第1話「渇愛」

 瞼越しに暖かな陽光を感じる。私はその光の方向を探ろうとして目を開く。隣に目をやると、ひとりの男が同じように目を閉じて仰向けに寝転がっていた。しばしその男の寝顔を見つめていると、不意に誰かからの視線を感じてとっさに目をそらす。じっと私の死角から裁縫針で私の心臓をちくりと刺すような、奇妙で鋭い痛みを感じる。その視線の主に悟られぬようそっと辺りを見渡すも、同じように暇そうに芝生に寝転がる学生や、キッチンカーに並びながら世間話をする教職員の姿しか見えない。私の思い込みだったのだろうか。

 隣で寝息を立てて寝ている男、大沢さんに目をやる。彼は穏やかな表情を浮かべながら心地よさそうに芝生の上で太陽の熱を吸い込んでいた。彼はすっかり昨日の出来事など忘れたかのように、こうして私の前に無防備な姿を晒す。薄い胸が一定のリズムで上下するのにつられて、私の呼吸も重ねてしまいそうになる。

 この場から早く離れたかった。私は片手で彼の肩の辺りを指先でつまむようにして彼をゆすり起こす。

 メガネ越しにその切れ長の大きな目が開いたかと思うと、彼は勢いよく頭を起こす。

「あれ……どのくらい寝てた?」

「十五分ほど」

「よかった……」

 彼もまた上半身を起こして辺りを見渡した。やや長い髪と剃り残しのある髭に彼の生活態度が表れていた。ゆっくりと立ち上がって服についた芝生を手で丁寧に払う。彼は置いていた弁当のゴミを手早くビニール袋にまとめる。私も同じ袋に自分の食べ終った容器を入れさせてもらう。

「そろそろ戻らないと。測定結果が出ているはずだ。次の予約が入っているから急がないと」

 彼は髪の毛に芝生がついていないか気にするように髪を何度もくしゃくしゃとかき回しては何かまたもぞもぞと独り言を言いながら研究棟へと急ぐ。私も後を追いかける。彼の姿は細く、そしてぎこちない歩き方をしていた。ニューバランスと書かれた靴が、左右非対称、アンバランスに削れているのを見て少しおかしく思う。

「田辺さんはこれから?」

 研究棟の自動ドアにIDカードをかざしながら彼は問う。

「私は器具の洗浄をしたら子供の迎えがありますので」

「あ、あぁ、そうか、そうだった。子供の迎えね、子どもの迎え」

 彼は思い出すように言葉を繰り返すとエレベーターのボタンを二つ押す。すぐに開いたドアに我々二人が入り込む。

 湿っぽいエレベーターの中の空気。沈黙の時間。私はフェルトのような壁の剥がれかかった部分をそっと爪で弾く。フェルトは鈍い音を立てて私の方へと跳ね返ってきた。

「五階です」とエレベーターが告げると、私はフェルトから目を離して開いたドアから廊下に出た。

「では、また」

 とエレベーターに残る大沢さんに会釈をして私は研究室へと向かった。

 居室に入ると、薄い壁を通じて学生が何やら騒いでいる様子が聞こえてくる。お昼の時間帯ということもあり、他の教職員は誰もいない。緩んだままの蛇口から滴る雫は一定のリズムをシンクで奏でている。古い冷蔵庫のコイル鳴き。微かな試薬の匂い。いつもと変わらないはずの部屋。

 私はそっと部屋の中央に置かれた灰色のテーブルに触れる。彼――大沢さんは昨日、ここで私を口説いた。


 昨日、終業時間の直前になって、居室から誰もいなくなった瞬間を見計らったかのように彼は私を呼び止めた。いつもと違う微かに震えた、濡れた声に私はどこか懐かしい緊張を抱いて彼の方を向いた。なぜ懐かしく思ったのかはわからない。その声色の響きにただ惹かれてしまった。

 そして彼は私に向けて自分の思いを打ち明け始めた。私は自分でも赤面しているというのを感じながら、彼の胸あたりを見つめ、じっと彼の言葉ひとつひとつに耳を傾けていた。

 彼は相当に準備した原稿を読み上げるように淀みのない言葉を私に投げかける。私はこれが愛の告白であることを理解しながら左手の薬指に収まっているリングをくるくると触り続ける。彼の言葉ひとつひとつは素朴なものだった。どこにでもありふれた、感情の羅列。だけどその奥に私にだけ向けられた感情が確かに感じられた。彼は最後に小さくため息をついて「以上です」といって話を終えた。私は顔の火照りが悟られていないか、そして誰かにこの告白が聞かれていないか気になってドアの方を見たりして、そして彼の目を見た。彼はまっすぐ私の視線を受け止める。

「私、知っての通り結婚してますし、子供もいます」

 結婚後にこうしたアプローチを受けるのは初めてだったが、自然と迷いなく口から出たのは断り文句だった。左手の薬指のリングに触れる。これが何か知らないほど彼は世間知らずではないはずだ。

「あぁ……うん、知っている。もちろん……それが何であるかは。そして田辺さんが既婚者であることも、もちろん」

 私の左手に向ける彼の視線に哀しさとも諦めともいえぬ何かが宿っているようにも見えたが、それ以上に安堵のような表情を浮かべていた。彼はテーブルの上に転がっていたペンを取っては落ち着きなくキャップを外したりつけたりしてカチカチと音を鳴らし続けていた。

「知っている。大事な契の印だ」

 まるで自分に言い聞かせるように彼は言葉を繰り返す。

「でしたら――」

「いや、僕の気持ちを伝えたかった、それだけなんだ。僕は別に君に不倫を持ちかけているわけじゃない。伝えないと、自分が……いや、自分を見失いそうだったから……。本当に一方的でごめん」

 私は『不倫』というドラマでしか聞いたことがない単語に内心焦りながらも彼の言葉の続きを待った。彼の手元のペンが部屋に不規則な時を刻む。冷蔵庫がカタンと音を立て、不気味な低音を部屋に充満させていく。自然と力が入った手のひらには汗が握られていた。

「渇愛って知ってる?」パチン、とキャップを閉めて彼は言う。

「カツアイ? ……話を割愛する、とかのカツアイですか?」

「いいや、渇いた愛と書いて渇愛。喉が渇いた者が激しく水を求めるような、そんな執着を表している」

 彼はペンのキャップを再びパチンと鳴らして、机の上に手を置いてペンを見つめる。青色のペンに二人の視線が重なるも、私にはまるでその中身は見通せそうになかった。

「渇愛は……きっとこうでもしないと乗り越えられなかったんだ」

 彼は言いたいことを言い切ったように再びカチンとペンのキャップを鳴らすと、そっと机に置いて「帰り際に引き止めてごめん」と言って私に背を向けた。私はしばし立ち尽くしたままだったが、それが話の終わりであることをようやく理解し、まとめていた荷物を持って静かに部屋を出た。


――あの告白は何だったのだろう?

 私は彼が握っていたペンを持ち上げる。別段何も特別ではないありふれた青色の普通のペンだ。同じようにカチカチと音を鳴らしてキャップを開け閉めしても彼が抱いていた奇妙な感情は聞こえてこない。渇愛……私はこの言葉に覚えがあった。どこか記憶の奥底にしまい込んだ言葉の中に、その存在があることは確かだ。

 むず痒さを振り払って私は時計を見る。風輝の保育園の迎えまでの時間を思い出すと、慌てて実験室へ向かって器具の洗浄に取り掛かった。ゴム手袋をはめ、習ったとおり丁寧にガラス器具を洗浄していく。学生や研究員が使い終えた器具はオレンジ色の桶に洗剤とともに浸かっており、私はそこからひとつひとつ器具を取り出しては水筒を洗うような円柱状のブラシで擦っていく。

 ほとんどの器具は目に見えて汚れていない。うちの明宏や風輝が食べた後の皿のほうがよっぽど汚い。だけど目に見えない汚れがそのガラスの内側には確かに張り付いていて、少しでも残そうものならこの器具を使うすべての実験に影響が出てしまう、と聞いた。家庭用よりも遥かに強力な洗剤液にブラシをくぐらせ、丁寧にひとつひとつ洗い上げていく。

 汚れがはっきりと目に見えないこと以外は、普通の皿洗いとそんなに変わらない。汚れた皿、汚れたフォーク、汚れたコップ。綺麗に盛り付けたはずの料理も、最後にはただぼんやりとした茶色いしみとなって返ってくる。だけど目の前の透明なガラスは最初から透き通ってきれいに見える。不思議な皿洗いだった。

 仕上げに純水ですすぐ。水道水にはカルキとか色々不純物が含まれている。そうした不純物を取り除いた純水ですすいで、乾燥機に入れてこの作業は完了する。

「お、まだいたんだ、田辺さん」

 ちょうど乾燥機に入れ終わった時、大沢さんが実験室に顔を出した。私の心臓が微かに跳ねる。あわてて取り繕った笑顔を彼へ向ける。

「今終わったところなので、これから帰ります」

「そうなんだ、お疲れ様」

 彼はさして興味がなさそうな反応をして、実験卓に何かを置いてすぐに実験室の扉を閉じた。どういった心境で彼は私に接しているのだろう? そんな疑念を抱きながら私は彼が再び実験機材を抱えながら入ってくる様子を眺めていた。

 私はゴム手袋を流しにかけ、廊下に出てトイレで用を済ます。ゴム手袋の臭いを落とすように丁寧に石鹸で手を洗って、顔を上げる。肩にかかるまで伸びた黒い髪。前髪に隠れた細い眉。小さな鼻と小さく尖った唇。いつも通りの薄く整えた化粧。何も変わっていない。私はハンカチで手を拭いて、それから居室へと戻った。

 大沢さんはは部屋に入ってきた私に一瞬視線を送ると、またそのまま手元の論文へと目を落とした。私は彼の邪魔をしないようにそっと荷物をまとめ、ドアノブに手をかける。

「あ、田辺さん、待って」

 大沢さんが手に持っていた論文を置いて私の方に向き直る。彼が座る古い椅子が音を立てて軋む。彼の落ち着いた瞳が一瞬私の目を捉えたが、私はすぐに少しだけ目をそらした。

「メスシリンダーはブラシで洗わないでほしい」

「メスシリンダー?」

「円柱状のガラス器具。目盛りがついていて、液体を測るための器具」

 私はぼんやりと今日洗った中にそのようなガラス器具があったことを思い出す。

「赤い目盛りの?」

「そう、赤い目盛り」

 彼はギシギシと椅子をいわせながら足先を組み、持っていたペンをカチカチと鳴らす。

「メスシリンダーは液体を正確に測るための器具だ」

 彼は重要なことのように説明を始める。

「ブラシみたいな硬いもので内側を洗ってしまうと、小さな傷がつく。目に見えない、とても小さな傷だ。だけどその傷がメスシリンダーの内側につくと、ほんの少しだけ本来よりも多く液体を多く入れてしまう」

「どんなにわずかな傷でも?」

「ああ、そう。一度ついてしまった傷は元には戻らない。そうなるとその器具はずっと狂ったままだ。そして目に見えないだけに誰も気づかない。静かに実験系が狂っていくんだ。……だから、少し、ちょっとだけ気にしてほしい」

 彼は軽く頭を下げて、パチンと音を立ててペンの蓋を閉めると、ぎこちなく私に微笑んで再び机へと向かった。

「すいませんでした、知らずに……」

「いやいや、いいよ。いつもありがとう」

 彼は顔を上げずにそう答えると、また静かに論文を読み始めた。私は今度こそ部屋を出た。

 消えていた廊下の照明が私の気配を察知して点灯する。上履きを靴箱に戻しながら腕時計に目をやり、風輝の保育園の迎えの時間が迫っていることに気づく。急がないといけない。

 研究棟を出て夕闇迫る芝生を抜け、大学の駐車場に停めていた車に乗り込む。静かなエンジン音に包まれながらシートベルトを引き出す。ハンドルを握る右手の甲の傷を見つめて、それからパーキングブレーキを踏み込んだ。

 ゆっくりと春爛漫な通りを抜ける。大学構内には至るところに桜の木が植えられており、その小さな白い欠片を静かに散らしていた。白い花弁が散っていく様は私に小さな喜びを与えてくれる。触れなくとも自壊していく繊細な花。窓を開けて外の空気をめいっぱい吸い込む。すっかり春の匂いが辺りに立ち込めている。ぼんやりとその景色を眺めつつ構内を走り、校門を出る頃にはいくつかの白い欠片がフロントガラスに貼り付いていた。

 ――傷ついたメスシリンダーはその容積がほんの僅かに大きくなる。目に見えない傷、目に見えない狂い。そしてその傷は元には戻らない……。私はその言葉を反芻する。

 しばらく走り、緑色の柵に囲まれた保育園の前に私は駐車した。私は緑色の柵の向こうに自分の息子の姿を探した。今月から入ったばかりの環境にうまく馴染めているか心配だった。私の姿に気づいた保育士が緑色のエプロンをはためかせながらこちらへ駆け寄ってくる。

「お世話になっております、風輝の母です」

「風輝くんのお母さん、どうもお世話になっております。どうぞ」

 緑の柵の隣に設えてあった扉を彼女は引いて私を中へ迎え入れた。私は風輝を探してゆっくりと歩いていく。園内に植えられた桜から、自壊の欠片が子どもたちに降り注ぐ。子どもたちはその欠片を気にも留めず、自分の目先の興味に囚われていた。

「風輝、帰るよ」

「うん」

 風輝は素直に返事をしてもぞもぞとジャングルジムの下から這い出てくる。その小さな姿を眺めながら私は保育士に顔を寄せる。

「風輝、他の子とは馴染めているのでしょうか」

 保育士は少し困った顔をしながらまだ入ったばかりですから、大丈夫ですよ、と当たり障りのないことを言う。風輝が土まみれになった手で私のズボンに嬉しそうにしがみつく。私はその手をそっと払い除けて手洗い場に連れていき、手を洗わせ、ハンカチを渡した。

「はやくかえろ」と風輝はハンカチを私に返す。

「はいはい、帰ろうね」

 私は彼の小さな温かい手を握ると、保育士に挨拶をして車へと戻る。

「今日は何したの?」

 低いエンジン音と開いた窓から吹き込む風に負けずと少し声を大きくしながら風輝に尋ねる。風輝は自分の爪に挟まったジャングルジムの塗料を取り出すのに夢中になっている。

「おもちゃで遊んだ」と答える。

「そっかそっか、どんなおもちゃ?」

「なんか、棒みたいなやつ! それでお手玉をバンバン飛ばすの!」

 風輝は嬉しそうにいかに自分が思いついた遊びが面白いかを私に詳しく説明して聞かせた。ぼんやりと信号の向こうに色とりどりのお手玉を弾き飛ばす風輝を思い浮かべる。紫色に染まっていく空にぽつりぽつりと白色の街灯が浮かび上がってくる。風輝もぽつりぽつりと話題を変えては楽しそうに話を続けた。

 私はこの穏やかな時間に対してやはり得も言われぬ不安を抱いていた。私は間違ったことをしていないと、自分の行動を逐一振り返っては確認している。このままでいい、という気持ちとこのままでいたなら私はきっと満ち足りないままで一生を終えるのだ、という焦燥感……そうしたものがひどく入り混じっていた。

 

「ただいま」

 明宏が帰ってきた気配で目を覚まし、私はハッと体を起こす。食後、洗濯を回して風輝を寝かしつけているうちに私もいつの間にか寝てしまっていた。時計を見ると十時を過ぎていた。

 風輝を起こさないようにそっと寝室を出て彼を出迎える。彼は脱衣所をちらと見て「洗い終わった洗濯、残っているんだけど?」というような視線を私に向ける。

「ごめん、今から」

 彼は鞄をソファに投げるように置く。

「風輝はもう寝たのか?」彼はネクタイを外しながら話題を逸らす。

「うん、今日も保育園、楽しかったってさ」

「それはよかった」

 彼は穏やかな笑みを浮かべる。私の中の負の感情がふっと収まりをみせる。私はその彼の穏やかな笑みが好きだ。ふんわりとした温かみのある笑顔。

 明宏は私の父が営んでいた切子の工房で出会った。親しい友人が結婚するとかで、そのための贈答品を買い求めに来ていた。彼は日をおいて何度か工房に足を運んでは慎重に選んでいた。真剣に切子を眺めながらひとつひとつの繊細な模様をその黒い瞳に浮かべていく様子に、私はなんとなく惹かれていった。

 切子を選ぶ傍ら、ギャラリーに併設されたカフェで私達は自然と話すようになっていった。工房のこと、父のこと、母は既に他界していること。彼の仕事、周辺の美味しいお店、彼の両親のこと。そうして言葉を交わしているうちに親しくなり、彼が贈り物のペアグラスを決めた時、私に連絡先を手渡してきたのが交際の始まりだった。

 彼はスーツを脱いでハンガーにかける。私はそのスーツを受け取る。彼はそのまま風呂場へと向かっていく。その背中を見送ってから私は彼の夕食の準備を始めた。

「あ、そうそう。私週末に由岐と久々にランチ行ってくるから」

 脱衣所で服を脱いでいる明宏に向かってそう叫ぶと、ああ、と小さな返事だけが返ってきた。私は鍋の食材を弱火で温めながらスツールに腰を掛けてぼんやり揺らめく青色の火を見つめていた。


 私は母の死以降、ずっと何か満ち足りた感覚を見失っていた。その欠けている要因が何であるのか、ずっと考えていた。

 明宏が日中仕事に出ている間、子供と二人きりの日々は徐々に私に狂気をもたらした。元々余裕のない心がいよいよおかしくなったとき、私は風輝に手をあげるようになっていた。子供というものは大抵理不尽だ。私は理不尽なものにやるせない怒りを日々抱いていた。他人の見えない感情に由来する理不尽は尚の事私を苛立たせた。

 ある日、風輝が昼寝をした隙に庭に出て草をむしっていると気持ちが少し和らぐことに気づいた。それからは来る日も来る日も草をむしり続けたが、やがて庭には草も根もなくなり、気づけば花壇の花は全て丁寧にちぎられてゴミ袋に詰められていた。私はちぎれてゴミに紛れた色とりどりの花弁が、透明なゴミ袋に詰められている様子に安らぎのようなものを感じ取った。

 そうして花をちぎるという悪癖は子供を私から守るための習慣として始まった。スーパーの店先に並んだ季節の花を買い物の度に買い求めて、誰もいない時を見計らってはちぎっていく。特に青い花をバラバラにするのが何よりも私に安らぎをもたらした。胸の奥深くにある青い紫陽花をその花に重ねては一枚ずつ花弁を剥いていく。買ってきたレジ袋を広げて、丁寧に丁寧に時間をかけてその中へと解体していく。指先が生きた青色に触れる度に右手の甲に刻まれた古傷に奇妙な快感を覚えた。

 この奇妙な自傷行為はゴミ袋に一杯になった花が明宏に見つかるまで続いた。明宏にその理由を問い詰められるも私はうまく言葉にすることもできず、育児の負担を減らして趣味やパートの仕事を見つけるということで話を収めた。

 そしてこの研究室の技術職員に応募したのは昨年の秋頃だった。すぐに面接があって採用も決まった。単純に家から近いのと、大学という保証された場所というのが応募の動機だった。

 風輝の保育園の都合上春からの採用にしてほしいと何度もお願いしたが、すぐにでも後任としてきてほしいといって向こうも譲らなかった。結局隣町に住む高校からの友人の由岐に風輝の面倒を見てもらっていた。彼女は在宅ワーカーで独身であったため、私が無理を承知でお願いしてみたら快く引き受けてくれた。私が問題を抱えていることを彼女はそれとなく気づいている様子だったが、表立って私にどうこう言ってきたりはしなかった。そうして私のその悪癖は静かに終わったのだった。

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