雪舞双龍
風乃 陽生
第1話:雪舞双龍・序
阿雪SIDE・序
春の温い陽射しがあばら家の壊れかかった窓から長くさしこんで、モザイク模様を描くタイルの床を満遍なく照らす。その光の手が漸く届くところに阿雪の裸足のつま先があった。
ほど良く陽に灼けた褐色に近い膚はその裸足からすらりとした脚が膝まで現れていて、その先は無造作に敷かれたマットレスと毛布に挟まれて隠れ、こんもりと小山になっている毛布のしたで阿雪は上体を丸めてぐっすり眠っている。
阿雪の棲むこの城南路は、他には誰もいない。その昔ここは三合会の組織同士の大きな抗争の場となり、瞬時にしてまるで戦場のような様相を呈したあと、慎ましく暮らしていた人々をも巻き込んで大勢が死に追いやられた所謂、惨劇の場だからだ。
亡くなった住人たちを弔うために毎年命日になると祭壇が建てられ、九龍城寨の方々から身内や親戚が集まりはするが、それ以外には誰も寄り付かない場所だ。忌むべきとまでは言わなくとも人が近寄らないのも当然と言える。
阿雪は生まれた後すぐに母が蒸発し、そのあとは城南路がまだかろうじて商店街の体裁を保っていた頃に、ここで金物店を営んでいた廖玄志という老人に引き取られ育ててもらったのだ。
玄志はその昔は大層腕の立つ武術家であったが、武館会などの方針に段々と嫌気が差して反りが合わなくなり、ひっそりと九龍城寨に隠居したという逸話のある変わり者だった。
それでも、阿雪の記憶にある玄志はいつも穏やかで優しかったし、福禄寿のような長い白髯と撫でつけた白髪を靡かせて、質素な長袍を纏った仙人の如き出で立ちがいまでも忘れられない。玄志は阿雪に武術を教えてくれた。佛山が発祥の南派拳、詠春拳をである。
身寄りのない阿雪を案じて、身を守れるようにと身を立てられるようにとの考えから、四歳を過ぎた頃からみっちりと仕込まれたが、阿雪には天性の才のようなものがあり、勘が良く日に日に上達していった。玄志は稽古や鍛錬のときでも厳しい顔を見せたり、声を高くして叱ったりなど一度もしなかった。
ただただ、温かく阿雪の成長を見守り、導き、喜んでくれた。
それが八年前のあの日、全てが血の海の中に消えた。今でも鮮明に覚えている…忘れはしないし、忘れられもしない。
塗料をぶちまけたように城南路の壁のあちこちに飛び散った血とこびりついた肉片。どこからか滴る水滴の音が床に落ちるが、それは水などではなくどす黒い血だ。
銃器で悉く壁や窓を撃ち抜かれた家屋や店舗は惨憺たる有り様で、そこら中の床に遺骸が転がっていたり、柵に引っかかっていた。山刀のような鉈のような重い刃物が店の軒先の机に突き立ち、それは血錆びていて、すぐ傍には無造作に斬られた腕が転がっていたりもした。
噎せ返るような血と臓物の臭い。死体の数々は、もうそれが誰だか判別できない者が殆どだったが、玄志は違った。血に染んだ白髯と柳のような体躯が、阿雪に見分けさせてくれた。その無惨な最期を忘れない。
こうして養父が殺され、手酷く破壊されたとはいえ、阿雪にとって安らげる家はこの場所だけだ。ここを離れたらきっと、己でなくなるだろうと怯えてもいる。だから時間をかけてでも、この家を何とか住めるまでに修繕したのだ。城南路の温もりと恐ろしい血の記憶だけが、阿雪にこの世をこの世として認識させているからだ。
「なー、いるんだろ?雪哥ー!起きろよ、なーッ!」
人が近寄らぬ筈だが、唐突に声が路に響いてあばら家の外壁を撃った。それはあどけなく明るい少年たちの声だった。やがて、建付けの悪い錆だらけの鐵閘をけたたましい音をたてて開けるなり、鍵の掛かっていない扉を開けて入ってくる。
「起きろ―ッ!今日はおれたちに詠春拳おしえてくれる約束だろ!」
「雪哥、腹減ったよ!李さんのとこ行って粥食べようよォ」
少年たちは口々に言いつつ毛布の小山をみつめてから、顔を見合わせて目配せをする。一斉に小山へ飛び掛かったかと思いきや、それはふわりと躱して靡き、少年たちはがら空きになったマットレスの上で盛大に跳ねた。
「よォ、おまえら。ちょっと早いンじゃねえのか?」
眠気のかけらもない涼しい声が、タイルの床の上で揺らめくお化けのような格好になっている毛布から響くなり、さっと取り払われる。
外套のようにして羽織った毛布から零れる豊かな髪は、血の惨事を目撃したあの日、余りの衝撃に耐えきれずにその色を失ったままだ。絹糸のように艷やかな白く長い髪は背の中ほどまであり、褐色に近い膚に映えて少しも違和感はない。
顔立ちは繊細さが漂うも黒い柳眉はきりりと凛々しく優雅で、鳶色の眸はまるで悪戯坊主そのものの笑みを湛えて少年たちを見つめている。
「早くないよ!もう朝の八時だぞ!俊杰なんかとっくに学校行ったもんな!」
「子豪…、光然…、おまえらも来年から通うんだぞ。今日は詠春教えてやるから、読み書きの手習いも真面目にやれよ?…でなきゃ、晩飯抜きだ!」
「えぇ~!?ひどいや!」
不満の声をあげて膨れっ面を向けてくるが、この二人がとても素直で勤勉なのを阿雪は良く知っている。そして二人共がかつての己と同じ親がいないも同然の境遇なのだ。頼れるのは九龍城寨の心ある大人たちだけだ。
阿雪は己が“壊れて”いることを自覚しているし、もうこの九龍城寨から出ては生きていけないことも自覚している。時折前触れもなく、この世がこの世でないような強烈な感覚に囚われ、生ける屍のように感じるのだ。これに陥るとき、阿雪は自我を保てなくなる。その間、何処で何をしているのか殆ど記憶がない。気がつくとこの場所に居るか、何処かの路傍の袋小路でぼんやり座り込んでいたりする。
生きることを諦めているとも言えるが、それは少し違う。阿雪を辛うじて現世に留めているのがほかならぬ玄志であり、かれから学んだ詠春拳なのだ。武術に対する情熱と誇りと良心に従って生きる心根が、あの惨劇に見舞われたあとも折れなかったことに阿雪は感謝している。
学校に通ったことすらないが、玄志が惜しみなく与えてくれた教養と学問を携えて独学で勉学も続けていた。この二人のような子供たちは、九龍城寨に少なからずいる。阿雪はそんなかれらを支えてやり、明るい表の世界へ送り出してやりたいと思って日々を生きているのだ。
“オレはどうなったっていい、こいつらが正しく生きてくれさえすれば”
子豪と光然に片手ずつを繋がれて引かれながら、“安らげる家”をあとにする。
生き物のように絡み合いながら増殖する建物が犇めく龍城路から見上げる空は僅かだが、その青天の色と吹く風の匂いは表の世界と何ら変わらないものなのだ。
“今日は少し、心が軽いみたいだな”
危うい均衡を保つ己の裡を観察したあとに安堵を覚えた阿雪は、こちらを振り返りしながら手を引くふたりの少年へ微笑み返した。
宇龍SIDE・序
何時もと変わらない朝のルーティンをこなしながらも、夏宇龍は鏡の前で己の顔を映したあと、眉間に寄った皺を指先で揉み解した。それから険しい仏頂面に苦笑いを浮かべ、首を横に振りながら息を吐く。その次には太陽の如き笑顔を作ると、煩わしい公務をひとまず思考から吹き飛ばしてみせる。
今日は非番だ。せっかくの日を台無しにしたくなかった。…と言ってもデートの約束があるわけでもないのだが。
宇龍には妻はおろか恋人さえいない。刑事が、というよりも警察官が天職だと思っているせいか、その使命を優先させると必然的に“そういったこと”は置き去りになってしまう。
別段それで困ったとか焦りを覚えるだとかいうことは全くない。大切に思い、また大切にしてくれる友人が数多くいるし、宇龍にはそれで充分なのだ。唯一の難点といえば、その友人たちは週末休みが殆どで、平日の非番が多い身としては会える面子が限られることくらいだろうか。
火にかけたフライパンに左手だけで卵を割り入れて箸に持ち替え、見もせずにスクランブルエッグを拵えつつ右手では蒸した鶏むね肉を甘辛いタレの入ったボウルにくぐらせる。
サラダをたっぷりのせたバゲットの上に削ぎ切りになっているそれをテンポよく置いてゆく。最後に半熟のスクランブルエッグを広げて挟めば出来上がりだ。
休日の朝食はだいたいがサンドイッチだ。バゲット一本分使って作るが自分で食べるのはその三分の一程度で、このバゲットを焼いている張本人の所へ持って行く。
友人の徐明然は、パン屋兼カフェを営んでいる。それも、わざわざ夜に賑わう諾士佛台に店を構えており、早朝から店を開き夕方には店を閉めるというなんとも天邪鬼な姿勢でありながら、そこそこの人気店…らしい。本人曰く、知る人ぞ知るを敢えて狙ってそうしたのだとか。
その人気店の店主が、いつ頃からか忘れたが、ときどき非番の前日になると宇龍の家を朝早くに訪れては、焼き立てのバゲットを置いてゆき、
「これ、材料の配合変えてみたんだよ。明日の朝、何か合いそうなモン挟んで持ってきてくれないかな?」
などとにこやかに訊いてくるものだから、そもそも友人からの頼みを断る理由を持ち合わせていない宇龍は素直に頷き、以来ずっとこの遣り取りが続いている。
ときに危険な任務に就くこともある職業だけに、いつが非番だとか外に漏らしたことは一度もないにも拘らず、明然はほぼ正確に宇龍の非番を把握している。それが不思議で仕方ないのだが幾度か訊いても、
「長い付き合いだし、そのくらいわかるさ、…前にも言ったろ?」
と、その度に、さも当然のように呆れ顔で返されてしまうのだ。頼まれ物を携えて店に行けば、いつも宇龍の好きな銘柄の珈琲を淹れてくれるし、作ったサンドイッチを分け合って食べるのが当たり前になっている。
それが明然なりの思いやりであり、宇龍を案じていることがわかってからは、それ以上問わずに穏やかな朝のひと時を提供してくれるのをありがたく受け取っている。
「お、先週の老龍坑あたりの捕り物はえらい騒ぎだったらしいが、生きてたのか阿龍よう」
深水埗の居心地の良い古い大厦に借りている自宅からバイクに乗って、何時もの時間に明然の店を訪ねた宇龍は、カフェに入るなりその言葉を聞いてげんなりする。
非番の日に公務の話はしたくないのだが、と声の主をみれば徐明然の父親である。少なからぬ恩もある人に対してあからさまに嫌な顔を見せるのは失礼かと思いもするが、眉間はそれに反して険しくなるのをやめない。
「くそ真面目な奴だな、相変わらず。せっかくの非番に事件の話を聞かせろなんて野暮を言う訳がないだろう、この俺が。…さ、ゆっくりしていけ」
笑いながら席を立とうとした父親へ、カウンターから呼びかける息子は見慣れたコック服姿だ。
「オヤジこそ、宇龍の作ってきてくれたサンドイッチを食っていきなよ、美味いから。店のメニュー、もう二つもこいつの名前ついてるんだぜ?」
そう言ってからまるで己の手柄のようにふんぞり返った。そうなのだ。こうして宇龍が携えてくる“頼まれ物”は、店主の舌に適ったものの中でいくつかが実際店で採用となり提供されている。
「おいおい、阿龍。こいつからマージン少しふんだくったっていいんだぞ?」
「伯父…俺は曲がりなりにも警察官なのですが…?そもそも、友人からそんなものは頼まれても受け取りません」
またしても眉間に皺を…というよりも今度こそ仏頂面になりながら心外極まりないという思いで言葉を返す。
「冗談だ、冗談!…全くもってお前さんは真っ直ぐな奴だなあ、ガキの頃から変わりやしねえ」
カウンター向こうの明然へ、拵えてきたバゲットサンドを渡すと、それと入れ替わるようにして淹れたての珈琲が目の前にそっと置かれる。
「…オヤジは、もう少し年甲斐があった方がいいと思うんだけどなぁ…」
「やかましい、このドラ息子が!」
「そりゃないよ、この通り毎日一生懸命働いてるじゃないか」
「阿龍にタダで店の商品開発を手伝わせといて、どの口が言いやがる」
「タダじゃあない。そもそも…僕はそんな薄情な人間に育った覚えなんかないんだけどな」
「この莫迦、俺だってそんな風に育てた覚えはねえ。もっと友達を大事にしろと言ってんだ」
「心外だなあ、大事にしてるよ!もー、…宇龍、このわからず屋のオヤジに何とか言ってやってよ」
冷めないうちにと珈琲を啜って、他愛もない父子喧嘩を横目で見遣りながらも可笑しくて仕様がなくなり、宇龍はとうとう吹き出した。
「はは…っ、徐伯父と明然は、相変わらずだなぁ」
破顔一笑。宇龍は笑うと途端に気の良い青年の顔になる。特に明然を含めた学生時代からの友人たちは、みんな宇龍を案じていた。警察官に―特に刑事になってからは険しい表情が多くなり、爽やかな雰囲気も朗らかさも消え失せてしまったように感じているからだ。
「お、やっと笑いやがった」
「ホントだね」
カウンターを挟んで言い合っていた父子はそんな宇龍を認めて安堵の微笑みを向けずにはいられなかった。
「これから大変な時期だろうが、この店に居るときくらいはそうして笑っててくれると、僕も嬉しいよ」
焼き立てのフカフカなパンのような温かみのある笑顔と言葉に、宇龍は観念して頷き返した。
“大変な時期”というのが何を指しているのか、香港に暮らす者なら誰もが恐れている魔窟と化したあの九龍城寨への、香港警察の対処についてだ。
今年、英中共同声明調印という大きな動きがあって漸く九龍城寨への巡回が許され、早速、巡回班が組まれた。特に腕の立つ宇龍を始めとした若手の警察官を派遣する方向で、つい先日話が固まったところだ。
「…実は、これから行ってみるつもりだ」
「嘘だろ…?」
「いいや、嘘じゃない。今後の巡回の為だけに行くわけじゃないから、そんな顔をしないでくれ。ついでだ…ついで」
その“ついで”とか“ちょっと”などという言葉ほど当てにならない。事件の捜査でもないときに限って何かしらトラブルに巻き込まれたのは一度や二度ではない。
人の良さそうな明然の顔に心配の二文字しかないのを認めて、宇龍はもう一度説得するように屈託のない笑顔を向けて見せた。嘘の付けぬ真っ直ぐな性格だからこそ取れる手段で、宇龍の最大の武器だ。
笑顔に負けてしぶしぶ引き下がった明然だが、それでも宇龍へもの言いたげな眼差しを向けている。
「…確かに、あの“城南路”の件があった頃よりは格段に治安は良くなってるって噂は聞くし。…三合会も警察と切れて、露骨には表に出て来なくなってきてるものな。裏で何してるか…考えたくもないけど…」
“城南路”は香港警察内で最も禁忌視され、話題に上がることすらない忌避される事件だ。しかも未だに首謀者は逮捕されていないにもかかわらず、放置されたままである。正義感の強い宇龍には到底受け入れられない事態で、九龍城寨への立ち入りが可能になったこの機に独自の捜査を試みるつもりでいる。
「そうだな。廉政公署のおかげで、俺たちのような若手はかなり動きやすくなった。もう、そうそうあんな悲惨な事件は起きないし、起こさせやしない。だから心配するな」
それから宇龍は、せっかく拵えてきたんだからそろそろサンドイッチを食わせろ、と痺れを切らせた徐伯父と一緒になって腹が減ったぞと催促をし、また何事もない平穏な日常の空気に溶け込んでゆく。
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