第2話:邂逅
人で犇めいている九龍城塞の中でも龍城路はメインストリート同然の位置にあるだけに、そこに面している店は漏れなく常に混み合っている。
阿雪は少年たちを伴っていつものように裏口から李の粥屋、“李德蘭”に入ろうとしたが、どうやら普段以上に忙殺されているらしい店主の様子を見てそれを諦めることにした。
「腹…減ってるよな?二人とも…、オレは少し李さんを手伝ってくるから、その間ー」
身に纏っている白い長袍の隠しから財布を取り出して、幾らか子豪と光然に握らせながらしゃがんで視線を合わせる。
「そうだな…、萬さんのお店なら少しは空いてたから、これで何か食わせてもらえ。あとは、胡さんのお店で待たせてもらうんだぞ。薬を包んだり、棚に薬箱を戻したり、出来ることはお手伝いしろよ?」
「うん、もちろんそうするよ」
「昼には迎えに来てくれるよな?」
「昼か…、過ぎちまうかもなぁ。けど、おまえらとの約束が先なんだから、李さんと交渉して何とかしてみような」
「さっすが、雪哥」
気をつけて行けよ、と声を掛けて裏路で別れるも、ふたりは駆け出してあっと言う間に薄暗い小路の奥へ消えた。彼らもここで生まれ育った子供たちだ、迷宮の如き城内もまるで勝手知ったる我が家の庭のような感覚に違いない。
それに、もう昔ほど治安は悪くない。九龍城寨が如何に混沌としていようとも、そこに住む人々は心ある者が大半だ。“城南路”の惨劇のあと各區画で自警団が発足した頃に、入れ替わるかのように表立っていた三合会が次々と地下活動に入り、治安は緩やかながらではあるが驚くほど回復していった。
もう子供の一人や二人が攫われて売られてゆくなど日常茶飯事だったころとは違う。この八年で大きく様変わりしたお陰で、阿雪も大人たちに助けられて命拾いした子供のひとりだ。
粥屋の李も、饅頭屋の萬も、薬屋の胡も、みな玄志の碁仲間だった人たちだ。
言うなれば阿雪の第二、第三の親代わりのような存在で、あの“安らげる家”の修繕を手伝ってくれもした。そして何よりも有難かったのは、必要以上に踏み込まず、そっとしておいてくれたことだ。阿雪としてはどんな形であれ何としてもそれらの恩に報いたく思っている。玄志が存命だったならばきっとそうしろと言ってくれるだろう。
そこまで思いに耽ったあと、阿雪は李の粥屋“李德蘭”に戻った。
今日は殊に店が繁盛していて、手伝いに現れた阿雪を認めた李の喜びようといったらなかった。阿雪の料理の腕前はなかなかのもので、それも全て大人たちが教えてくれたおかげだ。
大いに腕を揮って客を捌いていったものの、結局は昼をとうに過ぎてしまい、午下茶の半ばになって店を出た。
李に持たされた籠の中には手間賃とは別に包んである金銭と、果物や菓子がたっぷり入っている。これはあいつらに渡してやろう、そう思いながら足早に傍路を抜け、龍城路の大通りから薬店に入る。
「あ、雪哥!」
「悪かったな、遅くなって。こんにちは、胡さん。こいつらちゃんと役に立ちましたか?」
「ええ、それはもう。高い所の物を下ろしてくれたりしてねえ」
にこやかに言う胡伯母へ、子豪と光然はもじもじしながら頷いている。いつもは悪ガキぶっている癖に、大人から褒められる時は態度が素直でおとなしいのだ。つまり、きちんと店の手伝いをしていたということになる。その様子に阿雪も自然と口元が綻んでしまう。
「よくがんばったな、ふたりとも。…そうだな、今日はもう手習いと詠春の両方を教えるのは難しいからな…、どっちか好きな方を選んでいいぞ?」
「両方がいい。どっちも大切だからって胡さんがそう言ってた」
光然の言葉に子豪も頷いている。つい朝には嫌だと言っていたのが嘘のような態度だが、店を手伝う間に何か思うところがあったのだろう。その様子に阿雪は何も訊かずに笑顔で頷いた。
「そうか…、手習いは夜になるな…。ならいっそ、オレの家に泊まって行くか?」
『やった!それがいい!』
飛び跳ねんばかりに喜ぶ少年たちの手をそれぞれ左右の掌へ携えると、胡伯母へ礼を述べてから薬屋を辞する。こうして穏やかな心を保ったままで過ごせるのはありがたく、阿雪にとってはこのような他愛もない会話を交わせることこそが、何よりも大切で換え難い時間なのだ。
龍城路からすぐの傍路を入ったところにちょっとした空間がひらけていて、以前に暫く使わないからとこれもまた粥屋の李から二つ返事で許可を貰っており、武術の稽古に場所を借りている。どうせ終わったあとは腹が減ったと言い、店で夕食の世話になるのだろうからちょうどいい。阿雪はそこで少年ふたりと向かい合って、基本の套路から教えることにした。
ほぼ同じ頃―。
宇龍は頭の中で地図を辿りながら九龍城寨を歩き回っていた。
觀塘や牛頭角の警察署内で何度も何度も描き直され、描き足された九龍城寨の地図らしきものはそれでも、密林の如く増殖した建物の五分の一も把握しきれていなかったが、ひとまず捜査の役には立つだろうと時間を作っては資料室に籠って頭に叩き込んでおいたものだ。
お陰ですんなりと地上部分は南側と西側の一部を踏破できた。迷わずに辺りを観察する余裕のある様子で、ごく自然な足取りで進んでゆき、余所者に目敏い小悪党の類に絡まれることもなく宇龍は“そこ”へ辿り着いた。
ひっそりと静まり返る小さな路地は、色が一切抜け落ちたような通りが目抜きに続いている。そこは灰色と黒ずんだ影が落ちて、申し訳程度の街路灯が二つか三つ白熱灯のあかりを投げかけていたが、それは光の輪となって散り、路地にまでは届かない。
八年前の惨事で壊滅した“城南路”は想像していたよりひっそりと在り、禍々しい気配の名残は微塵もなく、寂しく静謐な空気が横たわっていることに、宇龍は軽い驚きを覚えた。
それでもよく見れば、壁や鉄柵などには染みついた黒い血痕や独特の錆付きが残されている。何度も事件現場に遭遇している刑事の目線で見ると、相当に凄惨な場だったのだとわかる。
で、ありながら漂ってくるこの清々しさは何だと再び首を傾げつつ、路へ慎重に足を踏み入れた。
“そうか…、掃き清めているのか。それも頻繁に、だ…”
人の近寄らぬ場所だというのは直ぐに分かったが、打ち捨てられているわけではない。この地に人の手が入っていることに宇龍は僅かな安堵と希望を覚えた。それはまだ事件を忘れずにいる人間の存在を示唆していることに他ならないからだ。
そのまま“城南路”を抜けて小路を辿り、大通りへ出る。僅かに空が見えるということは、ここが龍城路なのだろう。比較的まっとうな店舗が集まっているようにも見受けられるが、その奥がどうなっているのかまでは見当もつかない。
航空機がエンジンの爆音を響かせて頭上を掠めていく。翼の影が横切って申し訳程度の陽光を束の間遮り、離発着ギリギリの高さにまで築き上げた建物が一斉に震えるのを何とはなしに見上げて眺め、膚に城寨の空気を感じながら今後の捜査について思考を巡らせた。
幾つかの店の前を通り過ぎたとき。傍路からおよそこの混沌に似つかわしくない、溌溂とした子供たちの笑い声が響いて宇龍の耳に届く。屈託のない明るいそれは表の世界で聞くのと何ら変わりはなく、思わずそちらへ足を向ける。
乱立した建造物の隙間にうまれた空き地が、傍路の先に広がっていた。そこに、少年が二人と白い長髪を緩く編んで結った人の後ろ姿が見える。子供に武術の指南をつけているのと、この時世には珍しい長袍を身に纏っていることから矍鑠とした壮健な老人なのだと思い、不躾になるのではと声を掛けるのを躊躇った。
だが、白い長袍を纏う身から漂う気配と、袖を捲り上げて晒している陽に灼けた腕の膚艶は老人のそれではない。武術の套路を手本として見せているその動きにしてもそうだ。
「…誰か、こっち見てるよ?大哥…」
少年の一人が宇龍に気づき小さく告げた途端、白い影が翻ってこちらを向いた。結い切れなかった長い前髪がはらりと顔の前に落ちかかり、無造作に払って見せた容貌は青年のものだった。厳しく引き締めた表情と警戒心に満ちた眼差しで宇龍を射貫く。黒い柳眉に繊細そうな顔立ちだが、鳶色の眸には強い光がある。
「余所者だな、あんた」
少年たちを背後に庇いながら、涼やかな声で断じてくる。すぐにでも構えられる体勢を取っているのが見て取れ、宇龍は敵意がないことを示すために両掌を相手へ見せながら顔の高さまで挙げて見せる。
「邪魔をして済まない…悪気はないんだ」
ごく平穏な声調で言い、軽く微笑んでみせるも青年の警戒は解けなかった。そのまま立ち去るのも許さないような気配でいるのを振り切ることもできたが、宇龍はそうしなかった。否…、出来なかったという方が正しい。白髪の青年の佇まいと振る舞いに、強く惹かれたからと言う他に理由はない。
相手が余所者かどうか、先ず阿雪を見た時の反応からして容易に判別がつく。一種の安全装置として働くこの外見も捨てたものではないなと改めて思いつつ、唐突に空き地へ闖入してきた男を警戒しながら観察する。阿雪を認めて初めこそ驚いた表情を見せたが、直ぐに平静を取り戻している。対峙してみても敵意がないことは感じ取れるが、余りに動じない男の態度に拭えない違和感もある。
短めの薄手の革ジャケットにジーンズとミリタリーブーツ、黒で揃えたそれは男のよく鍛えられた身を包むに相応しい。身のこなしと気配をラフなものに見せようとしているのだろうが、九龍城寨で多くの人々を目にして育ってきた阿雪には通用しない。
夜の如き黒髪は短く剪り整えられ、よく陽に灼けた膚は生業故か。顔立ちは精悍そのもので、凛々しい眉の下で並みならぬ意思の強さが宿る眸は黒曜石のように光っているが、そこに邪気や悪意は全く感じられない。そうした男の印象は悪くなかった。寧ろ、好ましささえある。
違和感と男の様子を擦り合わせてみて、漸く合点がいった。
「そうか…、わかった。…用がないなら行ってくれ、ここにはオレとこの子たちしかいない。ただ武術の稽古をしているだけだ…、少なくとも警察が探るようなことは何もないぜ」
「…!」
どうやら阿雪の指摘は当たりらしい。男の片眉がぴくりと跳ねる。
どう見ても堅気には見えないが、かと言ってそこら辺の小悪党に毛が生えた少しましなチンピラ程度とも思えず、有り体に言えば“悪い奴”には見えなかったのだ。となれば、答えは一つしかない。
「これはオレの癖みたいなものだが…不躾に思ったのなら詫びるよ」
「ああ、いや…そういう訳じゃない。邪魔して悪かったな」
ふっ、と互いに打ち解け半ば、気まずさ半ばといった苦笑を交わしながら、砕けた言葉をかけ合い、それで背中に庇った子豪と光然が明らかに安堵の気配をさせたのが分かる。長袍の裾から顔を覗かせて見上げてくる二人へ、阿雪は開けっ広げな笑みを向けて安心させてやる。
「ふたりとも、大丈夫だからな。このひとは悪い奴じゃない。それにしても香港警察の人間が、三不管のここに入ってくるなんて珍しいこともあるもんだ…」
言いながらも阿雪は自警団の大人たちが以前に、いずれ近いうちに香港警察の介入が始まるだろうと話していたのを思い出していた。どの程度頼りになるのか未知数だが、この男のような警察官がいるのなら少しは、期待を寄せてみてもいいのかもしれない。
そうは思ったが阿雪は男の名も訊かず、またこちらから名乗りもしなかった。少年たちとの約束の方が重要だったし、傍路から立ち去ったあと直ぐにその存在は阿雪の記憶から過ぎ、薄れて消えることになる。
一方で宇龍の記憶には阿雪の印象は鮮烈に刻まれた。
稀有な外見の所為だけではなく、追おうとしている事件に関わりがある人物だと頭の片隅で閃きかけたものがあったからだ。どこかで見ている、若しくは遇っている。そんな気がしてならず、こうなると居ても立っても居られない刑事の性が騒ぎ、宇龍はその足で勤務している觀塘署へ赴き、非番にも拘らず資料室へと籠った。
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