第2話 裂け目を覗く眼

### 第2話「裂け目を覗く眼」


 放課後、首都〈レグナス〉の路地は雨上がりの匂いを残していた。篠森蓮は本屋に向かう途中、石畳の継ぎ目に指を滑らせる。そこに、朝から続く違和感が沈殿している気がしてならなかった。


 ――ここは確かに同じ街だ。けれど、昨日までのそれとは微妙に噛み合わない。


 看板の色味、角の喫茶店の椅子の数、八百屋の品揃え。すべてが“誤差”のようにずれている。誰もそれを気に留めず、笑い、怒鳴り、値切っている。


 蓮は足を止める。石畳の影が波紋のように揺らいだ。


 空気の層が、一枚、薄皮のように剥がれる。


 目には見えないはずの何かが、そこにある。朝の広場で見た赤黒い亀裂と同じ質感――世界の膜が、音もなく裂け、向こう側の色が滲む。蓮は掌を伸ばした。


 指先が触れた瞬間、体温が奪われる。鼓動がひとつ、遅れる。


 足元の石畳が消え、重力が宙ぶらりんになる。視界が反転し、街の喧騒が遠ざかった。


 落ちる。



 そこは、赤黒い空の下に広がる“裏返しの街”だった。建物は骨格だけを晒し、影の血管が壁を這う。風は砂鉄の匂いを運び、遠くで鉄塔のようなものが軋む。


 境界層。


 蓮は言葉を失い、息を潜める。耳鳴りの奥で、擦れるような囁きがした。


 ――おまえ、こっち側に触れた。


 声は誰のものでもなく、空間そのものが発しているように思えた。蓮は反射的に後ずさる。だが、足元の石は影へと溶け、逃げ道は歪む。


 そのとき、地面の裂け目から“それ”が這い出た。


 影獣。四肢の関節が逆向きに折れ、顔のあるべき場所には穴だけが開いている。穴は光を食い、音を飲み、近づくだけで存在が削られていく錯覚を起こさせた。


 影獣は蓮を見た。顔がないのに、見られていると分かる。


 足が動かない。喉が凍り付く。


 穴が開いた。


 蓮の胸の奥で、何かが反響する。痛みとも吐き気ともつかない波が脳を打った。


 ――こっちに来い。


 その瞬間、影獣の首を横から裂く光が走った。黒い血が宙に浮かび、じわりと空に吸い込まれていく。


 漆黒の装束。紋章の光。人影が三つ、蓮と影獣の間に滑り込んだ。


 境界守だ。


 先頭の女が掌を突き出す。空間が縫い合わされ、亀裂が一瞬だけ静止した。女の瞳は灰金色に冷たく輝き、蓮を一瞥すると、躊躇なく命じる。


「後退。対象確保」


 凛とした低い声。命令は刃のようにまっすぐで、従うという選択肢しか与えない。


 背後の男――巨躯が刃を担いだ。厚い肩、節くれだった両手。巨刃が影獣の顎を打ち砕くたび、地面ごと波打つ。


「ガラン、右から二。流してくる」


「了解だ、アルマ」


 アルマ。――彼女が指揮官なのだと、蓮は直観する。


 もう一人の影が蓮の腕を取り、薄い膜で包み込んだ。香草のような匂い。若い声が囁く。


「大丈夫。ここは“表”じゃない。息の仕方を教えるね。三つ数えて、浅く」


 一、二、三。蓮は命じられたとおり呼吸を整える。肺に入り込む空気は冷たく、砂鉄の味がした。


 視界の端で、記号のような光が浮かぶ。長衣の人物が符を投げ、地面に走る線が解析図のように展開された。


「裂け目、半径七十。波長は主系。持続五分弱。……あの少年、共鳴してます」


 低い、しかし興味深げな声。イオ、と誰かが呼んだ。


 蓮の胸が再び軋む。影獣の穴がこちらを向く。


 穴は言葉のない言葉で語った。――おまえは、こちらだ。


 喉の奥に熱が集まる。蓮の視界が赤黒く濁り、世界の輪郭が滲んだ。指先が勝手に握られる。知らない記憶が関節の間に入り込み、影獣の歩幅をなぞる。


 踏み出せば、同じように破壊できる。そう確信できた。


 その確信が恐ろしい。


 アルマが振り返る。灰金の瞳が蓮を射抜く。


「見るな」


 短い言葉。次の瞬間、彼女は蓮と影獣の間に結界を落とし込んだ。薄い硝子のような膜が空間を区切り、赤黒い波が弾かれる。


「セラ、保護。イオ、記録。ガラン、圧す」


 呼応する声、走る足音、刃と影の衝突。境界守たちは呼吸のような精度で互いの位置を交換し、裂け目の周囲に堰を築く。影獣の群れは吠えず、ただ擦れる音だけを上げて押し寄せる。


 ガランの巨刃が円弧を描き、影の脚が飛ぶ。イオの符が縫い針のように空隙を塞ぐ。セラの膜が蓮を包み、肺の痛みを和らげる。


 アルマは一歩も引かず、中心で亀裂そのものを押さえていた。両掌に刻まれた紋章が、石に彫られた古い文字のように輝く。


「固定、あと一分」


 影獣が跳んだ。結界に爪を叩きつけ、火花のような黒が散る。


 蓮は見てしまう。結界の向こうの“こちら側”の自分を。


 赤黒い瞳孔。空白の笑み。影の脚で駆ける気配。喉から洩れた音は、声ではなかった。


 セラの指が蓮の額に触れた。冷たい。澄んだ鈴のような声が耳に落ちる。


「大丈夫。あなたは、いま、ここにいる」


 言葉が錨になる。蓮は深く息を吸った。胸の熱は少しだけ退いた。


 亀裂が縮む。アルマの掌が押し込み、イオの符が縫い、ガランの刃が押し返す。最後の影獣の首が転がり、砂のように崩れた。


 静寂。


 境界層の空に、微かな亀裂の糸が残る。アルマはそれに視線を投げ、短く息を吐いた。


「封鎖完了。撤収」


 彼女は蓮を見た。無表情の奥で、慎重な計算が動いている。


「原界人の侵入を確認。対象は感応持ち。保護の名目で連行する。――篠森蓮、で合っているな」


 名前を呼ばれ、蓮は僅かに身を強張らせる。どうして知っている、と問いかけるより先に、イオが答えを投げた。


「記録結晶に残っていた。今朝の広場でも君は“見ていた”。普通は見えない」


 セラが微笑む。どこか寂しげな、けれど柔らかな笑みだった。


「怖かったね。でも、もう少しだけ頑張って。ここから“表”に戻るのは、境界守の仕事だから」


 ガランが巨刃を肩に担ぎ直し、蓮を一瞥する。


「歩けるか。倒れたら俺が担ぐ」


 蓮は頷いた。膝は震えていたが、足は前に出た。


 境界層の地面が薄く明滅し、足跡が静かに消えていく。彼らは亀裂の縫い目に沿って歩き、やがて薄膜の向こうに“表”の色が差した。


 眩しさに目を細める。石畳、看板、人のざわめき。世界が再生される音が、遠い雨音のように聞こえた。


 最後に、アルマが境界層の空を一度だけ振り返る。灰金の瞳が細くなった。彼女は独り言のように呟く。


「――主系の波。しかも高純度。面倒な時代になった」


 次の瞬間、景色は完全に重なり、“表”が“こちら”を飲み込んだ。



 連行は静かだった。境界守の本拠は、首都の外縁に隠されているという。蓮はセラに支えられながら、石造りの回廊を進む。壁には古い紋様が刻まれ、灯は人目を避けるように低く揺れている。


 扉が開く。簡素な部屋。机と椅子、記録結晶の並ぶ棚。


 アルマが机の向こうに立った。イオは結晶を一つ取り、淡い光を灯す。ガランは壁にもたれ、腕を組む。


「質問に答えろ、篠森蓮」


 アルマの声は冷たいが、無闇に苛烈ではなかった。


「今日は何を見た。いつから見えていた。誰かに教えられたのか」


 蓮は躊躇い、しかし嘘をつけないと悟る。


「――朝の広場で、亀裂を。人が……消えた。戻った。誰も覚えていない。ぼくには、見えた。さっきは、声がして」


「声?」


 イオが身を乗り出す。結晶の光が蓮の瞳に映る。


「どんな声だ。言葉は」


「……こっちに来い、と。多分。言葉じゃないのに、意味だけが分かった」


 室内の空気が微かに締まる。ガランの眉が僅かに動く。セラは不安そうに蓮の横顔を見つめた。


 アルマは静かに結論を置いた。


「――感応持ち。主系波動への共鳴がある。保護対象とし、観察下に置く」


「兵器として、ですか」


 イオの問いに、アルマは答えない。代わりに視線だけで室内を一巡させる。


「少なくとも、このまま原界に放つよりは安全だ」


 蓮は口を開きかけ、言葉を飲み込む。胸のどこかで、あの赤黒い波が再び身を起こした気がしたからだ。


 イオが結晶を閉じる。部屋の灯が少し明るくなる。


「今夜は休め。検査は明日だ。……君は疲れている」


 セラが小さく頷く。


「寝床を用意するね。怖くなったら、呼んで。呼吸のしかた、また一緒にやろう」


 蓮は礼を言ったつもりだったが、声になったかどうか自信がなかった。


 扉へ向かう直前、アルマの声が背中を捉えた。


「篠森蓮」


 振り向く。


「ここでは、見たものを忘れなくていい」


 言葉は簡素だった。けれど、その意味はどこまでも重かった。


 蓮は頷き、扉を出た。回廊の灯が、静かに揺れていた。


 眠りに落ちる直前、耳の奥で微かな擦過音がする。


 ――おまえは、こちらだ。


 蓮は目を開けずに、薄く息を吐いた。胸の奥に小さな灯を想像する。ユリスと名乗った少女の声が、錨のようにそこへ結びつく。


 夜は長い。だが、夜はいつか明ける。


 次に目を開けるとき、自分はどちら側に立っているだろう。

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