流れきて【➂/完】

「おまえさんもこうして流れてきて、今に至る」

「…そうか」

いい加減、夢から覚めなければならない。

どうにか、目を覚ます方法はないだろうか。

塾を終えた娘を、早く迎えに行かなければならない。


時間を確認しようとして、腕時計を見た。

硝子にヒビが入っている。

男の額に汗の玉ができる。

瞬間、目映いランプの光が視界いっぱいにひろがった。


咄嗟に両手で顔を隠した。

数秒経っても、衝撃はやってこない。


まぶたをゆっくりと開けると、老人たちが男の服を大木の枝にかけていた。

枝はしなることなく、服を支えている。

気づかないうちに丸裸にされたが、怒りも羞恥も沸かなかった。



「わたしは、本当に死んでしまったのか?」



男が呆然と呟くも、老人たちは気にする様子もない。



「罪はない。次にくる電車に乗るといい」



男は詰め寄ろうとして、黙る。

大木の向こう側に、別のホームを見つけたからだ。



「なあ。あっちのホームは何なんだ?」

「あっち?」

「ああ、ほら見えるだろ」



老人たちは、ああ、と吐息にも似た言葉を発するだけだった。

自分たちの役目は終わったと言わんばかりに、男から離れていこうとする。

その手を掴んだ。



「もしかして、あっちのホームの電車に乗れば、生き返ることができるんじゃないか?」



『これが夢である』

そんな考えはもう、男の中にはなかった。

このままでは、死を受け入れることになる。

それは男にとって、恐怖でしかなかった。



「……確かに、おまえさんの言う通りさ。でも、電車はこないよ。悪いことは言わない。このまま、こっちの電車に乗りなさい」



男の手を優しく離して、老人は静かに諭した。

しかしー…。

駅名標には、『現世行き』と記されているのが見える。

生き返ることができる。

つまりは、死なずに済む。

その事実は、男に希望を与えた。


老人たちの制止を無視して、現世行きのホームへと走った。

線路を覗き込もうとして、鼻をつまむ。

最初に流れてきたような澄んだ水ではなく、線路も見えないほどの酷い濁りようだ。

加えて悪臭もする。


男は尻込みしたが、娘が……家族や彼と繋がりのあるものの顔が次々と浮かぶ。

様々な思いを馳せながら、男は意を決して飛び込んだ。



*****


「おまえさん。あれで良かったのかねぇ」

「説明する暇もなかったから仕方ない」



大木の枝にかけられたままだった男の服を手に取ると、根本に置いた。

ああして、あの世に行くことを拒むものは多かった。

現世行きのホームは謂わば、最期の試練みたいなものだった。


突然死したものは、迷わずに飛び込むことの方が多い。



「無事に現世に行けますかね」

「無理なのはわかっているだろう」

「そうですね。一度死んだものが現世に戻ろうとするのは罪。せっかく、稀に見る美しい水の中を流れてきたというに」

「今頃、後悔しているだろうよ」



罪に染まったものには、水は容赦はない。

濁り悪臭がするだけではない。

共に泳ぐ魚も獰猛になり、五体満足で現世には行けない。

いや、現世に行く前にその身体は食い散らかされて、もうー…。



「まさに生き地獄。いきはよいよい、かえりはなんとやら」

「ほら、また流れてきたぞ」

「ええ、流れてきましたね」



嗄れた二つの声が間近で聞こえて、女は目覚めた。



「………ここは?」



老人たちは、黙って駅名標を指差した。


【完】

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つらつら短編集【ホラー】 ゆめの @bill0701

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