1ー3
沙世視点
図書館の奥まった一角。窓から斜めに差し込む春の光が、積み重なった本棚の隙間を縫って机に落ちている。ページを繰る音と、遠くで誰かの咳払い。そんな静かな空気の中で、私はふと顔を上げた。
少し離れた席に、いつのまにか決まったように座る一年生の姿。まだ制服の襟も新しい感じが残っている。白石真琴。
名前は、出席の時に聞いた覚えがあるだけ。でも、私の目にはもう“名前だけの存在”ではなくなっていた。
――またいる。
図書館に来るたびに、彼女の姿がある。最初は偶然かと思っていた。でも、あまりにも回数が重なっていくうちに、もしかして「ここが好きなんだろうな」と自然に思うようになった。
顔を伏せて本を読んでいる仕草。ノートを開いてペンを走らせるときの真剣な目。
それを見ていると、胸の奥がほんの少しだけ柔らかく揺れる。
かわいい。
そう思ってしまうのは、先輩としてはおかしいだろうか。
もちろん、ただの後輩だ。
でも、なんだか放っておけない。図書館の空気にまだ馴染めていないみたいに肩が少しすくんで見える。誰かに囲まれて楽しそうに笑っている姿は、まだ見たことがない。
「声をかけてみようかな」
心の中で何度もそうつぶやいた。でもそのたびに、私はページをめくるふりをして誤魔化す。
――私なんかが、急に話しかけてもいいんだろうか。
――かえって驚かせてしまうかもしれない。
真琴がペンを持つ手が止まり、軽く首をかしげて考え込む。その仕草を見ていると、胸の奥がきゅっと締めつけられるようになる。
何か言いたい。言わなければいけない気がする。だけど、言葉が出てこない。
ページの端を指でなぞりながら、私はため息を胸の奥に押し込めた。
「今じゃない。タイミングを間違えると、この静かな空気を壊してしまう。」
そう自分に言い聞かせながら、ちらりと彼女のノートを見てしまう。白い紙の上に、一行だけ書かれた文字。遠くて内容までは分からないけれど、その“最初の一言”がやけに大切そうに見えて、私の心を不意に捉えた。
もし、あのノートに私の言葉を書いたら――。
そんな考えがよぎって、頬が熱くなる。
本を閉じる音が、図書館の静けさに少し大きく響いた。
私は慌てて視線を落とした。
「……次に会ったときには。」
声にならない声を胸の奥でつぶやく。
この静かな積み重ねが、やがて何かの始まりになるのではないか――。そんな予感だけを抱えて、私はその日の図書館を後にした。
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