り、笑ったつもりの表情で顎を上げる。竜の腹部、呼吸のたびに遅れる場所。そこへイオの符が針のように降り、セラの糸が街の輪郭を固定した瞬間、ガランの刃が心臓の外殻に届いた。


 硬い。だが、届く。わずかな裂け目から赤黒い光が噴き、空の膜が震える。イオが叫ぶ。


「境界の耐性、限界! 面を再構築する!」


 アルマが頷き、街全体へ平たい結界を敷く。薄い硝子を何枚も重ねるような重層の膜。足音さえ柔らかくなる。市民の笑顔は保たれ、戦いの音は深い水底へ沈む。


 竜が空へ退こうとした刹那、蓮は地を蹴った。赤黒い波が踵から噴き、彼を加速させる。喉が焼けるほど甘い力。境界の縁をなぞるように、一瞬だけ借りる。蒼白の刃が喉の継ぎ目に差し込み、内部の熱に触れた。


 ——我が子。


 至近距離の囁き。蓮の瞳に別の景色が映る。層になった都市の“裏面”、修復で塗り固められた欠落の空洞。そこに、手が伸びてくる。


「違う」


 蓮はその手を、ユリスの声で払い落とした。名もつかない細い声。だが世界の座標をもう一度、ここに引き寄せるには十分だった。刃に力が乗る。竜の喉が断たれ、赤黒い噴流が上空へ噴き上がる。


 空の膜が裂け、昼光が一瞬だけ正しい色で落ちた。次の瞬間、修復が覆い、色は元の均質へと戻る。市民は拍手をし、理由のない上機嫌を分け合う。祭りでもないのに。


 膝が抜け、蓮は石畳に片手をついた。掌が熱い。ユリスが駆け寄り、肩を支える。セラは遠くで崩れ落ち、イオの符が慌ただしく彼女の脈を数えている。ガランは血に濡れた刃を肩に担ぎ、アルマは空の亀裂の消失を確認した。


 勝ってはいない。押し戻しただけだ。だが、戻せた。


 蓮は震える指で胸元を掴む。中で何かが、まだ扉を叩いていた。あの手はもう一度伸びてくる。次は、もっと近くに。

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