雨の幻



 夜になると、無性にここに来たくなる日がある。静かなカフェ。窓を流れる雨のしずく。そして、雲に覆われた明るい夜空。


 雨の日って不思議。過去がやけに鮮明になる。通りを過ぎる自動車が思い出を引っ張ってくるみたいに、思い出したくないことまで、鮮やかに浮かび上がる。


 このカフェは、あの子が好きだった場所。いつもあの子は『何時間でもいられるね』って笑ってた。雨が降るたび、ここに来て、何でもない話をしていた。


 最近の辛かったこと、楽しかったことはもちろん。めんどくさかったこと、すねたこと、怒ったこと。些細なことまで話し合った。


 でもあの日、帰り際にあの子は突然言ったの。『私、この街を出るよ』って。あまりに急で、私は『なんで?』と言った。


 それだけ。


 その一言だけ。


 その一言に、返事はなかったけど。



 私はあの子の背中を見るだけで、引き止めることはしなかった。一瞬でそれだけの関係に成り下がってしまった。あれだけの時間を過ごして、あれだけの話をしたのに。


 あの子の悲しそうな顔だけが、今もずっと心の中に刺さっている。



 あの時の私は怖かったのかもしれない。


 私が悪いのかもしれない。頼りすぎていたのかな。知らない内に傷付けていたのかも。


 色々と考えて、考えて、考えて、スっと引いた線を飛び越えることはしなかった。


 自分で自傷して、これ以上傷付くのを避けた。


 私は私のことで精一杯で、この現状を受け入れるしかなかった。全然悲しかったし、あの子のことを嫌いになったわけじゃない。


 後悔はしている。でももう一度同じことがあったら、私は同じことをする。それぐらいの弱い人間だ。



 ある夜。雨が強く降っていて、窓ガラス越しにぼんやりと外を見ていたら、見えたんだ。あの子の姿が。


 傘もささずに、雨の中を歩いてた。その瞬間、私は席を立とうとして……立ち上がる前に、あの子の姿が消えてしまった。


 幻だったのかもしれない。窓に張り付いた雨のしずくがイタズラしたのかも。それでも、幻でも、あの子に会えたことが嬉しくて、私は涙が出た。


 怒りも悲しみも湧いてきて、ぐちゃぐちゃの感情だったけれど、


 私にもまだあの子を想える感情があるんだって知れて、少し気持ちが楽になった。


 あの夜から、雨の日になると、私はこのカフェに来ている。あの子がいつかまたここに来るんじゃないかと思って。


 でも、まだ一度も会えてない。


 また何でもない話がしたい。


 話したいことが沢山ある。あの子もそう思ってるといいな。









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